シーパワー500年史 19

 今回は、技術革新が海軍士官などの養成、兵器メーカーの形成、艦種の分化に与えた影響を見てゆきます。

▼海軍士官養成制度の改革

 19世紀は海軍にとって急激かつ広範囲にわたる技術革新の時代だった。そして技術革新の展開は、海軍士官や兵員に対しても、多くの専門分野を分化させ、その養成制度や教育訓練の方法にも大きな変化をもたらした。

 帆走海軍時代のヨーロッパ諸国では、海軍士官を志す若者の多くは、12、3歳の少年の頃から司令官や艦長との縁故関係で軍艦に乗り組み、士官候補生として軍艦上での経験をつうじて技能を磨くという教育が行われていた。

 しかし、ネイヴァル・ルネッサンスが起こると、以前に比べて座学の必要性が格段に増し、当初は各艦に専門教官を乗組ませて教育していたが、変革が進むにつれて間に合わなくなり、特定艦での集合教育や、ついには能率の良い陸上学校での集合教育が行われるようになったのである。

また、この頃には工学、医学などの教育が体系化され高等教育のなかに組み込まれていく世界的な傾向を反映し、海軍士官の教育も体系化した共通の教育を行うべきという考えも出てくる。このような新しい海軍士官の教育制度をいち早く取り入れたのは新興国アメリカだった。アメリカ海軍は1845年にアナポリスに1年制の陸上学校を作ったが、1850年には4年制のカリキュラムを持つ海軍兵学校(ネイヴァル・アカデミー)となった。

 一方、長い伝統をもつイギリスやフランス海軍では新しい教育制度への移行にかなりの時間を要した。フランス海軍は「ボルダ」で艦上集合教育を行ない、イギリスも艦上の実地教育に固執し「ブリタニア」で1857年から艦上集合教育を行なっており、ダートマスでの陸上教育に移行したのは1902年のことだった。両国の艦上集合教育が長く続いたのは、帆船海軍時代の大型廃船の船体が多数残っていて、それらの耐用年数が来るまで、海軍官庁庁舎、学校校舎、刑務所、倉庫等は陸上建物を造らず古い船体を使わざるを得なかったという事情もあった。

▼専門の分化と水平化   

 海軍士官養成は改革されたが、新興国海軍のアメリカに比べると長い伝統をもつイギリス海軍は保守的で、古い身分制的な制度が後年まで残った。帆船時代のイギリス海軍では、海軍士官の中核になるのは正規士官(Commissioned officer)であり、貴族や地主階級の出身者あるいは高級士官の縁故者に限られていた。正規士官は同時に戦うための要員である兵科士官でもあった。

 また、イギリスなどヨーロッパの伝統的な海軍では、技術者は在来の職人の後身とする考え方があり、兵科士官と機関科士官などの間に出身階層にもとづく差別があった。航海科や機関科の士官は艦の操縦者として見なされて准士官とされていたし、軍医官、主計官、技術官等にいたっては文官ないし軍属として扱われていた。アメリカの海軍兵学校では、蒸気機関に関する専門教育をカリキュラムに組み込み、兵科士官も機関室の配置につけるようにしたのとは大違いである。

 これら兵科以外の職種も、技術革新のなかで専門性を高めるにしたがって地位の向上、士官としての位置づけを要求するようになり、イギリス海軍では1902年の士官養成制度の改革により兵科と機関科の差別の解消に努めた。時代が下るにつれ、各専門間の身分上の格差がなくなる方向に進んだが、その「水平化」には長い年月がかかった。

 ちなみにイギリス海軍式にならった日本海軍の機関科士官は機関官と呼ばれ、兵科士官との間には指揮継承順位で差別待遇があり、不満の種となっていた。海軍はこの問題を一度ならず検討したが、その都度現状維持との結論となり、「再び無用の論議を繰り返すを許さず」との強い指示が出されるほどだった。最終的にこの差別待遇がなくなったのは1944年のことだったので、解決に70年以上を要したことになる。

▼士官の再教育制度

 蒸気機関や大砲その他の兵器の急激な発達は兵科士官の再教育の必要性を高めた。ドイツ海軍は1872年、イギリス海軍は1873年に兵科士官の科学技術教育のための学校を設立した。さらに将来の司令官クラスとなるべき高級士官に対して、軍人としての教養、技術のほかに、広い意味での戦略や国際関係の教養を教育する学校も設立された。

 この点でもアメリカ海軍は諸国に先駆けて1884年ニューポートに海軍大学校を設立し、戦術、戦略、国際法、海軍史、海軍政策などがカリキュラム化された。マハンはこの大学校の第2代校長であった。イギリスが海軍大学校に相当する学校を設立したのは1900年のことだった。

▼一般兵員の教育

 科学技術の進歩と専門化は、士官だけでなく兵員にも体系的な教育を求めた。もはや荒くれ男を港町の酒場から強制徴募して軍艦に乗せただけでは、蒸気機関や重砲を取り扱えないことは明らかだった。

 イギリス海軍は、ナポレオン戦争が終わり、多くの軍艦が解役されると、志願制だけで兵員を充足できる見込みがついたこともあり、悪名高い強制徴募制度の廃止に踏み切った(1833年)。1830年には練習艦に開設された砲術学校を皮切りに、19世紀後半には職種の多様化にあわせて様々な術科学校が開校した。

 また、水兵、下士官を必要時だけ採用するのではなく、恒久的な職業とするための教育制度や人事制度が整えられ、水兵が年功によって昇進して下士官、准士官となる道も開かれた。20世紀になると、正規士官として海尉に任官することも可能となった。

 アメリカでも兵員を安定的に確保するため、1862年には体系的な教育訓練やボーナス、水兵から准士官への昇進の道が開かれるとともに、鞭打ち刑の廃止、艦内の禁酒など艦内の勤務環境を大きく改善した。

▼巨大総合兵器メーカーの形成

 19世紀を通じての急速な技術革新は、帆船時代からの造船業者、兵器製造業者のあり方も大きく変えた。彼らは常に新しい技術開発の競争にさらされ、軍艦や兵器の大型化、精密化の要求に応えなければならなかった。

 軍艦を建造するには、造船所を中心に大砲、装甲、蒸気機関など幅広い業種のメーカーとの結びつきが重要で、やがて単なる軍艦メーカーというものから巨大な総合兵器メーカーに変貌してゆく。イギリスのアームストロング社、ヴィッカーズ社、ドイツのクルップ社、アメリカのベスレヘム製鋼などがその例である。また、水雷艇や駆逐艦のメーカーとして有名なイギリスのヤーロー社やソーニクロフト者、潜水艦のメーカーとしてはアメリカのエレクトリック・ボート社なども登場し、いずれも今日の巨大兵器メーカーにつながっている。

 軍艦はまた、有利な輸出商品ともなった。1880年代まではヨーロッパのなかでもドイツ、イタリア、ロシアなどは装甲板や重砲の国産化が不十分で、先進国のイギリス、フランスから多くの装甲艦が購入された。東アジア(日本と清国)やラテン・アメリカ諸国の海軍の整備が進むと、それが直ちに先進国の兵器メーカーの輸出を増やし、乗組員の教育訓練をつうじて輸出国海軍、ひいては輸出国政府の影響力も大きくした。

▼軍艦の機能分化と装甲艦の進歩

 帆船時代の軍艦は、その大きさと大砲の数によって戦列艦、フリゲート、スループといった種類や等級に分けられていた。しかし、19世紀後半になると重砲の数や装甲による防御力、速力の大小、さらには水雷など水中爆発兵器の発達により戦艦、巡洋艦、水雷艇といった機能の異なる軍艦が建造されるようになる。そして、これら機能の異なる艦艇を組み合わせることによって艦隊としての戦力を高めるという考え方が出てきた。

 クリミア戦争(1853-56年)を契機として登場した装甲艦は新しい時代の海軍の主力艦となり、艦砲の威力が大きくなるにつれ、それを防御する装甲が強化されて発達した。英仏をはじめとするヨーロッパ諸国は装甲艦の建造を競ったが、艦砲の大口径化と装甲の強化で船体は大型化の一途をたどるようになった。

 初期の装甲艦は、帆船時代のフリゲートと同じように一層の砲甲板に多数の砲を配置する舷側砲門艦(Broadside battery ship)であった。1860年代以降、艦砲の大型化が急速に進んだため、重量増加や建造費を抑制するため、砲の数を減らし装甲も艦砲、機関、水線部などの重要部分のみにとりつけられるようになり、中央砲郭艦(Central battery ship)という艦種が登場する。

 その後、1ないし2門の重砲の周囲を装甲で囲み、装甲ごと砲を回転できるようにした砲塔(Turret)が発明され、南北戦争で沿岸用として装甲砲艦「モニター」などが活躍したが、外洋の大型艦への採用は進まなかった。1870年代には大型艦からようやく帆走設備がなくなりはじめ、大型化・機械化した砲塔を搭載しやすくなり、中央砲郭艦にかわって砲塔艦が装甲艦の主流となっていった。

▼装甲艦の優位確立 リッサ海戦の教訓

 帆走海軍時代の海戦といえば、旗艦を先頭に戦列艦が単縦陣をつくり、敵味方で並走しながら舷を接するほどの近距離で大砲を撃ち合うものだった。この戦術は17世紀後半の英蘭戦争の時代から19世紀初頭のナポレオン戦争の時代までほとんど変化しなかった。

 その後、炸裂弾が導入されて砲弾の威力が飛躍的に向上したが、19世紀後半は大砲の効果がむしろ減殺された時期となった。これは射程が伸びた分だけ命中率が落ちたこと、重砲化で射撃間隔が長くなったこと、装甲の採用で砲弾が貫通できなくなったことによる。特に大砲の大口径化にあわせて装甲も強化されたので、装甲艦同士では砲戦で相手を沈めることはほとんど不可能になった。

 そこで砲戦に代わって期待されたのが衝角攻撃である。衝角(Ram)というのは装甲艦の艦首水線下に鋭く突き出た部分のことで、自艦を敵艦の舷側に突入させ衝角で水線下に穴を開け、沈没させようというガレー船以来の極めて原始的な戦法である。

 この戦法はイタリアとオーストリア海軍で戦われたリッサ海戦(1866年)で採用され、オーストリアの装甲艦がV型陣でイタリアの装甲艦の単縦陣の中央に繰り返し突入して1隻を沈没させたのだ。この海戦で、砲弾は装甲に対して無力で装甲艦が期待どおりの防御力を示した一方で、衝角攻撃こそ装甲艦を撃沈できる唯一の戦法であることが証明された。

 衝角攻撃は、その後四半世紀にわたって装甲艦の重要な戦法となったが、必死の回避運動をする敵艦にほぼ直角に衝突することは極めて難しく、リッサ海戦以降の成功例は極めてわずかしかなく、艦隊の戦術としては限界があった。

【主要参考資料】 ポール・ケネディ著山本文史訳『イギリス海上覇権の盛衰 上、下』(中央公論新社、2020年)、青木栄一著『シーパワーの世界史②』(出版共同社、1983年)、小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』(原書房、2007年)、田所昌幸編『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』(有斐閣、2006年)、藤井哲博著『長崎海軍伝習所』(中公新書、1991年)

※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。