シーパワー500年史 38
太平洋の戦いです。日本はちぐはぐな国家戦略に導かれるように無謀な太平洋戦争への道をたどります。「ドイツも非常に勝っていることだし、バランスということもあるので、講和のキッカケはその間に出るだろう」と考えて開戦したのです。
山本五十六連合艦隊司令長官が強行した真珠湾攻撃は、太平洋戦争の大きな敗因になりました。また、日本海軍がマハン流の艦隊決戦を信奉していたのに対して、米海軍は対日作戦構想をマハン流から進化させ、日本海軍は裏をかかれたのですが、どういうことだったのでしょうか。
少し長くなりますが開戦の経緯から見てゆきます。
▼大戦勃発 成立しない大東亜共栄圏
日本が日中戦争の泥沼にあった1939年9月、第二次世界大戦が勃発した。日本は東アジアにおける英米中心の現状を打破して「大東亜共栄圏」を建設することを基本方針とする「基本国策要綱」を決定する(1940年7月)。大東亜共栄圏とは、日満支を中心とし、おおむねインド以東、ニュージーランド以北の南洋方面を含む広大な「自給圏」を建設する構想だ。
基本国策要綱を受けて大本営政府連絡会議は「時局処理要綱」として日中戦争解決の促進と南方問題解決の二つの目標を示した。陸軍は日中戦争の行きづまりを南方への武力行使によって打開して戦略転換を図ろうとしたが、海軍はまず日中戦争の解決を優先すべきとの立場をとった。海軍は、英米は不可分なので南方での対英戦は対米戦に連動して長期戦になる公算が高く、それを戦い抜く自信が持てないでいた。しかし、海軍が対米戦に自信がないと明言すると、陸軍から物資も人も寄越せと言われるから対米戦を絶対に回避するとは主張できない弱みと矛盾をかかえていた。
南進にはもうひとつの重大な問題が潜んでいた。それは蘭印における資源地帯を占領しても海上交通線の確保は容易でなく、資源を日本に持ち帰ることができない可能性が大きい。そうであれば蘭印攻略は無意味で、さらには大東亜共栄圏構想は成り立たないので、国策を抜本的に変更して、米英と協調する以外に日本の生きる道はないのではないかという根本的な問題だった。
このように基本国策要綱も時局処理要綱も、政軍間、陸海軍間の考え方の違いを整合できないまま策定されたので、結局、それぞれが自分に都合の良い主観的判断によって行動を起こしてゆくことになる。
▼日米対立の激化 日独伊三国同盟
日露戦争終結まで良好だった日米関係は、日本人移民をめぐる問題やアメリカが「門戸開放」で目論んでいた満州での鉄道経営計画の頓挫などをきっかけに悪化していった。第一次大戦後、強大化したアメリカはワシントン会議を主導して、九ヵ国条約と海軍軍縮条約を成立させ、日英同盟は廃棄された。
これにより日本の大陸政策は制限され関東軍による満州事変へとつながり、主力艦の対米6割制限は日本海軍にアメリカに対する敵意を募らせることになった。日本は満州国を認めない国際連盟から脱退し、海軍軍縮条約からも離脱して国際的に孤立を深めてゆく。日中戦争は泥沼化し、日本が樹立した汪政権は失敗、アメリカは蔣介石への支援をさらに強化したため、日本は「援蔣ルート」を遮断するため北部仏印に進駐した。
日米対立を決定的にしたのが日独伊三国同盟の締結(1940年9月)である。米内海相などの反対論が松岡外相や陸軍の親独勢力によって押し切られたのだ。この同盟条約ではソ連を対象外とし、ドイツが日ソの国交調整を周旋するとされていたが、松岡外相は三国同盟にソ連を加えて四国条約に発展させてアメリカの参戦を阻止しようと考えていた。
大戦が勃発しドイツが西部戦線で大勝すると、アメリカでは兄弟国イギリスの危機が叫ばれファシズムに対する激しい憎悪が広がっていた時期である。そのような時に日本がヒトラーと手を結んだことは、米英陣営を強く刺激し重大な脅威と映った。駐日グルー米大使は、これで日米間の戦争は避けがたいものになったと日記に記している。
極度に険悪化した日米関係を打開するため、米側から以後の日米交渉の基本となる領土、主権の尊重、平和原則などを含む「日米諒解案」(1941年4月)も示されたが、軍は三国同盟と相容れないとし、松岡外相も悪意七分として取り合わなかった。ところがドイツが対ソ戦を開始したため(1941年6月)、ソ連は英米側につくことになり、日本は独伊との連携を分断されて極東に孤立することになった。
四国条約でアメリカの対日圧力を封じて大東亜共栄圏を建設しようとした前提が崩れたのは言うまでもない。この結果、日本は日中戦争の泥沼にはまったまま、南方、西太平洋正面からの米英と、北方からのソ連に対峙するという状況に陥った。
▼国家戦略の分裂
1941年7月の御前会議で「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」が決定されたが、これは国家中枢の意見の分裂を反映して、優先順位を決めることなく南北両方面への武力行使の準備を認めるものになった。このため、海軍は対米戦備の促進に邁進し、陸軍は援蔣ルートを遮断するために北部仏印進駐を強行して(1940年9月)南進を開始する一方で、関東軍特種演習(関特演)(1941年7~8月)の名の下に対ソ戦準備としての動員が行われるなど、国家戦略は完全に分裂状態となった。
1941年7月、日本は米英と開戦した場合の資源獲得と南方作戦の拠点となる南部仏印へも進駐する。独ソ開戦という情勢の急変を受けて、陸軍が今にも対ソ戦に乗り出す構えを見せたため、これを抑える代償的な意味も込めて南部仏印への進駐が認められたのだ。
本来なら三国同盟こそ破棄されるべきであったのに、ドイツと袂を分かつ決断ができなかったうえにアメリカとの衝突を決定的なものにしてしまった。この進駐は日本の勢力が南シナ海へ及ぶことを意味し、海を隔てたフィリピンを植民地とするアメリカは自国の死活的利益を侵害しかねないものとして鋭く反応する。
日本の進駐用意が完了したところでアメリカは在米日本資産を凍結し、マッカーサーを司令官とする極東陸軍司令部を新設し、中国に米国軍事顧問団が設置された。実際に進駐すると対日石油禁輸を発動し、イギリス、オランダも歩調を合わせて禁輸措置に踏み切った。
日本は南部仏印への進駐を1年前の北部仏印進駐の延長くらいにしか考えておらず、アメリカの反応を完全に読み違えていたのだ。
▼開戦への道
アメリカの対日全面禁輸により「自存」が困難になり対米開戦論が強まるなか、「帝国国策遂行要領」(9月6日御前会議)として、戦争準備に並行して外交交渉を尽くしつつ対米(英、蘭)開戦の判断を10月上旬に行うことを決定する。開戦の判断を決めるといっても米英との長期戦に対する勝算、また終結の目算が明確に描けていないことが最大の問題だった。
日本は、対米関係の打開を図るべく日米首脳会談を模索するが、米側からは日米諒解案の原則が前提だとして拒絶され、行き詰まった近衛首相は戦争に自信なしとして内閣総辞職、代わって東條内閣が成立した(10月)。
内閣の交代を機に、戦争の見通しが立たないことに非常な不安を覚えた天皇は「帝国国策遂行要領」を白紙に戻しての再検討を命じたが、11月の御前会議で決まったのは実質的に前回の遂行要領の開戦時期を12月初頭に改めたことだけだった。この段階では、日本は経済制裁に屈して中国から撤退するか、武力行使であくまでも国策を遂行するかの選択肢しかなくなっていた。
遂行要領では「自存自衛」と「大東亜の新秩序建設」という両極端の目標を掲げていたが、この時点でなすべきは日本が自存自立するために必要な最小限の条件を明らかにして、そのための外交、軍事の方策を明確化すべきだったのだ。間もなく事実上の最後通牒となるハル・ノートが示され(11月26日)、日本は確たる戦争の見通しを持たないまま開戦を決定した(12月1日)。
▼戦争指導構想
開戦わずか1ヵ月前に大本営政府連絡会議が決定した「対米英蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」では戦争指導を次のように構想した。
1 すみやかに東アジアにおける米英蘭の根拠地を覆滅し、重要資源地帯と海上交通線を確保して長期持久戦のための自給自足態勢を整えるとともに、蒋介石政権を屈服させる。
2 イギリスを屈服させるために、日本はイギリスと豪印の連絡を遮断しビルマやインドの独立を図る一方、独伊は近東、北アフリカ、スエズ作戦でイギリスを封鎖し、イギリス本土上陸を目指す。
3 アメリカの戦意を喪失させるために、米海軍主力を誘出、撃滅するとともに、フィリピン占領後、アメリカを懐柔する。また、対米通商破壊戦を徹底し、中国や南方資源の対米流出を阻止する。独伊は、大西洋、インド洋、中南米において攻勢を強化する。
4 戦争終結の時期としては、南方作戦の主要段落、蔣介石の屈服、独ソ戦の終結や英本土陥落などの欧州戦局の好機などとし、南米諸国、スウェーデン、ポルトガル、ローマ法王などの斡旋を期待する。
この「腹案」は対米戦に勝算がないため、アメリカの継戦意思をいかに喪失させるかに主眼が置かれたものであった。確かに開戦初期の南方作戦で自給自足態勢を確立できる可能性はあったが、そのための海上交通線の防衛は無為無策であったし、米海軍主力の誘出、撃滅という短期決戦の考え方も混在していた。
また、戦争終結にしても、蒋介石の屈服は、それができないから米英と開戦することになったのだから本末転倒であった。さらに、独伊への期待も他力本願的で、この頃にはドイツの勢いは大戦当初より弱まり英本土上陸などの可能性はなくなっていた。緒戦の南方作戦の勝利にしても、そもそもアメリカは大西洋正面を優先し、その後に太平洋正面での戦いに勝利するという戦略だったので、講和に応じるとは考えにくかった。
開戦時の軍令部第一課長(作戦)であった富岡定俊は、「この戦争は、敵に大損害を与えて、勢力の均衡をかちとり、そこで妥協点を見出し、日本が再び起ちうる余力を残したところで講和する、というのが、私たちのはじめからの考えであった。だが、そうはいっても、講和の希望にたいする裏付けが、とくにあったわけではない。しかし、当時は、欧州でも大戦が進行しており、最高指導者の間ではドイツも非常に勝っていることだし、バランスということもあるので、講和のキッカケはその間に出るだろう、と考えられていた」と戦後に述べている。
▼作戦構想 艦隊決戦の強要?
太平洋戦争の作戦計画のもととなった「昭和十六年度帝国海軍作戦計画」は現存していないが、前年の昭和十五年度計画からその作戦構想は推測できる。
それによると、第一段作戦として、開戦初頭、すみやかに東洋にある敵を撃滅して東洋海面を制圧するとともに、陸軍と協同してルソン島などの要地、香港を攻略し、仏領インドシナの要地、グアム島を占領する。さらに状況が許せば、英領ボルネオやマレーの要地を占領し、シンガポールを攻略する。また、敵主力艦隊の動静を探り、敵勢の減殺に努め、主としてインド洋方面における敵海上交通を破壊する。続く第二段作戦では、連合艦隊主力は敵艦隊主力が東洋方面に進出してくるのを待って邀撃、撃滅するとしていた。
この邀撃決戦を第二段作戦として後回しにしたことは、敵の主力艦隊が健在のまま第一段作戦での各地の攻略や占領のための陸軍の海上輸送作戦を行うことを意味し、その後の海上補給支援も脅かされかねない危険な構想であったが、このことは実戦で証明されてゆく。
また日本の邀撃構想も日本海海戦での完勝という成功体験にもとづくもので、開戦初頭にフィリピン等を攻撃することでアメリカ海軍主力を誘出し、艦隊決戦を強要しようとするものだった。しかし、そもそも艦隊決戦は、敵に決戦を強要する手段がなければ成立しないものであり、日本海軍は日露戦争で旅順に立てこもったロシア艦隊を引き出すのに苦労したし、ドイツ海軍は第一次大戦でスカパフローの英艦隊を決戦に誘い出すことはできなかった。さかのぼって第一次英蘭戦争では、沿岸にとどまるオランダ艦隊を決戦に引き出すためにイギリスはオランダに対する通商破壊に乗り出したのだった。自給自足できる大国アメリカには通商破壊戦は通じないので、開戦初頭にフィリピンを攻略することにしたのだ。
当初はアメリカ側の「オレンジ・プラン」もこれにかみ合う艦隊決戦型の作戦構想だったが、ミクロネシアの島々を水陸両用戦で奪って島伝いに日本本土に迫るという構想に進化したことから、艦隊決戦構想は日本海軍独りよがりのものとなってしまった。
言い換えれば、日本海軍がマハン流の艦隊決戦を愚直に信奉していたのに対して、米海軍は対日作戦構想をマハン流から進化させたのであり、日本海軍は裏をかかれたのだ。
▼戦争指導の混乱
このような戦争指導構想や作戦構想に対して、山本五十六連合艦隊司令長官は、長期持久戦を戦い抜くという構想は日本の国力から非常に無理があるとして、開戦初頭に米艦隊主力を撃滅してアメリカの継戦意思を喪失させる作戦を構想する。
それは明治末期から約30年間積み重ねてきた海軍の邀撃決戦思想を否定する真珠湾攻撃だった。山本長官は、1940年末におこなわれた図上演習の教訓として兵力の不足を痛感し、南方資源を確保するための補給線に対する脅威を除くため、開戦初頭に真珠湾のアメリカ艦隊に大打撃を与えることを構想し、あわせて米国民の戦意を失わせて早期講和のチャンスを得ようとしたのである。
確かに日本海軍は、開戦初日に真珠湾のアメリカ太平洋艦隊主力を見事に撃滅したが、戦争は短期間で終結するどころか、「リメンバー・パールハーバー」の大合唱のもと米国民を一致団結、立ち上がらせ、長期の総力戦が始まったに過ぎなかった。山本長官は第一段作戦終了後も、アメリカ艦隊との決戦を求めてミッドウェー作戦、MO作戦などと、持久戦の地域的範囲から逸脱した作戦を強行して、戦力を消耗させてゆくことになる。
【主要参考資料】 富岡定俊『開戦と終戦 人と機構と計画』(毎日新聞社、1968年)、戦史叢書「大本営海軍部・連合艦隊(1)」、黒野耐著『日本を滅ぼした国防方針』(文春新書、2002年)、外山三郎著『日清・日露・大東亜海戦史』(原書房、1979年)
※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。