シーパワー500年史 13
前回は、ピットが登場してイギリス海軍が立ち直り、七年戦争に勝利して大英帝国の基盤を作るところまででした。今回は、アメリカ独立戦争からフランス革命戦争までの話です。アメリカにも海軍が誕生してイギリス海軍と戦いますが、フランスの参戦で英仏の激突となります。イギリスがアメリカの独立を許してしまうのはなぜでしょうか。フランス革命戦争が始まると、いよいよ英仏抗争も最終段階です。
▼アメリカ独立戦争 初期の海上作戦
イギリス領植民地の独立運動は、イギリス陸軍と植民地民兵の武力衝突(1775年、レキシントン・コンコードの戦い)へとエスカレートし、アメリカ独立戦争が始まった。
植民地連合の実質的な中央政府である大陸会議は、わずかな武装船で大陸海軍(continental navy)を創設(1775年)し、拿捕免許状を発行してイギリス沿岸を含む大西洋で通商破壊戦を開始した。アメリカ海軍の誕生である。ちなみに現在でも米海軍が掲げている赤白13本の横縞にガラガラ蛇を描いた「DON’T TREAD ON ME」の旗は、大陸海軍で作られた最初の旗である。
イギリス海軍は1778年頃までは、主に北米沿岸、湖や川において陸軍への支援作戦を行なっていたが、七年戦争後の海軍予算の削減で戦力は大幅に低下していたため、北米海域に50隻、西インド諸島方面には10隻足らずしか展開できなかった。このため大陸海軍の私掠活動への対応にも苦戦し、ボストンのイギリス軍への補給路も断たれるほどだったし、西インド諸島からの植民地軍の武器弾薬の密輸なども阻止できなかった。アメリカの私掠船は戦争中に600隻ものイギリス船を拿捕したという。
ちなみに、この頃のエピソードとして、アメリカのジョン・ポール・ジョーンズは「ボノム・リチャード」などでイギリス周辺海域での私掠活動を行っていたが、イギリスの新鋭フリゲート「セラピス」と壮絶な一騎打ちとなり降伏勧告を受けた(1779年)ことがある。このときにジョーンズが発した「戦いはまだ始まっていない!」という言葉は現在でもアメリカ海軍の敢闘精神を象徴するものとして知られている。
▼フランス参戦後の海上作戦
1778年にはフランスが参戦してイギリスの主敵となる。フランスのねらいは、植民地の独立により仇敵イギリスを弱体化させるとともに、アメリカという有力な同盟国を得ること、そして西インド諸島方面からのイギリス勢力の一掃だった。フランスに続いて、ミノルカ、ジブラルタル及びフロリダを取り戻す絶好の機会とみたスペインも参戦してきた。
1780年、イギリスはオランダにも宣戦するが、オランダがアメリカと同盟を結ぼうとしていることをつかんだため、伝統的な同盟国オランダの裏切りを許せなかったのである。さらにロシアが北欧諸国を誘ってイギリスの戦時禁制品の臨検に対する武装中立同盟を結成するに至って、イギリスはほぼ全ヨーロッパを敵に回すことになった。
減勢した英海軍に比べると、フランスは七年戦争後には戦列艦80隻などを建造して着々と再建されていたし、スペインも既就役艦60隻に40隻を追加しつつあり、1779年には仏西連合がイギリスを戦列艦の隻数で上回り、年々その差は開いていった。このように有力な海軍国がこぞって参戦したため、戦域は必然的に西インド諸島やインド洋にも拡大し、激しい海戦が繰り広げられることになった。
▼英仏艦隊の激突 イギリス海軍の凋落
当初、イギリス海軍の司令官らは本来同国人であるアメリカ人と戦うことに戸惑いがあったが、仇敵フランスが相手となると各地で激しい海戦が戦われた。
1778年にはフランス艦隊と英艦隊の交戦が北米海域(ナガランセット湾沖の海戦)とブレスト沖(アシャント島の海戦)で起きたが勝敗はつかず、戦局にも影響しなかった。むしろ問題だったのはアシャント島の海戦の後の軍法会議であり、世論の圧力に負けたアドミラルティが渋々開き、ベテラン指揮官たちの戦いぶりを政争の具としてしまったのである。このため高級士官たちは、政府やアドミラルティを信頼しなくなり、指揮官職の任命を回避するというイギリス海軍の凋落ぶりを象徴する事態となった。
このあと英仏艦隊の主戦場は、当時最も豊かな資源地帯であり海上交易路の集まる西インド諸島海域へ移る。フランスは同海域からの英勢力の駆逐を狙っていたし、イギリスにとっても同諸島は戦費調達のために不可欠だったのだ。しかし決定的な海戦は起きず、優勢なフランス戦隊は英艦隊の動きを封じ込めてしまった。
▼仏西の英本土侵攻作戦 セント・ヴィンセント岬の月光の海戦
この戦争でもフランスはイギリス本土の侵攻作戦を計画し、1779年、スペインとの連合艦隊を編成したが、連合艦隊側の指揮の乱れと天候悪化で頓挫した。
この間、スペイン軍はジブラルタルの包囲を固めていたので、ロドニー率いる英艦隊はジブラルタルの救援に向かい、月明かりの夜戦においてスペイン艦多数を捕獲する(1779年、セント・ヴィンセント岬の月光の海戦)。この頃にはイギリス艦の艦底は銅板で覆われて速力が向上しており、スペイン艦隊への追撃戦に大いに威力を発揮した。なお、スペインは、ジブラルタル救援を許した腹いせに仏西連合国艦隊でミノルカ島を奪回してしまう(1781年)。
▼チェサピーク湾の制海権が決めた独立戦争の終結
北米での戦いでは、イギリス軍はサウス・キャロライナのチャールストンを占領する(1780年)が、植民地軍の内陸への誘因策にのせられて翌年にはチェサピーク湾南西部のヨークタウンまで進出してしまい、補給不足に陥っていた。イギリス軍の拠点はニューヨークにあったので、ヨークタウンとの連絡線は海路だけになり、チェサピーク湾の制海権を決する英仏艦隊の戦いに戦局がかかっていた。
植民地軍総司令官のワシントンがフランスに対して軍資金と艦隊の提供を求める書簡を送ると、この要望は通報艦によって西インド諸島に展開していた仏艦隊に達し、ド・グラース司令官がすべての仏艦隊を率いてチェサピーク湾に向かうことになり、そのことも通報艦で米仏の包囲軍に知らされた。西インド諸島のイギリス艦隊の一部もアメリカ東岸に向かったが、それを知らせる通報艦は不運にもアメリカ海軍に捕獲され情報は達しなかった。
1781年、英仏艦隊は2回にわたって戦火を交えたが、勝負のつかなかった1回目と異なり2回目の海戦では、ワシントンの要望で西インド諸島から回航してきたフランスの有力なド・グラース艦隊が出現した。イギリス艦隊が戦列にこだわる過ちを犯したこともあり、チェサピーク湾の制海権をフランスに握られてしまった。米仏連合の陸軍はこの海戦と呼応してヨークタウンのイギリス軍を包囲すると、ほどなく降伏して北米の戦闘は実質的に終わった。チェサピーク湾の制海権が独立戦争の終結を決めたのだが、そこにはワシントンの的確な判断と、通報艦による情報伝達が成功したという幸運も大いに関係していた。
▼セイント諸島の海戦 敵戦列の突破
チェサピーク湾の海戦が終わると、フランスの次の目標はイギリス領ジャマイカの攻略だった。ジャマイカに向かうフランス艦隊に対し、ロドネー率いるイギリス艦隊がほぼ互角の兵力で会敵し、ロドネーはフランス艦列の隙間に突入し、これを分断、混乱に陥れ退却させジャマイカ攻略を阻止した(1782年、セインツの海戦)。これでフランスの参戦目的のひとつであった西インド諸島からのイギリス勢力の排除はできなかった。
ところで、この海戦で行われた「敵戦列の突破」は、それまで危険な戦術であるとして事実上封印されていたものを成功させたロドネーの名声を高めたのだが、のちに単なる成り行きの結果であることを本人が明らかにしている。いずれにせよこれをきっかけとして、イギリス艦隊は、のちのフランス革命戦争やナポレオン戦争において、戦術準則にこだわらず敵の戦列に突入、分断して決戦を強要するという戦術でしばしば勝利を得るようになる。
▼講和条約 イギリス海軍の敗因
インド洋でも英仏戦隊は激しい海戦を繰り返したが決着のつかないまま英米はパリ条約(1783年)で休戦となり、イギリス軍の撤退で終戦となった。
フランスは西インド諸島の島々、アフリカの一部、インドの既存施設と交易権、そしてニューファンドランドの漁業権を獲得し、スペインはミノルカを獲得し、フロリダを譲渡された。イギリスは、西インド諸島の島々やジブラルタルなどは確保したが、七年戦争で作った大英帝国の基盤からアメリカという最大の植民地を失ってしまった。
イギリスの根本的な敗因は、伝統的な国家戦略であるヨーロッパ大陸の勢力均衡政策をとらずに敵を増やしたことであり、七年戦争後の艦隊の整備を怠り、チェサピーク湾の海戦に見るように硬直的な戦術で決定的な時期にアメリカ沿岸の制海権を失ったことだった。
▼ピットの建艦政策
アメリカ独立戦争後のイギリスは、深刻な財政難に陥り、外交でもヨーロッパで孤立した。このような苦境にあっても、首相(小)ピットは「国家の安全保障が担保されなければ、経済政策を推進すべき平和を持続できない」と強い反対を押し切って、歳入の1割を艦艇建造費に充てるようにした(1783年)。この政策は20年後のトラファルガーの海戦で成果を見ることになる。
第一次露土戦争(1768-74年)で黒海沿岸への進出を果たしたロシアは、黒海艦隊の編成とセヴァストポリの軍港建設に着手(1776年)し、南下政策を進めてきた。ついで第二次露土戦争(1787-91年)ではロシアがトルコを制覇する勢いをみせた。
こうなるとロシア艦隊が地中海へ進出してエジプトも征服しかねず、陸路スエズを経由するイギリスの植民地戦略上重要なインド航路が脅かされることになってしまう。こうした危機に際して、イギリスが艦隊で断固たる対応ができたのは、ピットの建艦計画のおかげであり、アメリカ独立戦争終結時に58隻まで減少していた戦列艦が、この頃には93隻まで回復していた。
▼フランス革命戦争 英仏抗争の最終段階のはじまり
フランス革命(1789-99年)が起き、共和制となり革命が激化してくると、ヨーロッパ列強の革命潰しを狙った侵攻とフランスの反撃によって戦争が始まった。1793年、フランス国民議会はイギリスとオランダに対して宣戦布告し、イギリスはオーストリア、オランダ、プロイセン、スペインなどと第一次対仏大同盟を結成する。フランス革命戦争とその後のナポレオン戦争の22年間にわたる英仏抗争の最終段階の始まりだ。
戦争が始まるとイギリスでは、海洋派対大陸派の伝統的な戦略論争が再燃した。大陸派は、フランスの周辺国を支援して、後にナポレオンが「イングランドを狙うピストル」と呼ぶ沿岸地域を支配させないようにすべきと考えた。一方、ピットに代表される海洋派は大陸派をしりぞけ、海軍力でフランスの貿易と植民地を叩いて、戦時経済の財源を断ち切ることにした。
フランス艦隊は、革命の影響で一時期完全に秩序が崩壊し、多くの経験豊富な指揮官を失ったばかりか、どの艦も訓練不足のまま戦争に突入していた。しかし、フランスは自給自足の広大な大陸国家で、海運や植民地防衛の必要性もイギリスほどは高くなかったため、その艦隊を随時、通商破壊など攻撃目的に回すことができた。このため、イギリスは防衛のための兵力を広く張り付けなければならず、対仏同盟側の戦列艦がフランスの3倍以上あったとはいえ、同盟国の戦意も低く、当てにならなかった。
1793年、ツーロンを占拠した反革命勢力が、ツーロン艦隊をそっくりイギリスに引き渡すという話が舞い込み、イギリスは早速、地中海艦隊を差し向けてツーロンを占領してしまうが、同盟国の結束が悪く、4か月後には奪回されてしまう。スペインの派遣した戦隊はやる気がなく、オランダはまたもや条約義務を履行せず艦隊を派遣しなかったのだ。
ツーロン撤退後にイギリスが狙ったのは、地中海の戦略的要地にあるコルシカ島だった。この島は、近くにレヴァント貿易の拠点があり、ツーロンの造船所の建造用木材の供給地でもあった。イギリスは先任指揮官ネルソンのもと激烈な攻防戦を演じて、地中海における艦隊の策源地の確保に成功した(1794年)。
同年、イギリス艦隊がアメリカからの帰国船団を護衛中のフランス艦隊と大西洋で交戦し、「栄光の6月1日」と呼ばれる大勝利を収めると、またもやフランスは制海権の獲得をあきらめ、ルイ14世時代の通商破壊戦に移行してしまう。
【主要参考資料】 ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 上』山本文史訳(中央公論新社、2020年)、青木栄一著『シーパワーの世界史①』(出版共同社、1982年)、小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』(原書房、2007年)、堀元美著『帆船時代のアメリカ 上』(原書房、1982年)、田所昌幸、阿川尚之編『海洋国家としてのアメリカ』(千倉書房、2013年)、田所昌幸編『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』(有斐閣、2006年)
※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。