シーパワー500年史 23
幕府海軍が創設され明治海軍に引き継がれる経緯を見てゆきます。金のかかる海軍の創設は、なかなか思うように進まないものです。これは第二次大戦の自衛隊の創設の時にも繰り返されました。それにしても、今となってみれば明治の海兵隊はもったいないことだったと思います。
▼幕府海軍 -創設から終焉
開国を受けて、幕府はそれまでの海防体制を見直さざるを得なくなった。すでに林子平は『開国兵談』(1786年)で海軍を持つべきことを説いていたが、鎖国体制の中では、いたずらに人心を惑わすものとして禁錮の刑に処せられてしまう。幕末になると薩摩藩などが軍艦の建造に乗り出す一方、幕府も洋式砲の製造に取り組み、佐久間象山からはアヘン戦争を受けての『海防八策』(1842年)の献策を受けており、海軍創設の動きが全くないわけではなかった。
幕府は、ほかに相談できる相手もいなかったことから、長崎で貿易を許されてきたオランダに意見を求めた。オランダからは、日本へ派遣したコルベット「スンビン(Soembing)」のファビウス艦長が幕府海軍創設の意見書を提出した(1854年)。これを受けて幕府は、幕府海軍の創設、オランダからの軍艦購入、海軍伝習所や造船所の設置などに関する構想を立て、洋式海軍の設立に乗り出した。
ファビウスは海軍伝習所が開設される1855年に再来日し、西洋海軍の艦内諸規律に関するもの、旗章、艦長心得等、歴史的経緯を経て確立された欧米海軍に共通する慣習を伝え、日本のような後発海軍に対する配慮を見せている。なお、「スンビン」は幕府へ献呈され「観光丸」と改名され、幕府海軍の最初の軍艦となり、練習艦として使われた。
オランダ教官団を招いた海軍伝習所では、語学、数学等の素養教育や、日本の身分制度と海軍の階級との調整、そして陸上の生活習慣を艦上勤務に適応させること等に苦労しつつも、都合3期、各期概ね1年半の伝習を数百人に対して行った。しかし1859年には大老井伊直弼の政治改革の影響で伝習所は閉鎖されてしまう。
この一方で、海軍要員の養成を江戸で行ないたかった幕府は、1857年に長崎の第1期卒業生と「観光丸」を築地に移して「軍艦教授所」を開き、長崎と並行して伝習所卒業の日本人を教師とする海軍教育を開始していた。同年、オランダに注文した第一艦のスクリュー式コルベットが長崎に着き「咸臨丸」と命名された。「軍艦教授所」は、その後「軍艦操練所」、「軍艦所」、「海軍所」と名を変えつつ幕府終焉まで続く。
▼日米修好通商条約
和親条約に基づいて米国総領事ハリスが下田に赴任した(1856年)。ハリスは「英仏が大艦隊をもって日本に来航、条約締結を強要するであろう。その時、米国は穏便な調停に労を取る」と半ば脅迫的に修好通商条約の締結を迫った。
1858年、大老井伊の決断でアメリカとの条約を締結し、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと続くのだが、勅許を得ずに締結された条約だったため、攘夷派の反発が強まり倒幕の機運を高めてしまう。幕府も沸騰する攘夷論を無視できず、海防強化を各藩に指示し、自らも箱館で五稜郭の築城を開始する。ちなみにこの条約は、治外法権、裁判権、関税自主権において不平等であったため、以後、明治政府はこの改正に大いに苦心することになる。
余談ながら、本条約の批准のために日本の外交使節が米海軍の外輪フリゲート「ポーハタン」で渡米することになると、乗組員の訓練と国威発揚のため「咸臨丸」を西海岸まで随伴させることになった(1860年)。しかし、結果的にこの「挑戦」は無謀というほかなく、日本人乗組員は船酔いや運用術の未熟さで使い物にならず、冬の北太平洋を乗り切れたのは全面的にアメリカ人乗員のおかげだった。教授所での運用術の短期速成の試みは失敗に終わったのだ。
幕府はまた、長崎造船所(1861年)や横浜製鉄所(1865年)といった洋式造船所も建設し、さらにフランスのヴェルニーを招いてツーロン軍港を手本に横須賀製鉄所(1871年)を開設した。幕府は15年ほどの間に45隻の洋式軍艦を保有するに至った。
▼ロシア軍艦対馬占拠事件
1861年、ロシア海軍コルベット「ボサドニック」が対馬に来航、浅芽湾を測量のうえ上陸し、芋崎を占拠する事件が起きる。ロシア側は「イギリスが対馬占領を企てているので、仁義の国ロシアは日本に味方する。芋崎を借用させてくれれば、砲50門を差し上げる」として同地の租借を強く要求してきた。
ロシアは、地中海への南下を図ってトルコに侵入したが、クリミア戦争で英仏連合軍に手痛い敗北を喫して(1854年)、この方面での南下、不凍港の獲得に失敗していた。今回は、清国からの沿海州領土の割譲に成功してウラジオストック港を獲得したものの(1860年)、同港が冬季には凍結するため、極東ロシア海軍の出口である対馬海峡を抑える不凍港として対馬を求めてきたのだ。
一方のイギリスは、海軍水路部が世界的規模で行った測量の一環で、対馬が極東ロシアの南下を防ぐ絶好の位置にあり、東西に開いた良港を有し、木材や水が豊富で、絹生産地中国を結ぶ架け橋になりうるとして領有願望を抱いていた。イギリスとしては、ロシアの機先を制して対馬を占領することも検討したが、占領による対決よりも日本をロシアの南下を食い止める「楯」として利用することを選んだ。
ところがこの事件が起き、ロシアはヨーロッパで獲得できない不凍港を得たうえに、ここを拠点として米中間の海域における貿易で大きな利益を手にし得る状況となった。先を越された形になったイギリスは、ロシアの南下を阻止し、大英帝国の世界的ネットワークを完成させるためにも、日本海域においてロシアの領土獲得は絶対に認められないとして、幕府と協議し軍艦2隻を現地に派遣して退去要求をすることにした。ロシアは、迅速に艦隊を派遣すれば対馬全土を占領できるとも考えたが、最終的にイギリスの干渉を受けることを恐れ、不法占拠から半年後、「ボサドニック」に退去を命令して事件は終結した。
対馬が、英露両国の角逐により結果的にいずれの国の属地にならずに済んだのは幸運であったが、高まる攘夷の動きへの対応に追われていた幕府は、非常の際には近隣諸藩が応援すべしとだけ命じて戦略的要衝である対馬の実質的な防衛策は何らとられずじまいだった。
ロシアは対馬占領には失敗したが、南下政策の一環として日露戦争を戦い、その敗北が大きな要因となってロシア帝国そのものを崩壊させた。イギリスは、全世界的な対ロシア封鎖の一環として日露戦争前に日英同盟を締結し、日本を代理に立ててロシアと戦わせ、その目的を達成することになるのは40年ほど後のことである。
▼幕府海軍の戦いと終焉
幕府海軍は、幕末の内戦である征長戦争と戊辰戦争で海戦を経験した。このうち征長戦争(1866年)では、幕府、長州藩の各艦は砲火を交えたが、両軍とも戦果もなければ被害もなかった。戊辰戦争(1868-69年)では、新政府軍と旧幕府軍の間で宮古湾や箱館湾において、やや海戦らしい海戦が戦われたが、幕府海軍の榎本艦隊の喪失艦9隻中7隻は座礁事故で失われており、その運用術の未熟さはその発足から終焉までついて回ったことは知る人ぞ知る事実であった。
開国にともなう物価の高騰などに対する不満や外国に強いられて開国したとの国民感情から攘夷論が強まり、生麦事件(1862年)など外国人殺傷事件が頻発した。この結果、薩英戦争(1863年)や英仏米蘭四カ国艦隊の下関砲撃事件が起き、尊皇攘夷論の激化もあって幕府を内外から揺さぶり、やがて大政奉還(1867年)へとつながってゆく。
王政復古の大号令に始まる明治政府の新体制確立のプロセスが一定の秩序を保って行われた。また、薩英戦争などを通じて列強の軍艦と戦うには沿岸砲台では無理であり、軍艦には軍艦で戦うべきと痛感されたことなどから、幕末に始まった新たな海防思想や海軍は、基本的にそのまま幕府から明治政府に引き継がれてゆくことになった。
▼明治海軍、海兵隊の創設
幕府瓦解の後、1868年3月(9月に明治に改元)、新政府の海陸軍の統括者として軍務官が置かれ、ロシアの南下や清国を侵略した列強の脅威に対処するために「四面環海の我が国防のため海軍力強化が急務」との太政官あての建議がなされた。
1869年5月、箱館における旧幕府軍降伏により戊辰戦争が終結すると、同7月、軍務官に代わって海陸軍を統括する兵部省が設置される。兵部省は「おおいに海軍を創立すべきの儀」という太政官あての建白書(1870年)で、歳入の1/8を20年間支出して「軍艦大小合わせて200隻、常備人員25,000人」に拡大しようという壮大な計画を提案したが予算が成立するはずもなかった。1871年7月には廃藩置県の一大改革が断行され、各藩の艦船はすべて政府に拠出されて一元化、軍艦、輸送船あわせて17隻、人員1,800名、13,000トン余の勢力で、新生日本海軍が誕生した。
太政官布告で「海軍は英国式」と決められ(1870年)、雇い入れられたイギリス人教官団からの意見で「要港を守衛し水戦の事を掌る」とされた海兵隊も士族出身者100名で創設された(1871年)。海兵隊は、「佐賀の乱」(1874年)、台湾出兵(同年)、江華島事件(1875年)などの実戦に参加したが、建艦費の捻出と、海兵隊の仕事は艦船乗組員で十分賄えるとしてあっけなく廃止された(1876年)。列国のような帆船時代の接舷切り込み戦闘のような海兵の歴史がない日本では執着はなかったのであろう。
兵部省の建白書は「軍艦ハ士官ヲ以テ精神トス」として、海軍の基礎として人材、特に士官の養成が重要視された。旧幕府の海軍操練所(築地)は1869年に再開され、海軍兵学寮、海軍兵学校(1888年に江田島に移転)と改称され、英海軍から教官団を招聘して世界最強のイギリス海軍仕込みの教育を行った。その他、海軍大学校、海軍機関学校、海軍経理学校、海軍軍医学校、専門術科を教育する砲術学校、水雷学校、通信学校、航海学校、工機学校などが順次設立された。
▼海陸軍から陸海軍へ
兵部省は海軍省と陸軍省に分離するが(1872年)、その翌年には海軍卿勝安芳(海舟)から甲鉄艦26隻を含む104隻の建艦計画が出され、左院(後の元老院、当時の立法府)から「国防軍建設の要諦は専ら海軍を拡張するにあり、陸軍はこれに次ぐ」として海主陸従の方針が示されたが閣議では顧みられなかった。
このように海軍建設優先の方針は示されたものの、当時、廃藩置県や戊辰戦争後の後始末で財政上の余裕はなく、かつ新政府としての権威と中央集権体制の確立が急がれるなか、治安維持のための陸軍の整備を優先すべきとする陸主海従の政策がとられたのが現実だった。
さらに海軍が、同じ島国で世界最強、薩摩や新政府との関係が良好なイギリス式を採用した一方で、陸軍は幕府時代のフランス式から普仏戦争でのプロシア大勝を受けてドイツ式に変わっていった。日本のなかに海洋国家思想に立つ海軍と大陸国家思想に立つ陸軍の誕生という戦略思想の異なる軍事組織が誕生したのだ。
すでに組織、予算において海軍に優っていた陸軍が、陸軍省、海軍省分離の機会を捉えて「陸海軍官員順序の儀これまでまちまち…、今後陸軍を上とし海軍を下にし」と上申し、それまでの海主陸従の「海陸軍」という呼称は正式に「陸海軍」に統一された。陸軍には西郷隆盛や山縣有朋などの錚々たる人材が多くいたが、海軍にはこれに匹敵する人材は見当たらなかったことも大きく影響した。後に山本権兵衛が登場して海軍建設に活躍するのは1890年代のことであり、当時、彼は海軍兵学寮生徒でしかなかった。「おおいに海軍を創立すべきの儀」に始まる「海陸軍」もわずか4年でその幕を閉じることになった。
【主要参考資料】 外山三郎著『日本海軍史』(教育社歴史新書、1980年)、加藤祐三著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫、2012年)、常廣栄一「幕末における露国の対馬占領事件(上)(下)」『東郷』21-4,5、常廣栄一「海陸軍が陸海軍になった日」『水交』20-3,4、常廣栄一「幻の海兵隊」(「東郷」20-1/2)、藤井哲博著『長崎海軍伝習所』(中公新書、1991年)、篠原宏著『日本海軍お雇い外人』(中公新書、1988年)
※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。