シーパワー500年史 16
今回から2回にわたってパクス・ブリタニカとはどういうことだったのか、当時の国際情勢や経済などの面からも整理してみたいと思います。
▼パクス・ブリタニカとは
1815年までのライバル国との長期間の抗争が終わった時、イギリスは他を経済的、軍事的に圧倒する強力な国家となっていた。それまでの海軍の決定的な勝利によってイギリスは商業貿易で莫大な利益をあげ、これが産業革命の起爆剤になった。産業革命はイギリスが継続的に成長するための基盤となり、かつてない規模の植民地とあいまって工業、商業、運輸、保険、金融におけるイギリスの支配を推し進めた。
イギリスの植民地は全世界に広がり「太陽の没することのない」一大植民帝国を形成した。イギリスは植民地との貿易で繁栄し、世界の海はイギリスと植民地を結ぶ交通路となって、挑戦を受けることのない強大なイギリス海軍がその安全を保障していた。この「貿易、植民地、海軍」という戦略と経済の三角形を強固にすることによりイギリスは世界帝国となったのだ。
このように強大なイギリスの主導のもとに平和が維持された状態を「パクス・ブリタニカ(Pax Britannica)」と呼び、ナポレオン戦争が終結した1815年から第一次世界大戦が勃発する1914年までの1世紀の間は、まさにイギリスの世紀といってよかった。
▼パクス・ブリタニカと自由貿易主義への転換
パクス・ブリタニカの基盤にあるものは、イギリスが18世紀後半以降の産業革命によって、その生産力を飛躍的に増大させ「世界の工場」として圧倒的優位を保持していることであった。19世紀半ばのイギリスの工業生産を見ると、世界の石炭の2/3、鉄や綿織物の1/2を生産していた。この圧倒的な工業力をもって、イギリス製品は世界中に輸出され、世界の新しい市場や資源の開発にはロンドンの金融筋の投資・融資が広く行われ、ポンドは最も信用ある通貨として世界に君臨した。
イギリスは、それまでの2世紀の間、独占と国家の力によって富を育む重商主義で拡大してきたが、それによって圧倒的な勝利を収めると一転して自由貿易主義に転換した。工業、商業、海運、金融において大きなリードを掴んだイギリスは、世界貿易が拡大すればするほど利益をあげられるような経済構造になり、もはや重商主義で自国の産業を保護する必要がなくなったのだ。関税を引き下げ、航海条例や穀物法を撤廃し、植民地を持つことによりイギリスはさらに世界経済を支配しやすくなった。他の国々は、イギリスの変わり身の早さに当惑しつつも、自由貿易をある程度取り入れ、それぞれに利益を得て、新しい世界経済の仕組みに対応していった。
▼帆船から蒸気船へ -海運業の発展
19世紀前半は、高速帆船(クリッパー)の全盛時代であり、木材資源の豊富なアメリカが世界の造船業をリードしていた。その後、蒸気船への移行と木造船から木鉄交造船,鉄船,さらに製鋼法の発達によって鋼船へと推移してゆく。耐火性、水密性に優れた鉄船や鋼船は木造船よりもはるかに軽量で、なによりも材料の調達が容易だったので急速に普及した。イギリスでは、1860年には3割が鉄船だったが、1916年には97%が鋼船になった。この時期、フランスも初めての鋼製軍艦「ルドータブル」を建造し(1873年)、日本でも長崎造船所で鋼船「筑後川丸」が竣工している(1890年)。
帆船から蒸気船への転換に乗り遅れまいとする列強は、汽船会社に補助金を出して郵便物の輸送を定期郵便船(パケット)に担わせることで、帆船から蒸気船への移行をバックアップした。イギリスではP&O社がアジア・オセアニア方面、キュナード社が新大陸方面の定期輸送をそれぞれ請け負った。特にP&O社は、1858年に東インド会社が解散するとイギリスの「帝国の道(Empire route)」の新たな担い手となった。
蒸気船の普及にともない、各地に石炭の貯蔵所を設け、石炭を補給しながら長距離を航行する仕組みが発達し、1870年代以降、列強が石炭の貯蔵所のネットワーク、航路を確保するために「海上の道路」の主導権を奪い合う時代となった。
19世紀は世界史上、最大規模の海上の民族移動が行われた世紀であった。1820年からの100年間でヨーロッパからだけでも北アメリカへ3600万人、南アメリカへ360万人、オーストラリア、ニュージーランドに200万人がそれぞれ海をわたって移住した。
特にアメリカ大陸への移住者は大農場を一気に開発し、大量の生鮮食品を高速で運べる冷蔵庫を備えた蒸気船の出現とあいまって、都市人口が急増していたヨーロッパの新たな食料供給源となった。また、南北戦争後にアメリカが急激な経済成長を遂げると、ヨーロッパとアメリカ双方向のヒト・モノ・カネの移動が進んで海運業が大きく発展した。
こうしてイギリスの海運業は、かつてのオランダに完全にとって代わり、19世紀前半に帆船から蒸気船への切り替えを行うことによりアメリカからの挑戦を退け、1890年までに世界の他の国全部を合わせたよりも多い商船を保有した。加えてイギリス船は国内で産出する良質炭の輸出により往路においても稼げたので、外国船に対してさらに優位に立てた。
世界一の商船隊は広域にわたる商品流通を支配し、そのための保険業務もロンドンに集中するようになり、コーヒー・ハウスから始まった保険取引所ロイズの発展をみた。ロンドンの金融街シティでは、官民の借入れ、商品売買、通貨交換、船舶のチャーター、保険の手配などあらゆる経済活動が行われ、これら多数の関連した部門の優位の組み合わせからイギリス経済の世界的優位がさらに強化された。
▼戦略的要衝の獲得 -地球を戸締まりする鍵
産業革命が進展すると、まず原料の供給地や製品の市場としての植民地が求められた。その一方で、海上交通上のチョークポイント、艦隊の泊地や石炭の補給地、さらには海底ケーブルの中継地といった戦略上の観点も植民地の選定において重視された。
イギリスは、ナポレオン戦争後のウィーン会議(1914-15年)において多くの戦略的要衝を獲得した。
地中海の抑えの強化としてマルタ島とイオニア諸島(ギリシャ)、インドや東洋への航路を押さえる拠点として大西洋のガンビア、シエラレオネ、アセンション島、西インド諸島のセントルシア、トバゴ、ガイアナ、アフリカ南端のケープタウン、インド洋ではモーリシャス、セイシェル、セイロン島、さらに東のマラッカを得た。
これ以降も植民地の拡大は続き、南シナ海の入口を押さえるシンガポール(1819年)、ホーン岬を監視するフォークランド諸島(1833年)、紅海の入口を押さえるアデン(1839年)、さらにはアヘン戦争(1840年)を経て貿易拠点である香港(1841年)を加えた。さらに19世紀末までに、アフリカ沿岸での艦隊拠点となるラゴスとザンジバル、ロシアをけん制する威海衛、その他フィジー、アレクサンドリア、モンバサ、キプロスといった戦略的要衝を獲得した。これらの拠点は、のちにイギリスの危機に際してその戦略的価値を発揮することになる。
例えば大西洋の孤島であるアセンション島は、奴隷貿易取締りの艦艇の補給拠点や海底ケーブルの中継基地として使用され、第二次世界大戦では飛行場が建設された。フォークランド紛争(1982年)時にはイギリス艦隊や爆撃機にとって不可欠の中継地として活用された。
イギリスは、これらの拠点のうち重要な港湾には艦艇を常駐させ、貯炭所やドックなどの造修施設を作り、さらにこれらを守るための要塞や砲台を建設した。帆船から蒸気船の時代に移ると、有事においてはイギリスの敵対国の艦隊は石炭の補給ができなくなるばかりか、イギリスの拠点港に包囲され、その行動が制約された。日露戦争時にロシアのバルチック艦隊が、日英同盟のために石炭の補給に難渋させられたのはその例である。
これらの基地は、19世紀末までに海底ケーブルで結ばれ、世界中の情報が短時間でイギリス本国に伝えられ、世界のどこで紛争が起こっても、本国から速やかに必要な命令が発せられイギリスの軍艦が急行できる態勢ができあがった。この海底ケーブル網と新しい無線電信技術の組み合わせでグローバルな通信網が作られ、大英帝国の統治だけでなく、経済や情報サービスに革新をもたらした。こうして英海軍の優勢が強化されると、貿易、植民地、海軍の三角形はさらに強固なものになった。これら世界に広がる戦略上の拠点を、第一海軍卿のフィッシャーは「地球を戸締まりする鍵」と呼んだ。
▼植民地内陸部の開発
イギリスは、植民地に対して資本と技術を投入して鉱山の開発や食料、工芸作物などの農場を拓き、原住民を労働力として用い、港湾や鉄道の整備を進めた。そして植民地の事業が広範囲に広がり、市場として安定するには現地の政治の安定が求められるようになり、宗主国としての支配力が沿岸の都市部から内陸部に及ぶようになっていった。
イギリスの場合、オーストラリアとニュージーランドを除くと、インドの大部分、五大湖以西のカナダ、ケープタウンの広大な後背地などは貿易や海軍の戦略上の要求とはあまり関係なく、土地を求める白人入植者、辺境地帯を平定するという軍事的理由から獲得されていった。特に1870年代以降になると、ヨーロッパ諸国によるアフリカ内陸部の分割が盛んに行なわれ、イギリスとフランスが対立しながら勢力を拡大し、新たにドイツとイタリアが植民地獲得競争に加わった。
▼植民地政策の変化 -非公式の帝国
自由貿易主義の結果として市場や資源が世界に開かれることになると、それまでの植民地帝国に対する考え方にも変化が生じた。植民地を自国の統治下に置くことは、その行政や防衛の経費がイギリス国民にのしかかる「重荷」ともなるので、海外入植地を植民地化するよりも国として自立してくれるとイギリスにとって一層利益になるという考え方だ。
この考え方の背景には、イギリスが生産する工業製品、特に繊維製品は国内と海外植民地で消費できる量をはるかに超えていたので、植民地以外の新たな市場の開拓が求められたことがある。こうして開拓されたのは、植民地に含まれない東南アジア、ブラジル、アルゼンチン、アフリカ西岸、オーストラリア、中米、南米西岸の国々であった。
これらの国々は、イギリスによる公式な統治を受けるのではなく、イギリスとの貿易がもたらす商業利益と海軍の砲艦外交の「飴と鞭」による影響力で「非公式の帝国」に組み込まれていった。「自由貿易帝国主義」だ。
▼海軍の役割の変化 -砲艦外交
17、8世紀の貿易は主として本国と植民地の間において、東インド会社のような独占的な会社や国家の保護育成政策のもと行われており、海軍の任務はこれを直接保護することであった。
しかし、自由貿易のもとでは相手は植民地とは限らず、広く諸外国を含むようになった。このような変化を受け、海軍の任務は自由貿易を可能とする海洋の平和とイギリスにとって望ましい秩序を維持することであって、平時における軍艦の行動は外交の重要な一環として重要性を増した。武力をちらつかせて交渉を進める砲艦外交は、平時における海軍の重要な任務となったのだ。
この頃にイギリスが行った砲艦外交はアジアに関するものだけでも、清国に対するアヘン戦争(1839-42年)やアロー号事件(1857年)、日本に対する薩英戦争(1863年)や四ヵ国艦隊下関砲撃(1864年)などがあった。
これ以外にもイギリスは、ラテン・アメリカで広がったイスパニアに対する独立運動へのヨーロッパ諸国の干渉を排除するための軍艦増派、ギリシャ独立支援のためフランス、ロシア艦隊とともにトルコ艦隊を撃滅(ナヴァリノの海戦、1827年)、ロシアに対するトルコ支援のため艦隊を黒海へ派遣しセヴァストポリを攻撃・占領(クリミア戦争、1853年)、サルディニア王国によるイタリア統一運動の支援など積極的に海軍を使っている。
このようにイギリス海軍は、被圧迫民族の独立支援、ヨーロッパ諸国間の勢力均衡の維持、アジア・アフリカにおける市場開拓の拠点としての植民地の獲得などに活躍し、外交政策の主要な担い手となった。
▼二国標準主義
イギリス海軍は長期にわたったナポレオン戦争で大幅に拡大された結果、1815年には214隻の戦列艦と792隻のフリゲート等という途方もない規模に達していた。
フランスとの抗争に勝利して大規模な艦隊を維持する必要はなくなったため、イギリス海軍は第2位と3位の海軍国を合わせたものに対処できる規模(「二国標準主義」)として戦列艦100隻とフリゲートなど160隻を持つことにした。これにより1820年までに550隻以上の軍艦が処分された結果、現役に適する戦列艦は1817年の80隻から1835年には58隻に急減してしまった。それでも第2位のフランス海軍は整備状況の悪い戦列艦50隻を保有するにすぎなかったため、イギリス海軍の優位はゆるがなかった。
イギリス海軍は、圧倒的とはいえないが十分な規模の艦隊により、注意深く選定された戦略拠点を活用して拡大を続ける貿易を保護した。そして政府の統治が不十分な地域では、イギリスの国益を擁護し、ある程度においては警察官の役割を果たし、また調査官やガイドの役割も果たした。拡大を続ける植民地が海軍に活動拠点を提供し、はるかに大きな非公式の帝国とともに天然資源の供給元や市場となり、イギリスの力の源泉となっていたのだ。
▼奴隷貿易の取締り
この時期のイギリス海軍の活動として特筆されるべきものに奴隷貿易の取締まりがある。最大の奴隷貿易国であったイギリスでは、国内の奴隷制度廃止運動を受けて1807年に奴隷貿易が禁じられ、奴隷制そのものも1833年に廃止されたため、海軍は奴隷貿易の取締りに乗り出した。1847年までにイギリス海軍の1/3の兵力を西アフリカ小艦隊に投入したにもかかわらず、他国政府や狡猾な奴隷商人たちとの妨害でなかなか成果が上がらなかった。
実際に効果が現れるのは、リンカーンがアメリカ籍船に対する捜索を許可(1861年)してからであるが、その後のペルシャ湾における奴隷取締は第一次世界大戦後まで続いたし、オーストラリア小艦隊は太平洋海域において20世紀を迎える頃まで活動した。
ケネディはシニカルな見方と断りつつ、この奴隷貿易取締りは、奴隷貿易から大きな利益を得ていたイギリス自身の良心の呵責の軽減以外にも、イギリスの軍艦を継続的に派遣し、沿岸国に強制力を及ぼし、海軍の拠点を確保するというパーマストン外交の代名詞でもある「砲艦外交」の一面があったとも見ることができるとしている。(ケネディ2020年、319-20頁)
【主要参考資料】 ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 上』山本文史訳(中央公論新社、2020年)、宮崎正勝著『海からの世界史』(角川選書、2005年)、青木栄一著『シーパワーの世界史①』(出版共同社、1982年)、小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』(原書房、2007年)、田所昌幸編『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』(有斐閣、2006年)、James Cable, GUNBOAT DIPLOMACY, 1919-1991 3rd edition, New York: Palgrave Macmillan, 1994
※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。