シーパワー500年史 10
前回は、イギリスが英蘭戦争を仕掛けてオランダ潰しを始めた話でした。今回は、フランスが仕掛けた3回目の英蘭戦争の話です。オランダはいよいよ衰退の道をたどることになります。
ちなみに今回の話を含めて英蘭戦争は2015年のオランダ映画『提督の艦隊』に映像化されており、なかなかの見応えです。DVDやアマゾンプライムなどで見ることができますので興味のある方はご覧になってはいかがでしょうか。
▼フランスの敵意
オランダのレヘントたちは、強い反軍思想から国の安全保障はもっぱら「平和外交」に頼ることにし、できる限り多くの国と同盟を結んだが、なかでもフランスとの同盟を最も重要なものと考えていた。
オランダはフランスに対して同盟義務の履行を執拗に求めたが、外相からは「もしわれわれが今日、英国を敵にすれば、明日は貴国は英国と組んでわれわれを攻めに来るのであろう。かつて貴国は悪しき政策をとり、われわれを信頼していないことを示した」(岡崎 1999、280)と告げられ、突き放されてしまう。フランスにしてみれば、スペインという共通の脅威があってこその同盟であり、オランダから受けた背信もあって、その同盟義務を守る気ははじめからなかったのである。他国からも援助は得られず、すべての同盟国に見捨てられたことを知ったレヘントたちは驚愕した。
そもそも国民の反オランダ感情は、イギリスにおけるよりフランスの方がひどかったという。オランダの国民性として義務を履行する名誉というものを理解しないのだから、手荒なことをしない限り直らないとさえ考えられていた。
これだけの敵意があることに気がつかないで、フランスに同盟義務の履行を迫る無神経さは、無総督時代のなせる業というしかない。このあと様々な紆余曲折があったもののフランスの「オランダ滅亡すべし」という意思は変わらず、両国は戦火を交えることになる。
▼コルベールの登場 フランスの重商主義
フランスは、第二次英蘭戦争のあいだは英蘭双方が疲弊するのをみていたが、戦争が終わるとオランダいじめをエスカレートさせた。
1661年にフランスの財務総監となったコルベールは、ルイ14世の主宰する経済会議を新設した。彼はこの会議において、それまで国庫収入を最大にする目的でかけられていただけの関税を、自国の産業保護と輸出振興の目的に使うという政策を決定する。経済史上、革命的ともいえるこの関税政策は、もちろんオランダをターゲットにしており、フランスの海運、貿易、産業を振興させるためオランダを狙い撃ちした非情の政策が次々と実行されていった。
コルベールはまた、軍備の増強にも務めた。彼の就任時にわずか18隻の軍艦しか持たなかった海軍は、1672年には196隻を擁する大海軍に成長した。陸軍もヨーロッパ最精鋭といわれるまでになった。
ルイ14世はスペインのフィリップ4世の死により、スペイン領ネーデルラントの継承権を主張してオランダに侵入した(1667年)が、オランダは英国とスウェーデンとの同盟を結んで対抗したため、やむなく兵を引いた。ルイは、この恨みを晴らすためチャールズ2世やその側近たちに金銭をばらまき、侍女を「献上」して籠絡し、オランダ征服のための布石を着々と打っていった。
フランスが1667年にそれまでの関税率を大幅に引き上げると、報復措置の応酬となり経済戦争の様相を呈してきた。最終的にオランダのワイン禁輸が切り札となり、その半年後には戦争が始まってしまう。
▼お粗末なオランダの臨戦準備
これに対してオランダの臨戦態勢はお粗末の一語に尽きる。ブレダの平和条約(1667年)を受けて、ホラント州はすでに空位となっている総督を国軍司令官の職から「未来永劫に」切り離すことにしたため、国軍全部を統合指揮する司令部は存在しないことになった。
フランスとの戦争が近づくにつれ、議会は成人したオランイェ公ウィレム3世を総司令官に任命しようとしたがホラント州は反対し、結局、議会が選んだ8名の代理が常にウィレムに随伴して戦争を指揮するという妥協が成立した。このような状況で戦争準備が進むはずがない。オランダは、再び準備がないまま戦争に押し流される。
一方のフランス軍の侵攻準備は大規模かつ露骨で、オランダ内の武器弾薬の買い占めにもオランダ商人は喜んで応じる始末で、国境近くの倉庫には大量の弾薬食糧が集積された。これを先制攻撃すべしとの意見もあったがオランダ政治の多数決ルールの下では決断できず、結局補給が完了して準備万端フランス軍が侵攻してくるのを待つ状況となった。
イギリスでは、チャールズ2世はルイの外交工作が成功してオランダ征服を支持する立場をとるようになり、国民も相変わらずオランダ潰しを強く支持していた。議会もまた、英国王とフランス王が世界的帝国を建設するにあたっての貿易と海上覇権の唯一の競争者であるオランダを共同して引きずり落さねばならないとの立場で一致した。
ルイは、イングランド王室の相変わらずの財政難に目をつけ、経済援助と引き換えに対オランダ戦争への協力を打診した。さらにチャールズがオランダに戦争を仕掛ければ、フランス艦隊をイングランド指揮官の下に置き、ホラント州の領有をも認める密約を結んだ(ドーバーの密約、1670年)。
▼第三次英蘭戦争 デ・ウィットの最期
密約どおりにイギリスが仕掛けて、英仏はオランダに宣戦を布告した(1972年)。この戦争が前の二つと違うのは、ルイの軍隊がオランダに侵攻し、英仏連合艦隊は水陸両用作戦で支援したことであり、海戦に加えて陸戦も展開されたことだ。
オランダは英仏連合の海軍力を前にして民間船を守ることは不可能と判断して、商船と漁船の出航を禁止してしまったので、繁栄と安寧を謳歌していた市民生活はたちまち崩壊した。フランスは、オランダを植民地化するに等しい苛烈な降伏条件を示したが、レヘントの多くはオランイェ派に権力を渡すくらいならフランスの支配の方を望んだ。
国の存亡の危機にあってなお党争を優先し、国を売ろうとするレヘントに対する民衆の怒りはついに爆発し、オランダ全土で暴動が起きた。デ・ウィットは辞職を拒否したが、民衆に捕らえられて惨殺され、一人が指を切り取って「これがオランイェ公の永久排除を誓った指だ」と叫んだ後は、その死体は無残に切り刻まれ、売られ、そして焼かれた。アムステルダム市民はホラント州の全議員を罷免し、オランイェ公を迎えることを決定した。
司令官に任命されたウィレム3世は、義務を怠った士官を処刑して軍の規律を正し、仏英からの和平提案を蹴り、フランスの覇権をよろこばないオーストリアやスペインと同盟した。こうしてオランダは1672年の冬を持ちこたえ、73年になって同盟国からの援軍が加わるとフランス軍はオランダから兵を引いた。
英国にとっては、オランダが商船の出港を止めたため、過去2回の戦争と違って国民の喜ぶ海上の戦利品が得られなくなったばかりか、大量の失業者となったオランダの船員は、各地で私掠船に乗って英、仏の通商路を妨害、掠奪したため、戦争の「うま味」が全然なくなってしまった。
戦争1年目は激しい戦闘が展開されたが、2年目には目立った海戦もなく、英蘭両国とも東西インドの植民地活動に励んだ。英蘭戦争は植民地には飛び火しなかったが、これはのちの英仏抗争がすべて植民地に波及したことと大きく違う点である。
戦争末期になると、オランダは陸上戦闘の弾薬が欠乏したので海軍への補給を止め、水兵の多くは海兵隊に転用された。その直後、英国はオランダ襲撃の大艦隊を編成して海から迫ってきた。海からの攻撃に弱いアムステルダムには、これを防ぐ手だてはなかった。艦も乗組員も弾薬も持たないデ・ロイテルは絶望して「もはや風以外には英国の海からの攻撃を守る手だてはない」と嘆いたが、まさにその時に暴風雨が襲い、英国の攻撃は阻止されてオランダは救われている。オランダにも「神風」が吹いたのである。
イギリスは、賢明にも途中でオランダと単独講和し(1674年ウェストミンスター条約)、前回の轍を踏まなかった。フランスとの講和条約は長引いたが78年に妥結した。
▼オランダ窮地を脱する 名誉革命
こうしてオランダはなんとか生き延びたが、美しい牧場は泥地となり、産業の多くは破壊あるいは国外に逃れ、国土は荒れ果てた。しかも外部の脅威はこれで去ったわけではなかった。
英国をカトリック国に変えようとしたジェームズ2世は、国民の強い反発を買ったため、もう一度、国民に評判のよいオランダ戦争をして国民の関心を外に向けようと考えたのだ。ジェームズは私掠船にオランダ船を掠奪する許可を与える一方、大艦隊を建造して戦争の準備を進めた。また、英国が対オランダ戦争を始めればフランスの参戦も必至の情勢だった。
すでに疲弊しきっていたオランダは再び戦争の危機に直面した。これを救えるのはもはや奇跡しかないと思われたが、その奇跡が起こった。英国の名誉革命(1688年)である。英国議会がオランダ総督オランイェ公ウィレム3世を国王として迎え(イギリス王ウィリアム3世)、ジェームズ2世がフランスに亡命し、戦争が回避されたのだ。
▼オランダの敗因
英蘭戦争において、オランダは一つひとつの海戦には勝つことも多かったが、全般を通じて劣勢を挽回できなかった。
その最大の原因は、これまで見てきたようにオランダの政治体制にある。地方分権主義の強いオランダの七つの州のうち、最も有力なホラント州はレヘントが議会を支配しており、万事経済優先の考え方をとった。一方、軍事的指導者としては総督がおり、実質的にオランイェ家の世襲であり、より統一されたオランダを指向し、レヘントたちと政争を繰り広げてきた。このような体制で、中央集権的な絶対主義政権をもつイングランドやフランスと戦えば、対応に遅れが出るのは当然であった。しかも1650~72年は無総督時代であり、レヘント出身のデ・ウィットがホラント州首相として連邦のリーダーシップをとったが、その顛末は前述のとおりである。
もう一つの原因は、オランダの政治体制が海軍に及ぼした影響である。オランダは各州の権限が極めて強く、各州議会は軍事面にすら権限を持っていた。艦艇が州ごとの予算で建造されることはもちろん、人事権も各州に握られていたため、オランダ艦隊は各州の寄せ集め艦隊だった。このため州の対立は艦隊内にも反映され、司令官の指揮に従わない艦長が出るほどで、艦隊の統一行動に大きな支障をきたしたのである。
▼英蘭戦争のイングランド海軍への意義
第一次英蘭戦争を戦った共和制海軍は、管理運営、兵力整備、人事制度など様々に改善し、王室海軍から国家の海軍への転機となった。特に戦略や戦術を確立したことは、その後のイングランド海軍の発展の基礎となった。
戦略面では、海軍の任務として商船隊の護衛が加わり、そのために確保しなければならない制海権(Command of the sea)の概念が生まれた。「いまやイングランドは税金で艦隊を整備し、これを議会が運用する。換言すれば、国家と国民が艦隊のオーナーとなった。かつての王室艦隊が臣民の貿易を防護するとは考えられないことであった。だが、国民が自分たちの艦隊に自分たちの貿易の保護を要求するのは当然であろう。笛吹きを雇った者が曲目を決めるのは当たり前である」(小林 2007、191)との考え方である。あわせて制海権の確保に必要な敵艦隊の撃破を目指す「見敵必戦(Seek out the enemy fleet and destroy it!)」の考え方が英艦隊の行動指針となった。
また、地中海の戦略的重要性も認識された。英蘭戦争の当初、イングランドはイギリス海峡に戦力を集中させるために地中海を放棄してしまい、その隙をついたオランダ艦隊によりイングランドの貿易船はレヴァント貿易から閉め出されてしまった。このため、戦後、ブレイクらが地中海に入って権益の回復を図ったのだが、後にフランスとの長期の抗争が始まると地中海は軍事的にも重要になり、イギリスは長年にわたり海軍力を展開することになる。
戦術分野では、はじめて「戦術準則(Fighting instruction)」を1653年に制定した。それまでイングランドは単縦列の戦隊で戦うようになっていたが、戦闘そのものは艦ごとであり、戦隊間の連携も緊密ではなかったので、敵将トロンプが1939年頃から採用した戦隊を単位とする戦術を融合させた艦隊戦術を開発した。準則に定めた整然とした縦列の戦闘陣形を作り、先頭艦に従って艦隊として砲撃を加える戦術は、オランダ艦隊も採用し、以来敵味方の艦隊が単縦列で戦う方式が基本となった。両軍の海将たちはそれぞれの経験から戦術を編み出し、多くの戦術書が著されたのもこの時期である。
▼戦争でなく経済で衰退したオランダ
ヨーロッパ随一の繁栄を誇ったオランダは次第に衰退する。その直接的な原因は戦争ではなかった。三次にわたる英蘭戦争で国力を消耗したのは確かだが、いずれも中途半端な終わり方であり、衰退を決定づけたのは、次にあげるような経済的な原因によるところが大きかった。
まず、ヨーロッパ諸国の発展につれ、オランダの中継貿易を経ることなく原産地と消費地間の直接取引、直接貿易が増加し、中継市場としてのアムステルダムの地位が低下したことがあげられる。
第二は、中継貿易の衰退にともない、輸入した原料を加工するというオランダの産業が打撃を受けたことだ。この頃には多くのヨーロッパ諸国が重商主義的な保護政策をとっていたが、地方分権や商業都市中心の考え方から国としての保護政策のないオランダの工業は、他国との競争に耐えられなかった。さらにオランダは、北海とイギリス海峡における漁業権を失うなど、その経済基盤が大きく損なわれたこともあり、急速に経済的地位を下降させた。
第三に、オランダの資本家たちは自国の商工業が衰退してくると、より有利な条件を求めて外国に投資したが、これは結果的に外国の競争相手を利することになり、彼らの利益至上主義が自国の経済を衰退させたという皮肉な展開となった。
ちなみに、マハンのシー・パワー論では海戦が重視される一方で、経済的側面などの考察が抜け落ちているのだが、この点についてはいずれ取り上げたい。
▼オランダその後
ここで歴史の舞台が大きく回り、第二次百年戦争と呼ばれる英仏抗争の時代に入る。強大となったフランスは、この後もオランダをしばしば脅かした。それでもオランダはイギリスの海上覇権がますます強固となるのを見過ごせず、アメリカ独立戦争においては再びイギリスと戦火を交える(1780年)。
フランス革命(1789年)の余波でオランダはフランス軍に占領され、バタヴィア共和国なるフランスの属国となった(1795年)。この間もオランダとイギリスは戦争状態にあったが、両国の海軍力は英蘭戦争当時と比較にならないくらい開いていたため、オランダ商船は自由に航海できなくなった。さらにイギリスはケープ植民地(現南アフリカ)、東西インド諸島、セイロン島などオランダの経済基盤を奪った。フランスが ナポレオンの時代になるとバタヴィア共和国はホラント王国となり(1806年)、1810年にはフランス帝国に合併され国家としてのオランダは消滅してしまう。
オランダの海上帝国はもうなく、世界で最も進んだその経済も新興の英仏両国のオランダ潰しのために二流の地位に転落した。政治、軍事においても経済においても、オランダの世界的役割は終わり、かわってその運命は大国の手によって翻弄される時代となる。
その後300年間、ヨーロッパ情勢の中で紆余曲折はあったが、オランダはおおむね英国との友好協力関係を国家の安全保障の基本として、英国の支配する七つの海にまたがる世界海上帝国の中に共生して、平和と繁栄を享受して今日に至っている。
【主要参考資料】 桜田美津夫著『物語 オランダの歴史』(中公新書、2017年)、岡崎久彦著『繁栄と衰退と』(文春文庫、1999年)、ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 上』山本文史訳(中央公論新社、2020年)、宮崎正勝著『海からの世界史』(角川選書、2005年)、青木栄一著『シーパワーの世界史①』(出版共同社、1982年)、小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』(原書房、2007年)
※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。