シーパワー500年史 14

 前回は、アメリカ独立戦争でイギリスがヨーロッパ中を敵に回して、結果的にアメリカの独立を許してしまい、続くフランス革命戦争には頼りにならない同盟国と参戦した話でした。今回は、英仏が決着をつけたナポレオン戦争と英米が戦った1812年戦争をたどり、最終的に22年にわたる大戦争が終結してイギリスが海上覇権を握りパクス・ブリタニカを確立する話です。ネルソンが戦死したトラファルガーでの大勝利は大変有名ですが、イギリスをフランスの侵攻から救った海戦というのは本当でしょうか?

▼イギリスの苦境

 戦争に疲れたフランスは、プロイセン、オランダ、スペインと次々に講和を結んだため、イギリスの同盟国はオーストリアのみとなり対仏大同盟が崩れた(1795年)。しかもオランダを失ったことでイギリスは大陸への橋頭堡を失い、本土侵攻の危機にさらされるとともに、建艦資材を供給するバルト貿易までも脅かされた。このため、イギリス北海艦隊は泊地に待機するオランダ主力艦隊を4か月もの間監視していたが、オランダ艦隊が出動するや陣形など無視した混戦ののち降伏させた(1797年、カンパーダウンの海戦)。

 これより前の1796年、戦争は5年目を迎え、弱冠27歳のナポレオンのもとフランスは次第に優勢になり、スペインとともにイギリス侵攻のため艦隊を集結させ始めた。英地中海艦隊のネルソン戦隊は、ブレストに集結しようとするスペインの大艦隊を発見すると、その主隊に突っ込み、圧倒的な勝利をおさめて、仏西のイギリス侵攻計画を頓挫させた(セント・ヴィンセント岬の海戦)。この海戦でネルソンは、「見敵必戦」とばかり単縦列を命じた司令長官の命令を無視して戦列を離脱したのだが、大勝利のおかげで命令違反は不問とされたばかりか昇任さえ手に入れた。

 こうしてイギリスは、当面の英本土侵攻の脅威から逃れることができた。しかし、陸戦に強いフランスはすでにイタリアとベルギーを制覇し、オーストリアと和睦し、オランダを傘下に収めている。それにひきかえイギリスは一国でフランスに敵対するという苦境に立たされていた。

▼ナポレオンエジプト遠征軍との戦い

 1797年末、ナポレオンはパリに凱旋したが、彼はすでにアレキサンダー大王の夢を実現し、イギリスにも影響を及ぼせる遙か東方のインドを見据えていた。彼は紅海経由でインドに向かうことを考え、まずエジプトを攻略してこの地方のオスマン・トルコを駆逐することにし、直ちにエジプト遠征作戦の立案にとりかかった。

 翌年、ネルソンは地中海に派遣され、ナポレオン遠征軍に対する索敵を開始する。3ヶ月後、ようやくアブキール湾に錨泊しているフランス艦隊を発見したネルソンは、直ちにフランス艦隊の錨泊列線の至近距離に投錨し、夜を徹して猛烈な砲火を浴びせた(アブキールの海戦)。フランス艦が通常の艦首錨だけだったので風に振れ回って砲撃が思うにまかせなかったのに比べ、イギリス艦は艦首と艦尾それぞれに錨を打ち、錨綱を自在に操って艦の向きを変えながら砲撃できた。すべてはネルソンの周到な計画にもとづく完勝だった。

 このアブキールの勝利により、イギリスは地中海の制海権を奪回しミノルカ島を占領した。そして、イギリス、ロシア、オーストリア、ポルトガル、トルコ、及びナポリからなる第二次対仏大同盟を結成したが、ロシアは地中海への進出、オーストリアはイタリアの旧領土の回復、トルコはエジプト内の領土の保全という具合に各同盟国の狙いはまたもやバラバラだった。

 フランスは地中海の制海権を失いエジプトへの兵站線を維持できなくなったため、エジプト侵攻作戦は頓挫した。さらに、トルコがエジプト各地でナポレオン軍への攻撃を始めたため、追い詰められたナポレオンは、フリゲートに隠れてアレクサンドリアから脱出した。パリにもどったナポレオンは、自ら画策したクーデターで事実上の独裁体制を確立する(1799年)。

▼コペンハーゲンの海戦 ネルソンの「命令無視」

 地中海進出の野心を持つロシアはマルタ島を狙っていたが、イギリスが同島を占領したことで関係が悪化した。このためロシアは、帝国内の海港へのイギリス船の出入りを禁じて、スウェーデン、デンマーク、及びプロイセンと同盟(第二次武装中立同盟)を結成したため第二次対仏大同盟は瓦解してしまった。

 この同盟がイギリスにとって問題だったのは、バルト海方面から艦艇建造資材を輸入できなくなったことであり、翌1801年、イギリスはロシア、スウェーデン、デンマークの対仏貿易船の拿捕を警告したのち、コペンハーゲンを攻撃するという強硬手段に出た。

 イギリス艦隊は次席指揮官ネルソンの指揮で、多くの陸上砲台によって守られたコペンハーゲンの敵陣に突入した。イギリス艦隊の形勢が悪くなったため不安になった首席指揮官は「交戦を中止せよ」との信号を送ったが、ネルソンはもともと見えない右目に望遠鏡をあて「私には何も見えない」とうそぶき「信号16番(交戦せよ)は釘付けにしておけ。それが私の応答信号だ」と怒鳴ったという逸話がある。やがてデンマークの砲は沈黙し、コペンハーゲンの海戦はイギリス艦隊の圧倒的勝利で終わった。ネルソンの「命令無視」は今回も問題とされなかった。

 この戦争でイギリスとフランスは、それぞれ海戦と陸戦で勝ち続けたため、なかなか講和に至らなかったが、1802年、アミアンの和約により10年間に及んだフランス革命戦争は終結した。イギリスはマルタとエジプトからの撤退を約束し、フランスはイギリスに占領された領域を回復することになった。

 しかし、和約の取り決めはほとんど守られなかったばかりか、フランスがイギリス製品の締め出しを図ったことに対抗して、イギリスがフランス船を拿捕したことをきっかけとして両国関係は再び悪化した。

▼ナポレオンのイギリス侵攻作戦

 1803年、イギリスが再度フランスへ宣戦すると、ナポレオンは直ちにイギリス侵攻を決意する。

 ナポレオンは、イギリスをかく乱するために英国王の故国ハノーヴァーとレヴァント貿易の拠点であるナポリへ軍を進め、オランダにイギリスへ宣戦布告させてイギリス艦隊の勢力を分散させた。侵攻計画は、イギリスの対岸に16万5000名の陸兵と2,000隻近くの輸送船を用意し、ブレスト艦隊が兵力2万をもってアイルランドに向かうことで陽動し、その隙にツーロン艦隊が海峡の制海権を確保して主力を上陸させるというものだった。

 作戦準備が遅れたため、1805年にようやく発動になったが初動であえなく失敗した。風任せの帆走軍艦が広い海域で主作戦と陽動を同期させるのはそもそも無理な相談で、作戦は大幅に変更される。新しい陽動作戦は、遙か西インド諸島に主力のフランス艦隊全部を派遣してイギリス艦隊の分散を強いるという途方もないものになってしまった。

 当初の計画から1年以上の遅れで2回目の発動となるが、主作戦を担当するはずのブレスト艦隊はイギリス艦隊に封鎖され身動きできず、陽動作戦担当のヴィルニューヴ率いるツーロン艦隊はなんとか脱出したものの、ネルソン率いるイギリス艦隊による追跡を受けカディスに逃げ込んでしまい、実質的にこの時点で英侵攻計画は失敗した。

 陸戦の天才も艦隊の運用については無知だったというしかないが、ナポレオンの戦争を研究してジョミニやクラウゼヴイッツが1830年代に陸戦理論を世に問うているのに対して、ネルソンの戦法の理論づけは難しく海戦理論の体系化は20世紀初頭まで待たなければならなかった。これには帆船の原動力の不確実さが大いに関係していると考えられるが、海軍兵術の遅れについては後の回で論じたい。

▼トラファルガー海戦

 イギリス侵攻を諦めたナポレオンは、オーストリア攻略の準備としてナポリ攻撃を計画し、ツーロン艦隊にその支援を命じた。ナポレオンは、カディスに封鎖されて役に立たなかったヴィルニューヴを更迭しようとするのだが、その噂を聞きつけた本人は大いに焦り、怯懦の汚名をそそぐため、急遽、艦隊を率いて出撃する。

 ほどなくヴィルニューヴ率いるフランス・スペイン連合艦隊はトラファルガー岬沖でネルソン艦隊に捕捉され、遭遇戦となる。トラファルガー海戦の始まりだ。カディスに避退する動きを見せる単縦陣のヴィルニューヴ艦隊に対して、ネルソンは2列の縦列で突入して5時間の激しい混戦を制した(1805年、トラファルガーの海戦)。

 トラファルガーの大勝利が当時のイギリス中を沸き立たせ、今なお語り継がれるのは、イギリス側に喪失艦がなかったのに対し敵が18隻という一方的な勝利だったこと、そして祖国をフランスの侵攻から救ったからとされる。前者の戦果は事実であるが、後者のフランスの侵攻から救ったことは間違いともいえるし正しいともいえる。すでに述べたように、ナポレオンは対英侵攻を諦めてオーストリアに転戦していたし、撃破されたヴィルニューヴ艦隊の任務もナポリ攻撃の支援だったことから、歴史の後知恵として見れば間違いということになる。しかし、当時は2ヶ月前にナポレオンがこのような決心をしていたことはイギリス側では知るよしもなかったのだから、全く正しいともいえるだろう。

 いずれにせよナポレオンは、トラファルガー後もプロイセンとオーストリアを制するなど依然として優勢で、この海戦が戦争の大勢に直接的な影響を及ぼすことはなかったのである。

▼大陸封鎖令とナポレオンの没落

フランス艦隊はトラファルガーで惨敗し、イギリスを攻略する物理的手段はなくなっていたので、大陸制覇を達成したナポレオンは、イギリスを孤立させ弱体化させるために大陸封鎖令を出す(1806年)。これはイギリスが先に出した大陸沿岸の諸港に対する封鎖宣言に対する対抗措置でもあり、大陸とイギリス及びその植民地との交易、通信を禁止するものだった。

 イギリス経済は不況となり、フランスの私掠船の跳梁などもあり国内情勢が悪化した。ヨーロッパ諸国は封鎖への参加を余儀なくされたが、各国の経済は産業革命で工業の発達したイギリスとの通商なしには成り立たず、離反する国が後を絶たなかった。このため、ナポレオンはポルトガルを従わせるための派兵でイベリア半島戦争(1808-14年)の泥沼にはまり、ロシアを罰するための遠征で大敗(1812年)して没落を決定的にしてしまう。

▼1812年戦争

 アメリカはナポレオン戦争に中立の立場をとっていたが、英海軍は米海軍と軍艦同士の小競り合いを起こしたり、アメリカ商船を臨検して「イギリス国籍」の船員1万名以上を拉致して強制的に入隊させたりしたので、米国民の対英感情は極めて悪化していた。アメリカは、ナポレオン戦争の隙にカナダをイギリスから奪うことを考え、1812年、イギリスに宣戦した(1812年戦争)。

 開戦時の米海軍の航洋艦はわずか10隻で戦列艦はなかった。ナポレオンがモスクワ遠征に失敗すると、英海軍は強力な艦隊をアメリカ大陸沿岸に振り向け厳重な封鎖を行うとともに、カナダに展開していたイギリス陸軍は南下を開始した。英海軍の封鎖により大西洋で活躍したアメリカ商船隊は影を潜め、代わりに封鎖を突破したアメリカの軍艦や私掠船が通商破壊戦に全力をあげ、その活動範囲は大西洋全域と一部は南太平洋に及んだ。

 ちなみに、米海軍のモットーである「艦を見捨てるな!」という言葉は、米フリゲート「チェサピーク」艦長のローレンスが、ボストン沖で英フリゲート「シャノン」と一騎打ちの戦闘となったとき(1813年)、死に際に叫んだ言葉とされている。 

 五大湖方面では、アメリカの湖上艦隊はイギリス艦隊を撃破し、カナダから南下してくるイギリス陸軍を阻止できたが、戦争の目的であったカナダ侵略は達成できなかった。1815年、両国とも決定的な勝利を収めることなく、カナダとアメリカの国境を画定して(ゲントの和約)戦争に終止符を打った。

▼パックス・ブリタニカへの道

 22年にわたる大戦争におけるトラファルガーまでの数回の大海戦において、ネルソンをはじめとするイギリス艦隊の司令長官たちは戦術準則の束縛から離れ、積極果敢に敵艦列に突入して勝利を重ね、海上におけるイギリスの制海権をゆるぎないものにした。

 トラファルガーの後、仏米などの少数の軍艦や私掠船がイギリス海軍の隙をついて大西洋やインド洋で行う通商破壊戦はかなりの戦果をあげたが、圧倒的な戦力となったイギリス海軍に正面から挑戦できる海軍はもはやなくなっていた。

 イギリス海軍は、フランス革命戦争とナポレオン戦争を戦い抜く間に大拡張された。アメリカ独立戦争終結時(1783年)、戦列艦58隻、フリゲート198隻だったものが、フランス革命戦争開戦時(1793年)にはそれぞれ135隻と133隻、そしてナポレオン戦争終結時(1815年)には202隻と277隻となっていた。人員は1794年の約85,000人から1813年の約130,000人に増加した。

 このような大拡張を支えた海軍予算は、1793年の240万ポンド(国家予算の12%)から1815年には2,280万ポンド(同20%)に急増しているが、この莫大な予算は、イギリスが世界に先駆けて成し遂げた産業革命のもたらした経済力によってまかなわれたことは言うまでもない。

 イギリスは製鉄、繊維、機械、造船などで大きく成長しており、輸出額は戦争中にもかかわらず、1,357万ポンド(1793年)から4,489万ポンド(1815年)に急伸、税収も295万ポンドから950万ポンドに増加した。海軍予算は一般の税収に加えて国債でもまかなわれた。国債発行残高は1793年の2億9,900万ポンドから、1815年には8億3,400万ポンドに増えているが、当時のイギリス経済にはこのような巨額の国債引き受け能力があったということだ。

 イギリス海軍による海上覇権の確立により、海上貿易はナポレオンに制圧されたヨーロッパ大陸とアメリカ合衆国を除けば、イギリス商船隊の独占に近いものとなった。ナポレオン戦争の頃には、テームズ川の両岸に貿易相手先ごとに多くの桟橋が作られ、ロンドン港は大いに繁栄した。イギリス経済の高度成長のおかげで拡張された海軍力は世界の海で覇権を確立し、そのことがイギリスの貿易を伸ばして高度経済成長の基盤となったといえる。

 トラファルガー海戦後のイギリスは、イタリア南部カラブリアに強襲作戦を敢行しフランス軍を撃破したり、コペンハーゲンを攻撃してデンマーク艦隊を撃滅したりして、ナポレオンを相手に孤軍奮闘した。ワーテルローの戦い(1815年)でフランス軍が壊滅しナポレオンが最終的に退位、フランス革命以来20年以上にわたった大戦争が終結した。

 以後、イギリスにとって、ナヴァリノの海戦(1827年)やクリミア戦争(1854-56年)に加えて植民地をめぐる小戦争はあったものの、他国と海上覇権をかけて争うような戦争は約100年後の第一次世界大戦(1914-18年)まで起こらなかった。イギリスの世紀、「パクス・ブリタニカ」が到来したのだ。

【主要参考資料】ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 上』山本文史訳(中央公論新社、2020年)、宮崎正勝著『海からの世界史』(角川選書、2005年)、青木栄一著『シーパワーの世界史①』(出版共同社、1982年)、小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』(原書房、2007年)、堀元美著『帆船時代のアメリカ 上』(原書房、1982年)、田所昌幸編『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』(有斐閣、2006年)、ジョン・テレン著、石島晴夫訳編『トラファルガル海戦』(原書房、1979年)

※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。