シーパワー500年史 20
ネイヴァル・ルネッサンスの最終回は、この時期に大きく発達した軍艦や兵器についてまとめます。
▼近代戦艦の誕生 -大艦巨砲主義の到来
1880年代には、砲塔の重さが100トンにも達する巨砲搭載艦が出現したが、重心を下げるため低い位置に装備したため、時化ると波をかぶって射撃できなくなる欠陥があった。この対策として砲身のみを甲板上にむき出しで取り付け、砲の作動装置は装甲で囲んで船体の内部に埋めるバーベッド(barbette)艦が建造された。イギリスの「ロイヤル・サブリン(Royal Sovereign)」級6隻(1892~94年竣工)である。
この級のように、乾舷を高くした凌波性のある船体の前部と後部に口径30センチほどの大口径砲2門ずつを主砲として装備し、左右の舷側に数門ずつの中口径速射砲を置いて水雷艇に対する兵器とするのが世界の装甲艦の標準となり、戦艦(Battle ship)と呼ばれた。
その後も戦艦の技術革新は進み、バーベットの上の砲身の基部は、クルップ鋼などの強度が高く軽い特殊鋼装甲の厚い天蓋(hood)で覆われ防御力を高めた。これらの戦艦は数千メートルの射程で数百キロの重量の砲弾を相手に撃ち込める能力を持つようになった。この威力が実戦で証明されるのが日露戦争(1904~05年)であり、より大きな攻撃力と防御力を求めて戦艦はさらに発達することになる。大艦巨砲主義の時代の到来である。
▼大艦巨砲主義への道 ―日本海海戦
日露戦争における日本海海戦(1905年)では、ロシア艦隊の主力艦がすべて撃沈、捕獲されたのに対し日本艦隊は水雷艇3隻のみを失うに過ぎない海戦史に残るパーフェクトゲームとなった。これは測距儀や砲術用計算機の実用化などで近代砲術が進歩して、戦艦の大口径砲が威力を発揮できるようになったことが大きく貢献している。
この戦いでは、厚い装甲によって防御された戦艦がはじめて砲弾によって撃沈されたが、日本側の砲弾がロシア戦艦の装甲を貫徹したのではなく、非装甲部分に命中炸裂して火災や砲弾の破片による被害を起こして戦闘力を奪ったのが原因だった。さらにロシア側を不利にしたのは石炭の過搭載で復元力が低下した上に、吃水が深くなり舷側の装甲帯がほとんど水線下になり、装甲の薄い部分への命中弾でできた破孔からの浸水で転覆沈没した例が多かったことである。
このように戦艦同士の対戦は、大口径砲対装甲の競争という単純な図式のみではなく、非装甲部分の損害に対する考慮、火災、浸水を局限するための設備など総合的なダメージ・コントロールの考え方が重要視されるようになる。また、両軍とも単縦陣で対戦したが、日本艦隊が2~3ノットの優速をいかして常に有利な位置を占め、戦闘の主導権を握ったことも勝因の一つであった。
こうして大口径砲の撃ちあいによる艦隊決戦という大艦巨砲主義が到来し、主砲の大口径化と防御のための重装甲化、そして有利な位置を占めるための高速化のために主力艦はますます大型化してゆくことになる。
▼ドレッドノート革命
19世紀後半の海軍にとって、砲の大型化により射程が伸びたものの命中率が低下したことが大きな問題になったことはすでに述べた。これを解決したのがイギリス海軍のスコットであり、彼は艦の全主砲を同時に発射(斉射(Salvo))して一定の弾着の範囲(散布界)内に敵艦を捉えて命中弾を得る射撃法を考案した。この射撃法は、射撃計算盤(Fire control table)という専用の機械式計算機(1906年)と艦の動揺を補正するジャイロスコープ(1916年)が開発されたことにより改良され、近代的な砲術が確立された。
このような斉射をするためには一艦に同一種類の重砲をできるだけ多く搭載することが望ましい。当時の戦艦の主砲は4門ほどであったが、これを10門に増やしたのがイギリス海軍の戦艦「ドレッドノート(Dreadnought)」だ。同艦は、1906年に登場した12インチ(30センチ)砲10門、装甲の厚さ11インチ(約28センチ)、蒸気タービンを世界で最初に採用し戦艦としては未曽有の21ノットという高速を発揮した画期的な戦艦だ。
引き続きイギリス海軍が建造したのが巡洋戦艦「インヴィンシブル(Invincible)」であり、12インチ砲8門、装甲を減らしたかわりに25ノットという高速を発揮し、戦艦なみの攻撃力と巡洋艦をしのぐ高速力で世界の注目を浴びた。
「ドレッドノート」と「インヴィンシブル」の登場により、すでに就役していた世界中の戦艦と装甲巡洋艦は一挙に時代遅れとなった。これはイギリス海軍を含め、世界の海軍は新たな建艦競争のスタートラインにつくことを意味した。以後建造される12インチ(30センチ)砲搭載艦をドレッドノート型(ド級)戦艦、13.5インチ(34センチ)以上の方を搭載した艦を超ドレッドノート型(超ド級)戦艦と呼んだ。第一次大戦終結までに世界11か国でド級戦艦が66隻、超ド級戦艦が42隻建造されたが、このうちイギリスが47隻で最も多く、次いでドイツが26隻であり英独間の建艦競争の激しさを示している。
第一次大戦で最も活躍したのは高速を発揮した巡洋戦艦であったが防御力の弱さから被害も多かった。低速の戦艦は参戦の機会が少なかったこともあり、大戦後の戦艦設計の流れは高い攻撃力と防御力を兼ね備えた25ノット以上の高速戦艦となっていく。
▼巡洋艦の変遷
では巡洋戦艦はどのように誕生したのか。帆走海軍時代に通商破壊戦や商船保護に活躍したフリゲートは、木造帆船のまま蒸気機関を搭載し高速化と航続力を向上させた。1870年代には速力15ノット以上で、中小口径の速射砲を備えた鉄製航洋艦に発達し、各国でフリゲートあるいはコルベットという艦種で多数建造された。
これら高速で長大な航続力をもつ艦が巡洋艦(Cruiser)と呼ばれるようになるのは1880年代からである。薄い装甲で機関や弾薬庫を覆っていたのが防護巡洋艦(Protected cruiser)、舷側水線部の装甲を強化したのが装甲巡洋艦(Armored cruiser)だ。当初、装甲巡洋艦は敵の防護巡洋艦を撃破する目的であったが、攻撃力と防御力を強化して最終的には戦艦なみの12インチ砲をもつようになり、戦艦に次ぐ準主力艦として巡洋戦艦と呼ばれるようになった。
1910年前後には、排水量2,500~6,000トン程度で軽装甲ながら25ノット以上の高速を出す軽巡洋艦(Light cruiser)が登場し、通商破壊戦や商船保護に加え、主力艦隊の哨戒、駆逐艦部隊の旗艦など多方面に活躍した。
▼水雷兵器の発達
敵艦を沈めるには水線下に穴を開けて海水を入れるのが手っ取り早い方法だ。従来は衝角突撃でやってきたが、軍艦が高速化、装甲化されるなかで次第に難しい戦術となり、リッサ海戦を最後に姿を消したことはすでに述べた。
もう一つの方法は爆発物を使う方法で、19世紀中頃には爆薬を詰めた容器を一定の水深に沈めておき、その上を通過する艦艇の水線下に穴を開ける方法が実用化する。機械水雷(Mechanical mine)、略して機雷の登場だ。
機雷には取付けた触角に艦がぶつかることにより起爆する方式(Contact mine)と、陸上からの遠隔操作で起爆させる方式(Control mine)があった。クリミア戦争(1854~56年)や南北戦争(1861~65年)では港湾や沿岸防備に用いられ戦果を挙げた。ちなみに機雷は「貧者の兵器」とか「沈黙の兵器」とも呼ばれ、安価で大きな攻撃力を発揮できる兵器として起爆方式などの改良を繰り返しながら今日も様々なタイプが各国で量産されている。
このような防御的な用法に加えて、南北戦争では攻撃的にも使われた。小型艇や潜水艇で敵艦に近づき、爆薬を取付けた長い棒をぶつける外装水雷(spar torpedo)で、実際に両軍とも戦果を挙げたが、攻撃側も被害を受ける危険極まりない戦法であった。
1868年にはイギリス人ホワイトヘッドが自走水雷(Locomotive torpedo)を開発し、その形から魚形水雷(Fish torpedo、単にtorpedo)、略して魚雷という用語が定着した。翌年にはイギリス海軍が取り入れて実験が重ねられた。
▼水雷艇、駆逐艦の登場
その後、魚雷は急速に発達し、初期の有効射程が数百メートルだったものが第一次大戦勃発の頃には28ノットで射程1万ヤード(9,000メートル)という高い性能を発揮した。この魚雷を主な兵装とする高速の小型艦艇が水雷艇だ。水雷艇は、小型、安価でありながら大型の装甲艦を撃沈できる能力があったため、1880年代には各国海軍は競って建造した。1896年末には七つの大海軍国のみで1,200隻以上に達したため、各国はその対抗手段をとることを迫られた。
当初は小型の高速砲艦で対抗しようとしたがうまくゆかず、次第に砲と魚雷の両方を備えたより大型、高速の水雷艇が建造されるようになった。この大型の水雷艇は水雷艇駆逐艦(Torpedo-boat destroyer)と呼ばれ、のちには単に駆逐艦(Destroyer)と呼ばれるようになった。この駆逐艦は急速に各国海軍に採用され、従来の水雷艇は次第にその数を減らしていった。
駆逐艦は、蒸気タービン機関の小型化により数百トンの船体ながら30ノットの高速を出せた。その後、攻撃力、航洋性を高めるために次第に大型化し、第一次大戦時には1,000トンほどの大きさになり、中には旗艦設備をもつより大型の嚮導駆逐艦(Flotilla leader)も登場した。1900年代になると駆逐艦は、水雷艇を駆逐するだけでなく、それ自体で敵艦隊に対する魚雷攻撃、潜水艦に対する攻撃、機雷掃海など極めて幅広い任務に活躍するようになる。
▼水中兵器の威力 -フランス青年学派
水中に設置される機雷に始まった水中兵器は、外装水雷を経て魚雷が実用化されたことにより、その威力を発揮し始める。
魚雷で装甲艦を沈めた世界初の戦例としては、チリ革命戦争(1891年)で政府軍の水雷砲艦が発射した5発の魚雷のうち1発が停泊中の革命軍装甲艦に命中しあっけなく沈没させたことがある。また、大規模な魚雷攻撃としては、日清戦争で日本の水雷艇が威海衛に停泊していた清国の装甲艦など4隻を撃沈した(1895年)。また、黄海海戦(1894年)で砲弾200発が命中しても沈まなかった装甲艦「定遠」が、36センチ魚雷1発の命中で沈没したことは各国海軍に大きな衝撃を与えた。
このように小型の水雷艇の魚雷で大型の装甲艦の水線下に破孔を開けると簡単に沈められることが実証されたため、海戦戦術や建艦計画にも大きな影響を与えた。特に1880年代のフランス海軍では、「青年学派(Jeune École)」と称される戦術研究グループが魚雷の威力により装甲艦優位の時代は終わったとして、戦艦を作る予算で多数の小型艦艇を保有する方が有利だと主張した。
これは、世界第2位のフランス海軍が巨額の建造費をつぎ込んで装甲艦を作っても第1位のイギリス海軍にはなかなか追いつけないうえに、そもそも装甲艦が現実の海戦においてさっぱり相手を沈めることができないという現実があった。
フランス海軍としては非対称戦略をとって、より安価な費用でイギリス海軍の優位を打ち破りたいと考えたのだが、この戦略を一貫して追求することはなく、過度に小型艦を重視する傾向を強め、戦艦が海軍軍備の中心であった時代にあってフランス海軍の地位は低下した。ドイツ陸軍との対抗上もフランスでは海軍は第二義的な意義づけしか与えられず、建艦能力でも劣っていたこともあり、ドイツ海軍はもちろん日本やイタリアと比べても見劣りするものとなっていった。
日露戦争では、開戦直後に駆逐艦10隻でロシア太平洋艦隊の基地旅順を奇襲し、戦艦2隻などに魚雷を命中させている。黄海海戦(1904年)では日本駆逐艦による大規模な洋上襲撃が行われたが失敗に終わったが、日本海海戦(1905年)では、駆逐艦と水雷艇で戦艦2隻撃沈など大きな戦果をあげた。
魚雷の戦果も大きかったが、日露戦争で最も戦果をあげた水中兵器は機雷であった。両国艦隊が対峙した遼東半島の沿岸では、互いに相手艦艇の航路上に多数の繋維機雷が敷設され、日本は戦艦など11隻、ロシアも戦艦など3隻を失っている。
▼潜水艦の登場と発達
潜水艦は、現代でこそ水中を自由に行動し強大な攻撃力を誇っているが、その動力源、潜航・浮上方式、水中攻撃兵器などの開発には長い年月を要した。
潜没状態で航行した世界最初の潜水艦は、アメリカ独立戦争(1776年)時に作られたアメリカの「タートル(Turtle)」である。一人乗りの同艦は人力でスクリューを回して移動し、艇に取付けられた爆薬で敵艦の艦底に穴を開けようというものだったが、成功しなかった。
幾多の試作、実験を経て、実用的潜水艦の原型となったのが、アメリカ人ホランドが1899年に建造した「ホランド(Holland)」であり、翌年以降アメリカ海軍で排水量122トンの「A型」として建造された。このホランド型はイギリスや日本が採用したほか、フランス海軍は独自の潜水艦の開発に熱心に取り組んだ。
第一次大戦直前には、主要海軍国7か国だけで200隻以上の潜水艦を保有していた。この頃の潜水艦は数百トン程度の大きさが主流となり、ディーゼルエンジンで水上を航行し、攻撃時には潜航して蓄電池とモーターで行動することで洋上の作戦が可能になった。この推進方式は、原子力潜水艦の登場まで基本的に変わらず、第一次大戦では、艦船攻撃、通商破壊戦など多くの任務に投入されることになる。
【主要参考資料】 ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 上、下』山本文史訳(中央公論新社、2020年)、青木栄一著『シーパワーの世界史②』(出版共同社、1983年)、小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』(原書房、2007年)、田所昌幸編『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』(有斐閣、2006年)、藤井哲博著『長崎海軍伝習所』(中公新書、1991年)、黛治夫著『海軍砲戦史談』(原書房、1972年)、水交会編『帝国海軍提督たちの遺稿 小柳資料』(水交会、2010年)
※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。