シーパワー500年史 21

 パクス・ブリタニカのもと、その後の歴史の流れを左右するドイツ、アメリカ、日本といった新興国海軍が現れます。今回は、まずドイツ海軍の誕生とイギリスとの建艦競争までの歴史をたどります。 陸軍大国ドイツの海軍はどんな特徴を持っているのでしょうか。

 ▼ドイツ海軍の誕生

 普仏戦争(1870-71年)で勝利した陸軍大国プロイセンは念願のドイツ統一を果たし、ドイツ帝国が誕生した。ドイツ海軍は、プロイセンにあった北ドイツ連邦海軍という小さな領邦海軍の合同部隊を引き継ぐ形で誕生する。海軍の発足とともに、陸軍省の一部に過ぎなかった海軍本部は独立して皇帝直属の帝国海軍本部となった。

 陸軍が各領邦の大公などに忠誠を誓う領邦陸軍の集合体であり、多分にプロイセン的なものを残していたのに対して、海軍はドイツ皇帝(カイザー)に忠誠を誓う単一の集団として発足した。また陸軍将校が地主貴族層(ユンカー)出身者を主力としていたのに対して、海軍士官は中産階級出身者を主力としており自由主義的な思想を有していたとされる。

 初期のドイツ海軍は、沿岸防備用の装甲艦5隻を主力とする弱小なものだったので、対独復讐を叫ぶフランスとの報復戦争に備えた艦隊整備に着手する。この頃の海軍の任務はあくまでも陸軍の補助的存在と見なされたため、海軍本部長も陸軍将官が務めており、毎年の予算獲得も容易でなく艦隊の増強は思うに任せなかった。

 当時のドイツの仮想敵国はフランスとロシアであり、それぞれユトランド半島で隔てられた北海とバルト海を正面としていた。普仏戦争においては、フランス海軍が北海に面したヤーデ湾の軍港を封鎖してプロイセン海軍を閉じ込めたことがあったし、ユトランド半島を領土とするデンマークが有事に中立を宣言しようものなら、海峡が封鎖されバルト海の艦隊が動けなくなる恐れもあった。

 このような地理的条件から、ドイツ海軍にとって両方の海域を他国の妨害を受けずに艦隊を移動させられることは戦略的に極めて重要だったので、8年の歳月をかけてユトランド半島の付け根部分を100㎞近くにわたって掘削し、バルト海と北海を結ぶカイザー・ヴィルヘルム運河(キール運河)を開通させた(1895年)。

 この頃になると、ドイツの海軍戦略は、それまでの来攻するフランス海軍を沿岸で防備するという陸軍の補助的なものから、開戦と同時にカレーを攻撃して大西洋側のフランス海軍を撃破するという積極的なものに進化した。これは地中海からフランス海軍の有力な増援が到着すれば、ドイツ海軍は再び封鎖されかねないので、先手を打って緒戦で勝利を得て、戦後の講和条件を有利にしようという考え方だった。このような戦略は、第一次世界大戦まで継承されることになる。

▼後発帝国主義国家ドイツ

 後発の帝国主義国家ドイツの植民地の獲得は、すでにヨーロッパ諸国が獲得した植民地の隙間を縫うようにして進めざるを得なかった。ドイツはヨーロッパ諸国のアフリカ分割の流れに乗り遅れまいと1884年に最初の植民地であるカメルーンなどの領有を宣言し、翌年はアフリカ東部へフリゲートやコルベットといった小型の軍艦を派遣して内陸部への植民地建設を始めた。

 ドイツは太平洋へも軍艦を派遣して、ビスマルク諸島(1884年)、ブーゲンヴィル島(1885年)、マーシャル諸島(1885年)、ナウル島(1888年)、マリアナ諸島やカロリン諸島(1899年)などの島々を獲得した。

 このような太平洋方面の植民地経営の根拠地となったのが、膠州湾(青島)であるが、これは日清戦争後の三国干渉以降の列強の中国分割の動きに乗って租借(1898年)したものだ。一見してわかるようにドイツの植民地には、経済的な価値を持つ場所はほとんどなかったが、戦略的には世界各地に艦艇の泊地を得ることができ、大陸国家であるドイツが海洋利用に関心を向け、海軍を発展させる契機となった。

▼「ドイツの将来は海上にあり」 -カイザーの海軍

 ドイツが海洋に目を向け始めた頃、29歳の若さで皇帝に即位したのがヴィルヘルム二世である(1888年)。軍艦好きの彼は、祖母の英ヴィクトリア女王即位50年記念観艦式で世界一のイギリス海軍に感銘を受けるとともに、この頃出版されたマハンの『海上権力史論』にも強く感化され、同書を翻訳させてすべての海軍艦艇に備えさせたのだった。

 ヴィルヘルムは、ドイツの産業革命の進展にあわせて原料供給地と工業製品の市場としての植民地を求めて積極的に海外へ進出しようとして、「新航路政策」と呼ばれる貿易、海運、造船の奨励策をとったほか「ドイツの将来は海上にあり」として艦隊の増強に着手した。

 海軍の増強を急ぐヴィルヘルムは海軍本部の権限を分割して、海軍総司令部(軍令)、海軍省(軍政)、皇帝の諮問機関である海軍内局(高級士官人事)を創設する(1889年)。これで皇帝自身が海軍内局を通じて海軍施策に口出しできる仕組みができ、皇帝(カイザー)の海軍という色合いがさらに強まった。

 ヴィルヘルムは各地で紛争が起きれば軍艦の派遣を躊躇せず、露骨な砲艦外交を繰り返した。これに対して、それまで他国との摩擦を避け、列強国間の微妙な勢力均衡を保つことでドイツの安全保障を担ってきた宰相ビスマルクは、若き皇帝と対立して辞任してしまう(1890年)。さらにドイツはイギリスを抜いてヨーロッパ第一の工業国になったこともあり、先進帝国主義国イギリスを警戒させずにはおかなかった。

▼ティルピッツのリスク主義

 当時のドイツ海軍の建艦方針としては、通商破壊戦を主任務として高速巡洋艦を主力とする考え方と、強力な戦艦を主力とすべきとする考え方が対立していた。当時、戦艦は一国の外交力を担保する戦略的な存在であり、その保有数は一国の海軍力を示す指標とみられていた。後者の考え方をとるティルピッツらは、ロシアやフランスといった仮想敵国への対抗のために不可欠となる強国との同盟を結ぶには、ドイツ自身が戦艦を主力とする強力な艦隊を持つ必要があると考えたのだ。

 このような建艦方針の対立は、のちのナチス時代にも「Z」計画の立案の際に再燃することになるのだが、海軍が自然に国防の中心となる海洋国家と違い、海軍の役割が国家戦略や陸軍との関係性に左右される大陸国家ならではの問題であった。

 ともあれヴィルヘルムに認められたティルピッツ少将は海軍大臣に抜擢される(1897年)。ティルピッツは、仮想敵を世界最強のイギリス海軍として、ドイツを攻撃する敵艦隊が大きなリスクなしには戦いを挑めない規模の艦隊を建設するという「リスク主義」をとった。具体的にはイギリス海軍の2/3の兵力を持てば、彼らにリスクを負わせ外交的に譲歩を迫れるはずと考えたのだ。しかし、やがてこのリスク主義がイギリスとの建艦競争を引き起こし、第一次大戦勃発の要因のひとつとなってゆく。

▼「艦隊法」と建艦競争   

 この頃、毎年の海軍予算の獲得が政争の具とされやすく、艦隊整備が思うに任せないという問題が起きていた。このため、ティルピッツは長期計画にもとづく艦隊整備のための継続予算を法制化することにし、戦艦数や定員を定めた「第一次艦隊法」として1898年に成立させた。この法律により、ドイツ海軍は7年間で戦艦19隻と装甲巡洋艦12隻などを保有し、それぞれ定められた艦齢に達したら順次代艦を建造することが定められた。

 この第一次艦隊法は、既就役の戦艦52隻に加えて12隻を建造中であったイギリスにとってさしたる脅威とは映らなかったが、1900年の第二次艦隊法で戦艦が予備を含めて38隻、装甲巡洋艦14隻、小型巡洋艦が38隻とされると話がちがってくる。わずか30年前に装甲艦5隻で出発したドイツ海軍を思えば、驚くべき規模の計画であった。

 イギリスは1889年以降、世界第2位のフランスと第3位のロシアの海軍力を合計した以上の戦力を持つことを目標とする「二国標準主義」をとっていたが、このドイツの計画はその政策の前提を根底から覆しかねないものであった。イギリスは、ドイツとの対決に備えて外交政策を再検討してフランスだけでなくロシアとも関係改善を図ってゆくことになる。

 ドイツの挑戦は、国防政策の前提を海軍の絶対的な優勢においているイギリスにとっては生存をかけた大問題となった。第一海軍卿フィッシャーは、海軍省をあげて「われわれは8隻を要求する。われわれは待てない」という戦艦等の建造予算の獲得キャンペーンを張り、空前の建造予算を成立させて艦隊の大増強を開始した。ドイツ海軍の増強は、有事にイギリスの譲歩を引き出す前に平時の国力をかけた建艦競争を引き起こしてしまったのだ。

▼ド級戦艦の登場と建艦競争の激化

 イギリス海軍は、フィッシャーのリーダーシップで日本海海戦の戦訓をとり入れ、火力と速力を大幅に向上させた画期的な戦艦「ドレッドノート」を就役させる(1906年)。この「ド級戦艦」はそれまでの戦艦を一挙に旧式化させることになり、世界中でド級戦艦の建造競争が始まった。新興のドイツ海軍にとってもイギリスに対抗できる一大艦隊を建設できるチャンスが与えられたともいえる。

 ドイツは1908年に成立した艦隊法に基づき猛然とド級艦の建造を開始した。これに対してイギリスは大きな衝撃を受け、1909年には二国標準主義のもと膨大な建艦計画を立て、かつ着実に実行していった。

 こうして英独の建艦競争には一層の拍車がかかり、ドイツ海軍は本国にある現役艦隊を一本化した「大海艦隊」の建設に邁進して、1909年にはフランス海軍を抜き世界第2位の軍艦保有量となり、ついにドイツは名実ともにイギリスの仮想敵国となったのである。

 第一次世界大戦開戦時のド級以上の船艦保有数はイギリスが29隻、ドイツが17隻に及んだ。イギリスは巨額の予算を要する建艦競争が財政を圧迫したことから、1906年以降、「海軍休暇」提案として知られる建艦計画の相互抑制を申し入れたが同意を得られず、戦艦の建造を制限する協定交渉も決裂し(1912年)英独間の不信感と敵意は深まるばかりだった。

 さらに建艦競争のさなか、イギリスはカイロとケープタウン、カルカッタをそれぞれ鉄道で結ぶ「3C政策」を進めていたが、一方のヴィルヘルムは、ベルリン、ビザンティウム、バグダッドを鉄道で結び、バスラ港からペルシャ湾、インド洋に向かいイギリスの勢力圏に進出する「3B政策」を掲げて、イギリスのほか仏露とも激しく対立した。

 英独関係は互いを仮想敵国とみなしたままさらに悪化し、ドイツはオーストリア=ハンガリー、イタリアとの三国同盟、イギリスはロシア、フランスとの三国協商の2つの陣営に分かれて第一次世界大戦への道をたどることになる。

【主要参考資料】 ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 下』山本文史訳(中央公論新社、2020年)、宮崎正勝著『海からの世界史』(角川選書、2005年)、青木栄一著『シーパワーの世界史②』(出版共同社、1983年)、『[図説]ドイツ海軍全史』(学習研究社、2006年)、麻田貞雄訳・解説『アメリカ古典文庫8 アルフレッド・T・マハン』(研究社、1977年)

※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。