シーパワー500年史 8

 前回は、アルマダの海戦の後の英国海軍の様子とオランダ海上帝国がどのように繁栄していったか、そして、そのオランダがダウンズ海戦でスペインのシー・パワーにとどめを刺すところまででした。今回は、衰退に向かうオランダの話です。戦後の日本が、経済最優先、軽武装路線で発展したものの、湾岸戦争では何もできず「小切手外交」などと国際社会から批判されたことなども思い浮かびます。

▼忍び寄る衰退の影

 17世紀前半、まばゆいばかりに繁栄したオランダでは、芸術、文化、教育も大いに発展したが、やがて何度か滅亡の淵に立つようになる。なぜか。岡崎はその理由を、『繁栄と衰退と』において「忍び寄る衰退の影」として1章を割いて論じているが、大きく四つある。(岡崎 1999、165-201)

 第一は、行き過ぎた地方分権主義がオランダの外交、防衛政策の一貫性を妨げたことだ。オランダの州権主義は、七つの州と貴族代表の全会一致が必要というものだったが、軍事、外交、課税について一致できないときは総督が暫定的に決定できることになっていた。アムステルダム商人が牛耳るホラント州は政府予算の過半を負担していることから発言力も強く、州権主義を守るため総督の権限をできるだけ制限しようとしてオランイェ家と対立した。

 1609年の休戦も、総督は継戦を主張したが、スペインの工作もあって和平を欲するホラント州が押し切ったものである。彼らの理屈は、軍隊を強くすれば総督家が強くなり絶対君主制となるおそれがある、そうなると王様同士の戦争にまき込まれてしまうという短絡的なものだったので、戦争の継続により総督の武勇に対する国民の信望がさらに高まるのを妬んだのだ。

 第二に、ホラント州の専横で統一国家の体を失ったことだ。「軍隊を強くすると戦争になる」と考えるホラント州のレヘントたちの合言葉は「平和と経済」だった。彼らはまず、総督と軍司令官の職の廃止を唱え、他州の反対やユトレヒト連合の規約違反だと議会が決議したにもかかわらず軍備の一方的削減も主導した。

 この直後、総督のウィレム2世が急死(1650年)して総督家の権威は消滅し、ホラント州のレヘント政治が復活した。1651年の州代表会議では、再び総督を持たないことを確認したほか、共和国軍も七つの州軍に分けることを決定したので、ついにオランダの国防を統一して担う仕組みのない無総督時代となった。

▼背信、詐欺師の国民

 第三には、オランダという国や国民の信用が大きく失墜したことである。イギリス人は、アントワープ攻略戦(1638年)でホラント州がアムステルダムの繁栄を守るため、武器弾薬をスペイン軍に供給してアントワープを切り捨てたことに驚き呆れた。

 エリザベスが1585年にオランダ出兵を決意した時には、英国はオランダの三都市を担保に借款を供与した。オランダは、エリザベスのあとを継いだジェームズ1世がカネに困っていることを知ると、彼がこの手の取引に疎いのに乗じて、1/3ほどの額を即金で払って三都市を取り戻してしまった。オランダの政治家たちはいい取引をしたと自慢したが、騙されたと気づいたジェームズはその後、決してオランダを許さなかったという。

 オランダ出兵といえば、援軍を率いたエリザベスの寵臣レスターが南部の兵糧攻めを主張したところ、穀物輸出業者とレヘントが反対して実現させなかったため、憤慨した彼は短期間で帰国してしまった。同じようなことはいくつもあり、イギリス人はオランダ人を背信、詐欺師の国民と考えるようになった。

 フランスもオランダの背信に遭っている。1635年に結ばれた仏蘭同盟は、スペイン領ネーデルラントからスペイン人を駆逐し、これを仏蘭間で分割しようとするものだった。フランスはオランダを援助するかわりに、両国はスペインと単独で休戦または和平をしないことを約束した。しかし、ホラント州などは商業上の利益を守るために早期の和平を欲し、他州を説得、買収までして遂に単独和平を結んでしまった。

 ルイ13世はオランダの忘恩を怒り、自由貿易の特権を与えた関税同盟を廃棄し、地中海のフランス私掠船にオランダ船襲撃を許した。そしてルイ14世もこの背信を忘れず、フランスの報復はやがてオランダ滅亡計画の形で表れてくることになる。

▼すべては金の世の中

 第四として、オランダ社会の退廃があった。繁栄を謳歌するなか、質実剛健で合理的なオランダ人社会に退廃の影が忍び寄ってきた。ユトレヒトの盟約で謳った国民皆兵はいまや昔話となり、勇名をはせた軍隊も大部分は外国人の傭兵になった。

 それでも海上での戦いはまだ人気があったが、それは大きな利益をあげられたからである。強力なスペイン艦隊を悪戦苦闘して撃滅してもほとんど無視された指揮官が、スペインの財宝船を捕獲するとオランダ中がお祭り騒ぎとなり、海軍中将に昇進させられた。すべては金の世の中になったのだ。

 巨利を得るのに慣れた東インド会社は、地道な海運業をいやがり、もっぱら貿易の独占に精力を費やした。オランダ艦隊は香料の原産地を定期的に訪れては、自国が管理する場所以外の香料の木を切り倒し、他国から恨まれた。胡椒の独占に成功した時には、価格を釣り上げて2、3年で3,000%の利益を上げたという。

 オランダは、口では自由貿易を標榜しながら、実際には世界各地でスペイン人を追い出した後、貿易の独占に腐心したのだ。日本との貿易でも、日本側では鎖国としているが、客観的にみればオランダが独占していたのであり、ポルトガルなどのカトリック国を誹謗中傷して追い出したのが真相だ。

▼宗教的対立から経済的対立へ

 世界に友人はなく、社会は退廃し、国の舵取りをする者がいなくなった、まさにこのタイミングで英蘭関係が危機を迎えることになる。

 オランダの繁栄が彼ら自身の能力と勤勉のおかげであることは確かだが、ヨーロッパ諸国は三十年戦争(1618~1648)の戦禍で経済発展など顧みる余裕はなかったし、英国でも、王党派と議会との抗争がピューリタン革命に発展していた。この間、オランダだけが南部戦線以外で平和と安定を維持し、ヨーロッパ中から押し寄せる避難民がもたらす資本や技術を吸収して繁栄していたのだ。

 三十年戦争が1648年のウェストファリア条約で終わると、信仰の自由が認められ、血みどろの対立の原因だった宗教問題が国家間の問題でなくなり、カトリック教会とスペインの脅威がようやく去った。ヨーロッパにしてみれば、1989年の冷戦の終結にも匹敵する歴史的な転換点だったといえる。宗教的対立からふっと覚めた瞬間、国家間の経済的な利害対立が急に浮上してくる。ここから先、オランダの命運に暗雲が漂うようになる。

▼英国人の疑問 

 ヨーロッパ中、戦争にかかりきりの時期に、オランダだけがうまく立ち回って不当な利益を得ていたと英仏は不満をもった。

 フランスは、スペインの脅威に対してオランダとの同盟を確保する代償として、自らの産業を犠牲にしてまで自国市場をオランダ商人に開放したが、あっさり裏切られた。戦争が終わると、その反動のようにフランスはオランダを標的とする強力な保護主義をとるようになる。

 イギリスでは、エリザベスは利益を上げられる制海権獲得を優先すべきとの周囲の意見をしりぞけ、経済的には何の得にもならないオランダ独立の地上戦闘の支援にその精力を集中した。オランダはたしかに世界一の海上帝国を建設したが、それは多分に金がかかるばかりで利益に結びつかない地上戦は同盟国に頼り、もっぱら海上勢力の充実につとめたからである。そして、スペインの財宝船襲撃で多大の利益を得、また世界中の市場で次々と英国との競争に打ち勝っていったのだ。

 このようなオランダを見て英国人たちが疑問に思ったのは、「われわれのように強く勇敢な国民が貧乏していて、自分達のための戦いも金を払って他国民に戦ってもらっているような卑怯な商人どもが世界の富を集めているのは、果たして正しいことなのであろうか?」(岡崎 1999、219)ということだ。

 昔は英国も完成品を輸出していたのだが、16世紀末のオランダの技術、産業、貿易の急成長に負けてしまったのである。なかでも繊維産業については、英蘭戦争に至るまで繊維品貿易の保護のため数々の制限措置が試みられたがことごとく失敗し、双方の非難もエスカレートして経済戦争の様相を呈し始めていた。

 しかし何といっても英国が最大の問題だと考えたのはオランダの漁業であった。その漁場は夏にスコットランド沖に始まり、だんだん南下して冬にテームズ河口に至るまですべて英国沿岸であったのだ。 1609年、ジェームズ1世は英国沿岸で漁業を行なうには英国政府の許可証が必要であると布告した。この問題は直ちに英蘭間の外交の最優先議題となり、英蘭戦争に至るまで40年間の交渉の主要議題となった。

 ちなみに、イギリス海域におけるEU漁業者の操業権の問題は、2020年のイギリスのEU離脱交渉でも最後まで論点となったものである。漁業がイギリスやEUの経済全体に占める割合は1%にも満たないが、既得権の維持を求めるEUに対してイギリスがこだわっていたのは海の主権回復であり、実に400年以上前からの問題だったのだ。

▼国際法理論と力の裏付け

 ジェームズの布告の直前、国際法の祖とされるオランダのグロチウスは海洋の自由を論じた「海洋自由論(Mare Liberum)」を発表した。イギリスも、スペインとポルトガルによる世界の大洋分割に反対することではオランダと同じ立場であった。エリザベス女王は、ドレークが西半球を荒らしまわったことに対するスペイン大使の抗議に対して「海洋や大気は誰にも属するものではない」とはねつけ、一貫して「国際法」の名の下に海洋の自由を主張している。

 しかし、イギリス沿岸の外国漁船の操業を取り締まろうとするジェームズ1世としては新たな国際法理論が必要となった。1617年にセルデンが発表した「閉鎖海論(Mare Clausum)」がそれで、国家は領土を支配するように沿岸の一定海域を領有できるとして、「領海」のもとになる考え方を主張した。

 イギリスは、初めのうちこそ無許可で操業するオランダ船若干を捕らえて身代金を取ったが、オランダが軍艦を出して漁船を保護するようになってからは止めてしまった。オランダの海軍力にかなわなかったからである。漁業問題に進展が見られるのは英蘭間で海軍バランスが変わってきてからである。結局は力だった。

 イギリスが再び海洋の自由を主張するようになるのは、英国海軍が世界の海を支配するようになってからである。18世紀から19世紀初頭にかけて、海上輸送による自由貿易の必要性と各国海軍の行動の自由の確保の要求が高まるにつれ、徐々に沿岸国に当時の大砲の着弾距離だった3マイルまでの「狭い領海」を認める一方で、その外側の「広い公海」では自由競争を容認するというところに落ち着き、「領海・公海の二元的海洋秩序」が慣習国際法となった。現在では、この考え方に基づいて海洋法が法典化されている。

▼英国海軍の増強 建艦税 共和制

 エリザベス女王の時代でさえも英国海軍は閑却されていたが、女王やドレーク、ホーキンスなどが次々と世を去り、ジェームズ1世のもとで英国海軍はほとんど放置され、荒廃し、汚職にまみれていた。

 ジェームズの後を継いで正反対の海軍政策をとることになるチャールズ1世が即位(1625年)した時、ヨーロッパは三十年戦争の真っ只中であった。本来イングランドは蚊帳の外のはずであったが、チャールズは姻戚関係などから無理を重ねて5回も遠征艦隊を派遣し、どれも散々の結果となりヨーロッパ中の笑いものになった。

 ちなみに、この時のフランス遠征作戦(ユグノー(新教徒)支援のためのラ・ロッシェル遠征)をきっかけにフランス枢機卿リシュリューは自国艦隊の増強政策をとり、のちにコルベールに継承されて、やがてフランス艦隊がイングランド艦隊の最終にして最強の宿敵として登場することになる。

 目の前のイギリス海峡ではオランダが宗主国のスペイン船を追い回し、スウェーデンやフランスがスペインと北海とイギリス海峡の制海権を争っていた。チャールズは不甲斐ない海軍の再建を図りたいが、シティからの借金は天文学的数字に達し、議会は戦費支出を拒否したため、議会を解散して建艦税(Ship money)による海軍力増強に乗り出した(1634年)。

 建艦税とは、有事に際して軍艦を建造するために、国王が議会の承認なしに沿岸都市に課税できるという中世以来の特権のことであり、エリザベスはアルマダの危機に際しては内陸部にも課税した。チャールズが歴代君主と違ったのは、必ずしも「有事」ではないのにこの制度を乱用して毎年恒常的に税金を徴収しようとしたことである。結果的に国中の反対を巻き起こしピューリタン革命(1642-49年)につながりチャールズは死刑(1649年)となり、クロムウェル率いる共和制に移行してしまう。

 ともかくもこれにより軍艦19隻、武装商船26隻という海軍力(建艦税艦隊(Ship money fleet))が出来上がると、1636年、チャールズは1609年に出した布告の再確認を宣言し、海上の取締りを強化した。オランダも情勢の変化に危機を感じて護衛の軍艦を派遣し、英蘭関係は一触即発の状況となった。

【主要参考資料】 岡崎久彦著『繁栄と衰退と』(文春文庫、1999年)、ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 上』山本文史訳(中央公論新社、2020年)、青木栄一著『シーパワーの世界史①』(出版共同社、1982年)、小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』(原書房、2007年)、小松一郎著『実践国際法(第2版)』(信山社、2011年)

※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。