シーパワー500年史 7

 前回のオランダとイギリスの海外発展の黎明期の話に引き続き、アルマダの海戦の後の英国海軍、オランダ海上帝国の繁栄、そしてオランダがスペインにとどめを刺す話です。

▼イギリスの伝統的戦略の形成

 17年にわたった英西戦争を通じて、エリザベスはイギリスの伝統的戦略ともいうべきものを作り上げた。

 第一は、大陸政策と海軍政策の難しいバランスをとって、大陸の脅威から島国を守ったことである。女王がオランダの支援にこだわったのは、大陸の一国が覇権を握ったりイギリス海峡の沿岸を支配したりしないようにするためであり、これが大陸政策の基本だった。海岸地帯がスペイン軍に握られることは許容できないことであり、オランダはイングランドの毛織物輸出の中心地でもあったのだ。

 海軍政策についてホーキンスら「ブルー・ウォーター派」は、オランダの地上戦にこだわった結果、その気になればスペインを粉砕できたはずの海軍への予算が削減されたことや、エリザベスがスペインの銀の流れを遮断する作戦に十分な支援をしなかったことなどを強く批判している。

 しかし、エリザベスはスペインを「粉砕」して、伝統的なライバルであるフランスを利するようなことは考えていなかったし、艦隊を遠征させると本国の守りが手薄になってしまうことを懸念していた。当時の財政難とイングランド海軍の勢力を考えれば、オランダ支援と海軍への支援を両立させることは困難だったのだ。

 第二に、エリザベスは精一杯の海軍政策として、スペインに正面から挑戦するのではなくゲリラ的に攻撃することで、イギリス海峡において自国船舶を海賊や敵の私掠船から保護することにつとめた。また、商船隊や漁船団を拡大するために、週に3日の「魚を食べる日」を定めたほか、造船用の木材資源を保護し帆布や索用の亜麻や麻の栽培を奨励した。

 第三は、バルト貿易を重視し戦略物資の流れを管制したことだ。造船資材のマスト材、帆布、索類はバルト地方でしか産出しない帆船時代の戦略物資だったので、エリザベスも航海条例を改正してスペインを封じ込めて自国のバルト貿易を支援した。また、中立国による戦略物資の交戦国への輸出を阻止するため、戦時禁制品リストを公布(1589年)してイギリス海峡において臨検を行なったのもこの頃だ。

 第四に、エリザベスはスペインのイングランド侵攻に対して、地中海のトルコ艦隊を陽動に使おうとした。これはイギリスによる地中海の戦略的活用の始まりといえる。

 最後に、女王は死去する直前、財政難のため王室艦を通商活動に使ってきたが、これは断じて本来の任務ではなく、王室艦は商船を護衛すべきものだと述べており、海上交通路(SLOC、Sea lines of communication)防衛が必要と考えていたことがわかる。

▼エリザベスの死と英海軍の衰退

 エリザベスが死去(1603年)すると、父子二代にわたるスチュアート朝となる。二人は正反対の海軍政策をとった。

 初代ジェームズ1世は驚くほどの平和主義者で、すすんで英西戦争を終結させ(1604年)、私掠免許状を停止しスペイン船襲撃を厳しく取り締まった。多くの軍艦が除籍され、残された艦は放置され、乗組員は訓練されず、給与の支払いも滞ったため士気は地に落ちてしまった。

 このように英国海軍が港で朽ち果て、私掠船が姿を消すと、イギリス近海ではトルコ、アルジェリア、モロッコなどのイスラム教徒やフランスの海賊や私掠船が跳梁し、イギリス海峡や近傍の港湾でさえ安全ではなくなった。

 英国海軍と商船隊の低迷によって大きな利益を得たのはオランダであり、1620年代には実質的に大西洋の制海権を握るようになる。また、スペインが長年の戦争で衰えてくると、イングランドとオランダを結び付けていた戦略上、宗教上の結びつきは弱まり、かわりに敵対心が強まってゆく。

▼オランダの転機 海運貿易発展の8年間

 話をオランダに戻す。エリザベスがオランダに派遣した援軍は大歓迎を受けたが、スペイン軍に敗戦を重ね期待外れに終わった。オランダ北部諸州は、ようやく外国頼みをあきらめ自ら主権を担うことを決意し(1588年)、フランスとイングランドも北部7州を事実上の国家として条約で認めた(1596年)ことでオランダ連邦共和国が誕生する。

 オランダに幸運だったのは、スペインがフランス王が暗殺されたのに乗じて同国への武力介入を決意して、軍をオランダからフランスへ向けたことだ。おかげでオランダ独立軍は1598年までにほぼ現在のオランダに相当する地域を支配下に置くことができた。ちなみに、ユトレヒト連合では成人男子の兵役義務を定めていたが、この頃には装備、編制、用兵すべての面で全ヨーロッパの手本となるほどのオランダ陸軍を作り上げて「軍事革命」の先駆者となっていた。

 オランダはハンザ同盟を打ち破って以来、北海、バルト海方面の貿易の主導権を握っていたが、そこでの商品は主に穀物や木材であり、香料や銀などの金目になるものは扱っていなかった。また、独立戦争を始めてからは、スペインの経済封鎖を受けたので経済は貧窮していた。エリザベスに派兵を頼んだ時も現金で払えず、都市を担保に差し出したことなどは、後年の繁栄ぶりからは考えられないことである。

 そんなオランダに転機が訪れた。アルマダが敗北したスペインは、艦隊再建用の造船資材調達のためオランダ禁輸を解除したのだ(1590年)。今や海におけるスペインの主敵はイギリスとなり、陸においてはフランスへ武力介入を決意したことから、オランダのような反乱州のことなどは大帝国にとって小事に過ぎなくなったのだ。

 オランダは、圧倒的に豊かなスペインとの貿易のおかげで海運、貿易が急速に発展し始めた。この時期、ヨーロッパ外貿易はスペインが独占していたが、そのスペインとの貿易を英国は禁じられていたので、オランダは中継貿易でありながらも極めて有利な条件で大きな商売をしてその後の飛躍につながった。

 また、それまでイギリスが独占的だったロシア貿易でも、スペインからの砂糖、塩、香料、銀などを見返りに輸出できるオランダは有利な地位を獲得した。さらに、1591年にイタリアに食糧不足が起こった時は、400隻ものオランダ船がバルト海沿岸の穀物をヴェネチアに供給し、それまでハンザ同盟が優位を持っていた地中海貿易をも手に入れた。

▼敵国となったオランダ スペインの命取り 

 しかし、このようなオランダの恵まれた状況は8年間で終わる。アンリ4世が「ナントの勅令」(1598年)でカトリックを国教とし、プロテスタントにも信仰の自由を認めたためスペインは軍事介入の口実を失い、フランスと平和条約を結んだのだ。こうなると、イギリス、スペインの海上覇権争いの漁夫の利を占めて経済は躍進し、そのうえ海上でしばしばイギリスと組んでスペイン船に敵対していたオランダはスペインにとって立派な敵国となった。

 そこでスペインは、オランダ繁栄の源であるスペインとの中継貿易を封鎖して息の根を止めにかかったのだが、これがスペインの命取りとなった。今や独立国となって繁栄し、海軍力も充実しているオランダである。海運、貿易なしにオランダは生存できず、最も重要な「母なる貿易」であるバルト海貿易で穀物、木材を輸入し続けるためにも、見返りとして香料、塩、砂糖は不可欠だった。そうした物資をスペイン、ポルトガルから入手できないとなれば、オランダは直接入手するために自らヨーロッパ外貿易を行なわなければならなくなったのだ。

▼驚嘆すべき海外進出 ジブラルタル海戦

 このようなわけで1598年以降、オランダはヨーロッパ外の世界へ大躍進する。オランダ船が塩を求めてはじめてカリブ海に向かったのは1599年だったが、それから6年間で実に768隻が交易に向かっている。東インドへは、1598年からの4年間だけで13船団、60余隻が香料と胡椒を求めて赴いた。東インド会社を設立する前の段階で、すでにこれだけの船が行っていたのだ。

 このような動きに対してスペイン、ポルトガルは、オランダ船の排除を狙ったが、オランダ船団は東アジア各地で優勢に戦い、スペイン、ポルトガルの艦隊は撃破され多くの財宝船が奪われてしまった。北海で鍛えられたオランダの船乗りたちは勇敢であり、他国の船乗りに恐れられた「吠える40度」といわれる南半球の偏西風海域を利用したジャワ島への追風高速航路を発見(1610年)したほどだ。

 オランダは、現地の政治、宗教については不干渉を約束したため、スペインの過酷なカトリック支配に恨みを持っていた現地の人々に歓迎され、ジャワ、スマトラ、モルッカ諸島、マレー半島だけでなく、セイロン、マカオでも友好通商関係を結んでいった。このうち現在のインドネシアに相当する地域は、オランダが第二次大戦まで領有を続ける重要な経済基盤となる。

 オランダは時としてアメリカ大陸沿岸にまで進出しスペインの利権を脅かすようになったほか、ジブラルタル沖でオランダ艦隊がスペインに大勝して地中海の制海権を握った(1607年、ジブラルタル海戦)。この海戦を含め、世界の海におけるオランダ海軍の跳梁ぶりは、スペインに和平を求める大きな動機となり、1609年には12年間の休戦が成立した。

▼オランダ海上帝国

 1602年、オランダは東インド会社を設立して植民地貿易を本格化させる。その権限は、喜望峰以東、マゼラン海峡以西における貿易の独占、要塞の建設、総督の任命、兵士の雇用、条約の締結、スペイン、ポルトガル船の捕獲など幅広く、スペインとポルトガルの植民地や貿易を次々に奪っていった。同じ性格を持つ西インド会社も1621年に設立された。

 オランダは、東アジアだけでなく世界各地を広く探検し、植民地を建設した。ニューアムステルダム(のちのニューヨーク)を含む北米大陸の北東部を領有する一方で北部探検も行なった。ハドソン湾に名を残す英国人探検家ハドソンは、オランダ東インド会社の社員であった。ニューホラント(のちのオーストラリア)、タスマニア、ニューゼーラント(のちのニュージーランド)もオランダがイギリスよりも1世紀前に足跡を残している。こうしてオランダは、のちの大英帝国に劣らぬ「オランダ海上帝国」を作り上げ、西半球の富をアムステルダムに集めたのだった。

▼オランダ経済の躍進

 スペインとの八十年戦争の戦費をまかないながら、なぜオランダ経済は大躍進して海上帝国を築き上げられたのだろうか。

 第一は、植民地貿易に加えて、ヨーロッパの倉庫、貿易の中継地としての役割を果たしたことが大きい。東・中欧、ロシア全域に及ぶ大通商貿易地域であるバルト海と大西洋に面し、中欧貿易の幹線であるライン川の河口に位置するオランダは、ヨーロッパの中継貿易の中心地にもってこいだった。

 第二は、外国人の移住を進め産業や技術の流入を図ったことである。オランダの外国人移住奨励策のおかげで、南部からの避難民に加えてヨーロッパ中の迫害から逃れた新教徒やユダヤ人が流入し、1609年の人口は350万人に達して英国とならんだ。戦争前のオランダは、漁業と海運中心で工業は大したことはなかったが、戦争が始まるとヨーロッパ中の産業と技術が流入して経済が急成長したのだ。

 造船、海運業の発展はいうまでもなく、年間2,000隻の建造数を誇る造船所とそれによって作られた商船隊は35,000隻(1634年)に及び、オランダ一国の船舶数が他のヨーロッパ諸国全部に匹敵するほどで大海運帝国でもあった。さらに、農産品も安価な穀物を輸入できたため、より付加価値の高い酪農が発達し、チーズやバターの大輸出国になった。このような資本集中的な農業のおかげで、農民人口を海運、漁業、製造業に振り向けられるようになり、さらなる成長が可能になったのだ。

▼オランダ 世界の商業の中心となる

 これらの経済発展に加えてオランダを世界の商業の中心にしたのは、世界最大で最も進んだ資本と商品の取引の中心となったことが大きい。

 1609年には中央銀行としてアムステルダム銀行が設立され、信用制度を確立したが、イングランド銀行に先立つこと75年である。

 1611年には、有力商人たちの集まる居酒屋、コーヒー・ハウスから発展した商品取引、両替、保険を扱う総合的な取引所が完成した。商品の相場表は1580年から毎週発行されており、先物取引も盛んに行なわれたため、アムステルダムは単なる商品の取引所ではなく世界貿易の価格と流れを調整する機能を果たした。

 こうしてオランダが商業、金融の中心として独占的な地位を確保すると、物資の買占め、価格の操作などで独占利益を上げることも可能になった。各国がいかに真似しようとしても、その独占は簡単に崩れなかった。

 その背景には、オランダの政治経済の実権が各都市のレヘント層に握られていたことがある。こうした有力者達は皆、船の共同所有者になっており、その数は1隻につき他の国では多くても2、3人だったが、オランダでは数十人になることも珍しくなかった。これによりリスクが分散されることはもちろん、多様な業種の情報を活かし、それらの利益を横断的に代表する政策がとられやすくなり、国中が一体となって国の経済利益を追求する体制となっていたのである。

 当時はまだ重商主義という考え方はなく、国の優先事項といえば国防と宗教であり経済などは二の次だったが、17世紀初頭のオランダは早くも近代的経済制度の原型を備えた他国とは異質の商業国家、商人国家となっていた。

▼忘れられたダウンズの海戦 スペインの衰退

 12年間の休戦期間が終わって1621年には戦闘が再開されたが、陸上の戦線が膠着した一方、海においてはオランダとスペインは世界中で戦った。

 1639年、スペインはかつてのアルマダに匹敵する100隻もの大艦隊を仕立て、13,000名ものスペイン兵を運ぶとともにオランダ艦隊を撃破して北海の制海権を握ろうとした。

 この艦隊を迎え撃ったのは名提督トロンプが指揮するオランダ艦隊であり、当初わずか18隻の軍艦であったが、優れた操艦術を発揮してスペイン艦隊を英国海岸に向けて追い詰めた。オランダはあらゆる船を戦闘用に艤装して、2、3週間のうちに艦隊は96隻に増強され、トロンプの総攻撃でスペイン艦隊の2/3を撃破するという大勝利を収めた(ダウンズ海戦)。

 この時のスペイン艦隊は、ヨーロッパ海域における海上覇権を維持するためにスペインがふりしぼった最後の力であった。この勝利により、ジブラルタル海戦に引き続いてオランダの海上覇権が証明され、スペインはヨーロッパ海域でのシー・パワー競争から脱落した。

 この意味で、半世紀前のアルマダの海戦の敗北よりも大きな歴史的意義があったダウンズ海戦であるが、その後、大英帝国が栄えてオランダが衰退したために、後世にはアルマダ撃滅の歴史だけ残って、このトロンプの功績は忘れ去られてしまった観がある。

 植民地帝国となったスペインであったが、海外で収奪した金銀を財宝船で運ぶだけに終始し、植民地貿易や国内産業の育成はなされず、貴族中心の封建的な政治体制や強いカトリック信仰は近代的な資本主義社会の形成を妨げ、スペイン経済は停滞した。

 スペイン王位継承戦争(1701~14年)では、国土は戦場となりヨーロッパ各地の領土を失い、七年戦争(1756~63年)ではアメリカでフロリダを割譲した。フランス革命戦争(1792~1802年)とナポレオン戦争(1803~15年)でも無力をさらけ出し、セント・ヴィンセント岬海戦(1797年)とトラファルガー海戦(1805年)においてスペイン艦隊は再び大損害を被り、スペインのシー・パワーは衰退した。

【主要参考資料】 桜田美津夫著『物語 オランダの歴史』(中公新書、2017年)、岡崎久彦著『繁栄と衰退と』(文春文庫、1999年)、ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 上』山本文史訳(中央公論新社、2020年)、青木栄一著『シーパワーの世界史①』(出版共同社、1982年)、小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』(原書房、2007年)

※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。