シーパワー500年史 39

 太平洋戦争は、山本五十六長官の発案したハワイ奇襲作戦で始まります。これは極めてギャンブル的な作戦であったことから強く反対されますが、山本長官は職を賭す決意を示して作戦を強行します。作戦は大成功を収めますが、戦争全体から見ると失敗でした。

 第一段作戦が予想外に進捗したために、第二段作戦への移行にあたり細部の調整ができていなかった陸海軍はまたもや対立します。この時、短期決戦を心ひそかに期していた山本長官は、計画になかったミッドウェー作戦をまたもや強引に組み込みます。パールハーバーで取り逃がした米空母を誘い出そうとしますが、海戦史に残る大敗を喫してしまいます。

 第一段作戦の大きな目的であった南方資源地帯からの日本への石油輸送は開始されますが、まもなくタンカーの不足に直面し、国家戦略であった大東亜共栄圏が成り立たなかったことが証明されてゆきます。

▼第1段作戦 ハワイ作戦

 帝国国防方針第三次改訂にもとづく海軍の作戦は、第一段作戦として東アジアの敵艦隊を撃滅するとともに陸軍と協同して南方資源地帯を占領し、第二段作戦として敵主力艦隊を漸減邀撃作戦で迎え撃つというものだった。

 しかし、開戦直前になって連合艦隊の強い要求で開戦初頭のハワイ作戦が採用された。これは、南方の資源で長期戦を戦うという計画を非現実的と考えた山本五十六連合艦隊司令長官が、「開戦劈頭有力なる航空部隊を以て敵本陣に斬込み彼をして物心共に立ち難き迄の痛撃を加ふる」ことにより、短期決戦を成立させようと考えたものだった。

 空母6隻を投入してハワイを奇襲するこの作戦は、3,000マイルに及ぶ大艦隊の行動の秘匿、冬の北大西洋での洋上補給、浅いパールハーバーでの魚雷攻撃など非常な困難が見込まれ、失敗すれば開戦初日に戦力の大半を失いかねないギャンブル的な作戦であったことから軍令部の強い反対にあった。これに対して山本長官は職を賭しても断行する決意を示して作戦を強行したのだった(1941年12月)。

 奇襲は事前の周到な準備と敵の油断にも助けられて成功したが、山本長官の意図は部下指揮官にさえ十分理解されておらず、「艦隊決戦一本槍でやってきた連合艦隊はすっかりこんがらがり、またその作戦の血の凍るような冒険性に必至にやってのけただけだった」というのが実情だった。(吉田俊雄『四人の連合艦隊司令長官』)

 戦術的には完ぺきで、作戦としても西太平洋の制海権を握ることができたために南方作戦は極めて順調に進捗した。しかし、肝心の米空母を取り逃がし、パールハーバー基地の燃料タンクや修理施設は無傷で残ったため、半年後のミッドウェー海戦では米空母の急速展開を可能にして、痛恨の大敗を招くことになる。

 戦略的には、米空母が被害を免れた一方で戦艦群が沈められたこともあり、日本海軍が証明した航空主兵の戦い方や戦略にいち早く変革できたのは米海軍の方であり、その国力を活かして次第に日本を圧倒するようになる。

 何より問題だったのは、最後通牒の手交がおくれて騙し討ちの汚名を着せられ、アメリカ国民を「リメンバー・パールハーバー」の大合唱で一致団結、国の総力を挙げて対日戦に立ち上がらせたことであり、山本長官の意図は完全に裏目に出て、太平洋戦争の大きな敗因となってしまった。

▼マレー沖海戦 航空機対戦艦の戦い

 真珠湾攻撃とほぼ同時に陸軍部隊がマレー上陸作戦を開始したのに対して、英東洋艦隊主力がこれを阻止しようと出撃し、英最新鋭戦艦など2隻が日本海軍の攻撃機により撃沈された(マレー沖海戦)。ハワイ作戦に続く大勝利で、付近海域の制海権は完全に確保されてマレー攻略作戦の海上輸送は順調に行なわれシンガポール陥落につながり、第一段作戦の展開に大きく寄与した。

 この海戦は「航空機対戦艦」という海戦史上初の組み合わせになったが、結果は戦艦の完敗に終わった。航空機は遠距離の基地から発進し、攻撃効果が限られる逐次攻撃になるという不利な条件であったが、被害はわずか3機に過ぎなかったこと、撃沈された「プリンスオブウェールズ」は対空装備も極めて優秀な最新鋭の高速戦艦であったことを考えあわせると、航空機の絶対優位が実証されたことは明らかであった。マレー方面と同時に着手された比島作戦も順調で、進撃した陸軍は占領地において基地を整備して制空権を南方に広げてゆき、ジャワ島上陸が開始された。

 カムラン湾とミンダナオ島から東西に分かれてジャワ海に入った日本上陸部隊と、それを阻止しようとした米英豪蘭連合海軍部隊との遭遇戦がスラバヤ沖海戦(1942年2月)とバダビア沖海戦(同年3月)であり、日本が勝利しジャワ島を含む南方要域の占領という作戦目的を達成した。この間、アッツ島、グアム島、ビルマなどの攻略にも成功し、開戦後100日間あまりで西太平洋を勢力範囲に収めることができた。

▼インド洋作戦 イギリス東洋艦隊を退ける

 第一段作戦完了時の西側の防衛ラインを、ビルマ、アンダマン諸島、ニコバル諸島、スマトラ島を結ぶ線とするため、日本海軍はイギリス東洋艦隊の根拠地であるセイロン島を攻撃するとともに、カルカッタからビルマへの補給ルートを妨害するための通商破壊戦をベンガル湾で行い商船21隻を撃沈した(インド洋作戦、1942年4月)。

 戦いは日本側の圧勝に終わり、イギリス東洋艦隊はアフリカへ後退し艦隊保全策をとった。東洋艦隊が戦艦や空母で再び増強されるのは、1944年後半になってドイツ海軍の戦力が激減してからであり、名称も太平洋艦隊と改めて対日戦に臨むことになる。

 この作戦では艦爆隊の驚異的な命中率など日本機動部隊の威力が発揮されたが、一方で索敵機の報告ミス、攻撃機の爆弾と魚雷の転換遅れ、陸上機の奇襲を受けるなどの問題が起きたが対策がとられることはなく、ミッドウェー海戦の大敗の原因となってしまう。

▼アメリカの対応

 パールハーバー奇襲を受けて、アメリカは即日、対日無制限潜水艦戦を開始した。フィリピンとグアムを失った米軍は、オーストラリアの脱落を防ぐために兵力増強を支援するとともに、同国を反撃の根拠地とするため、米豪連絡線の確保に全力をあげるが、このためにはフィジーやニューカレドニアなど仏領の南太平洋諸島を防衛しなければならなかった。米海軍はすでに日本海軍の暗号を解読しており、日本のFS(フィジー・サモア)作戦の情報を得ていたのだ。

 しかし、ハワイの戦艦部隊が壊滅し、「レインボー5」に基づく「連合国統合戦略計画ABC-1」では対独戦が優先され対日戦は後回しだったので、必然的に当面の対日戦は太平洋所在部隊による守勢的作戦とならざるを得なかった。

 一方で合衆国艦隊司令長官のキングは、米豪連絡線の強化に加えて日本のオーストラリア侵攻を阻止し、日本軍の戦力を消耗させて反攻のきっかけを作るために、ツラギ島とガダルカナル島を日本軍から奪還する計画(ウォッチタワー作戦)を統合参謀長会議に認めさせた(1942年7月)。この作戦で水陸両用戦を担当する海兵隊は、それまでの機動性を重視した海兵旅団から戦闘単位としてより自己完結性の高い海兵師団に増強して作戦に臨むことになった。

▼第2段作戦(攻勢作戦)への転移 戦争構想の大転換 

 第一段作戦が終わった時点で陸海軍間の第二段作戦の細部の調整はできていなかった。米軍を短期決戦で撃滅することは困難で、米側も当面ヨーロッパ正面を優先するので極東方面はしばらく防勢をとるだろうと見積もり、第一段作戦を達成したら長期持久の作戦に移ることがもともとの構想だった。

 ところが、少なくとも5カ月を要するとみられていた南方資源地帯の占領をわずか3カ月で達成した陸海軍は、次期作戦の方針で対立する。陸軍は、既定の方針に基づいて南方の兵力を中国大陸に転用して支那事変の早期解決を目指した。一方、海軍は開戦以来の連勝の勢いをかって、ハワイ、豪州、セイロン島攻略を狙い、現われる敵艦隊を片端から撃破して西太平洋からインド洋までの制海権を握ろうと考えた。「対米英蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」では戦争終結の時期として南方作戦の主要段落を考えていたのに、逆に戦線を大拡大しようとしたのだ。

 これは、短期決戦を心ひそかに期していた山本長官の考えでもあった。海軍は緒戦の大戦果を拡大し、ハワイ、豪州、セイロン島攻略を含む積極作戦による短期決戦を主張したが、陸軍は攻勢限界点を超えるとしてあくまでも長期持久態勢の確立を主張して対立した。

 結局、両者の主張を併記した「今後とるべき戦争指導の大綱」(1942年3月)が決められ、海軍はハワイ攻略などを断念する代わりに一部の豪州方面への積極攻勢作戦を実施することになった。陸軍は既定方針どおり南方の部隊を縮小して持久作戦に移行し、再び大陸方面を志向するというようにそれぞれに行動した。

▼ミッドウェー作戦の登場 ドゥーリットル空襲

 この大綱を受けてポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)が発令され(4月)、次いで米豪間の連絡線を遮断するためのフィジー・サモア諸島攻略作戦(FS作戦)が決定した(5月)。

 ところが山本長官は、FS作戦は作戦地域が遠すぎるとして消極的で、計画になかったミッドウェー島を攻略して米艦隊を誘出するためのミッドウェー作戦を計画し、軍令部の反対を押し切り、再び強引にFS作戦の前に組み込んだ。山本長官は、パールハーバーで取り逃がした米空母を積極作戦で誘い出して撃滅することを狙っていたのだ。

 このミッドウェー作戦の計画中に降ってわいたようなドゥーリットル空襲(4月)が起こる。開戦以来日本に押されていた米国が一矢を報い、米国民の戦意高揚を狙ったものだった。房総沖500マイルの米空母からB-25爆撃機16機を発進させ、東京など主要都市を爆撃し、その後は中国大陸に着陸するという極めて冒険的な作戦であった。爆撃の被害は小さなものだったが、真珠湾奇襲からわずか100日で敢行された日本本土への奇襲に日本国民は大きな衝撃を受け、ミッドウェー作戦の重要性が改めて認識されることになった。

▼珊瑚海海戦 史上初の空母対決

 日本軍のMO作戦を暗号解読で察知した米豪連合海軍部隊が、その阻止のために起きたのが珊瑚海海戦であり(5月)、史上初めての空母部隊同士の対決となった。日本海軍は、雷撃機と急降下爆撃機の組み合わせによる戦法をとったが、米空母部隊の輪形陣からの対空火器に阻まれて、米空母1隻を撃沈するにとどまった。日本側も軽空母1隻を失っているが、追撃の好機を活かさずMO作戦を延期してしまったため、連合軍側が作戦の目的を達成した形となった。

 この海戦では、敵空母に対する索敵の重要性、一発の爆弾でも飛行甲板が使用不能となれば空母の機能が失われること、そのために先制攻撃が重要となること、敵基地航空圏内での作戦は不利であることなどの空母戦の特質が明らかとなった。しかし、連合艦隊は敗因を井上成美長官の弱気にもとづく過早な作戦中止にあるとのみ見たため真の教訓をつかみ得ず、次のミッドウェー海戦に反映させることはできなかった。

▼転換点となったミッドウェー海戦

 連合艦隊のミッドウェー島攻略を阻止する米機動部隊との戦いがミッドウェー海戦(1942年6月)であり、主力空母4隻を多数の熟練搭乗員とともに一挙に失うという世界の海戦史に残る大敗となり、太平洋戦争の大きな転換点となった。

 この作戦は予定外のものとして計画されたため、作戦の準備や搭乗員の訓練、部隊の事前展開に無理があったうえに、作戦の主目的もミッドウェー島の攻略なのか米空母の誘出なのか混乱が生じていた。さらには、ミッドウェー作戦の採用と引き換えに軍令部の主張するアリューシャン作戦を追加してしまい、兵力の分散という重大な誤りを犯してしまった。

 作戦の要領もハワイ作戦と同じようなものだったので、軍令部からはそれを繰り返すことは「古来兵法の戒しむるところ」と批判された。ニミッツ元帥も戦後、「日本海軍は奇襲を必要としない場合にも奇襲に依存するという錯誤をおかした」と指摘している。

 加えて日本側には緒戦からの連戦連勝による油断や驕りが蔓延していた。事前の図上演習では、実戦と同じような空母の損害が出たものの、参謀長は「そうならないようにするから心配ない」として作戦計画などは修正されなかったうえに、秘密保持にも緩みが生じ、現場の部隊では敵空母は現れないのではないかとの先入観にとらわれて情勢判断を誤って敗北したのだった。

 対する米海軍側は、日本の暗号解読により作戦の全貌を把握しており、無傷のパールハーバーの兵站支援能力を発揮させて兵力の急速集結を行なっていた。また、空母の数で劣る米海軍はミッドウェー島の基地航空兵力をフルに活用して航空戦力比を逆転させることにも成功した。米軍の勝利には幸運も大いにあったと考えられるが、日本側はインド洋作戦や珊瑚海海戦で得られたはずの教訓がすべて敗因となったほか、多くの戦術的な過ちを犯した。

 ミッドウェー海戦後、日本海軍では艦隊編成を空母が中心となるように変更し、戦術も戦艦などを空母の前方に前衛として配置するように全面的に見直された。建艦計画も大幅に見直し、戦艦の建造中止と空母への改装、空母の大量建造、航空隊の大増勢に舵を切ったが、資材や生産力の限界から既に手遅れであった。

▼不足するタンカー

 第一段作戦の大きな目的であった南方資源地帯から日本への石油輸送は1942年4月から開始された。待望の石油は入手できるようになったものの、肝心のタンカーが不足し、国内沿岸用タンカーの半数以上が南方に差し向けられたほどであった。

 1943年に入ると、17万トンものタンカーが撃沈される。米潜水艦部隊が日本のタンカー攻撃を最優先するようになったためだ。1944年には82万トンが沈められ、この年の新造62万トンなどがなかったら、タンカーはゼロとなっていたところだった。

 1945年は、南方からの石油輸送が遮断されたために喪失は36万トンに留まったが、新造もわずか9万トンに過ぎず、タンカーの作戦用海軍艦艇への改造が行われたことで32万トンものタンカーが姿を消した。終戦時のタンカーは27万トンで、開戦時の58万トンの半分以下となったうえ、就航可能なものはわずか9万トンという惨状を呈した。開戦前の大東亜共栄圏に対する心配は的中したのだ。

【主要参考資料】 外山三郎著『日清・日露・大東亜海戦史』(原書房、1979年)、吉田俊雄『四人の連合艦隊司令長官』(文藝春秋社、1981年)、森本忠夫著『魔性の歴史 マクロ経済学からみた太平洋戦争』(文藝春秋社、1985年)

※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。