シーパワー500年史 6

 前回は、大航海時代のアジアの海の状況はどうだったか、ヨーロッパ勢力はどのように日本に入ってきたか、そして日本はなぜ植民地にならずにすんだのかなどについて述べました。今回は、話をヨーロッパに戻して、日本に入ってくる前のオランダとイギリスの海外発展の黎明期の話です。

▼ニシン漁で発展するオランダ

 14世紀中ごろ、オランダでニシンを長期保存する方法が発明されるとヨーロッパ中に輸出されるようになり、北海での漁業はオランダの基幹産業となった。やがて漁業の発展は造船業の成長を促し、オランダの造船所は、風力製材機、大クレーンなどの機械化でずば抜けた建造能力を誇るようになってゆく。ずいぶん先の話だが、西欧使節団(1697年)でオランダを訪れたピョートル大帝が、偽名を使って一職工として技術を習得したのもオランダの造船所である。

 漁民たちは勇敢で優れた船乗りでもあり、漁期以外は海運や沿岸貿易にも携わっていた。やがて彼らは北海からズント海峡を抜けてバルト海の奥深くへ進出し、東方と直接交易するようになりハンザ同盟と対立する。オランダの諸都市は「艦隊」を組んで戦いを挑み、ハンザ同盟を打ち破ることに成功し、オランダ経済は15世紀後半から急成長を遂げた。この頃からオランダでは官民一体となって自国の貿易や産業を支援するようになったが、英仏などが重商主義をとる200年も前のことであり、オランダの繁栄につれ他国の妬みを生む原因ともなった。

▼海乞食党 オランダ海軍の源流

 オランダは、政略結婚の結果としてスペイン・ハプスブルグ家の所領になった(1477年)。スペインは、新大陸から収奪した莫大な富と無敵の軍事力により専制と恐怖でヨーロッパを支配し、新教徒(利潤追求を求めるカルヴァン派)が多かったオランダでもカトリックを強制し、凄惨な異端迫害を大規模に行った。

 これに対して独立軍を率いて立ち上がるのが民族の英雄オランイェ公ウィレムである(1568年)。八十年戦争といわれる長いオランダ独立戦争の始まりだ。陸上でオランダ独立軍が戦った一方、海ではウィレムから私掠免許状を与えられた各地の商船や漁船の船主たちが「海乞食党(ワーテルヘーゼン)」という私掠船団を作って沿岸海域でのゲリラ戦を展開した。

 「私掠(privateering)」というのは、自国の君主から特許を得て交戦相手国の船を襲う行為で、当時の慣習国際法も認める「私的な戦争行為」だったため、捕まっても戦時捕虜として扱われる。これに対して同じく私的な行為である「海賊(piracy)」は、平時から相手を選ばず掠奪するので、海洋の自由と安全に対する「世界共通の敵」とみなされ、捕まったら処刑された。

 陸上での戦いが惨憺たる悪戦だったのに対して、海乞食党は自分の庭のようなオランダ近海で有利な戦いを進めた。なかでもゾイデル海海戦(1573年)では、スペイン艦隊30隻を打ち破るという大きな戦果をあげるほどで、海乞食党はオランダ海軍の源流となっていった。

▼ユトレヒト同盟結成とオランダ存亡の危機

 オランダでは、宗教などの違いで北部と南部の足並みがそろわなかったが、やがて南部はスペインの影響下に入ってしまい、北部は「ユトレヒト連合」を結成した(1579年)。この連合は軍事同盟ではあるものの、各州の自治権を尊重するあまり、軍事、外交、課税については全会一致を必要とする小回りのきかないもので、ウィレムの権威で何とかまとまっていたが、議会は富裕な商人貴族(レヘント)に支配されオランダの大きな弱点となってゆく。

 このあとオランダは存亡の危機を迎える。北部統合の中心であったウィレムはスペインによって暗殺され(1584年)、スペインの大軍は南部諸州を足場にして諸都市を次々に攻略、略奪して北上、残るはアントワープのみとなったのだ。

 切羽詰まったオランダは、生き残りのため自国の主権を受け渡すことと引き換えに英仏両国の支援を求めた。自国の主権を条件にするとは驚きだが、レヘントたちからは強く支持された。つまり、英仏に援軍を頼めば、当時の常識として当然カネが要る、しかし、カネの代わりに主権を差し出しタダで援助を得られれば、こんなうまい話はないという商人国家ならではの計算である。

 一方、英仏にとってはスペイン大帝国を敵にまわすことはなかなか踏み切れるものではなく、カトリック国のフランスは拒否、結局イギリスがエリザベス女王の決断により支援に踏み切った。貧しい島国であったイギリスがこのような決断に至った背景とは何だったのか。

▼イギリス海軍の源流 

 中世のイングランドでは、国王は戦争のたびに商船をかき集めて「軍艦」に仕立てて、王室船とともに艦隊を編成して戦った。12世紀後半には、イギリス海峡に面した五つの港の領主たちが戦時には船舶を国王に提供する代わりに沿岸海域の司法取締りの権限を与えられるという「シンク・ポーツ(Cinque Ports、五つの港)」という組織ができたのだが、彼ら自身がこの「権限」を乱用して掠奪、密輸など好き勝手に振る舞うという問題もあった。この組織の加盟港は最盛期には42にも達した。

 チューダー朝になり近世イングランドが始まる(1486年)。初代ヘンリー7世は、イングランド商人にそれまでの沿岸貿易から海外貿易に目を向けさせ、海上通商路の開拓と海外市場の獲得を目指した。

 このため、ポーツマスに英国最初の乾ドックを建設し、造船補助金制度により商船隊を大幅に拡充するとともに、商品積出をイングランド船に限る保護主義的な「航海条例」を出した。彼の王室船が10隻を超えることはなかったが、そのすべてを海外交易に活用し、商人にも気前よく貸し出した。

▼ヘンリー8世 戦闘艦隊の創設者

 チューダー朝二代目は、横暴で知られる専制君主ヘンリー8世だ。この頃のイングランドの戦略は、大陸の強国であるスペインとフランスのうちどちらか一国が覇権を握ってイギリス海峡の沿岸を支配しないようにするヨーロッパ勢力均衡政策だった。両大国間のバランスに気を配り、イングランドが加担する方が優勢になるようにすれば、まずまずの海軍で自国を守れるという考え方だ。

 ヘンリーは敬虔なカトリック教徒であったが、王妃との離婚問題がもとでローマ教皇から破門されてしまう(1534年)。そのうえ教皇は、「異教徒」ヘンリーを討伐するための「聖戦」をスペイン、フランス両国に対して呼びかけたので、イングランドはそれまでの戦略を根底から覆され、一挙に国家存亡の危機を迎えた。

 ヘンリーは、カトリック両国の侵攻を撃退するために、海上商人たちに私掠免許状を与えてスペイン船を攻撃させるとともに王室海軍を増強することにした。商人たちは拿捕したスペインの財宝船から莫大な利益が上がることがわかると、競って私掠船に出資するようになった。王室船は当時わずか10隻しかなかったので各地に王立造船所を設けて急造するとともに、カトリック修道院の財産を没収して財源に充てた。

 当時の軍艦は、敵艦に接舷して兵士を斬り込ませる「ソルジャー・キャリア」だったが、イングランドの軍艦は新たに開発された大口径砲(攻城砲)を艦載化した「ウェポン・キャリア」に進化していた。ヘンリーが死去(1547年)するまでに57隻からなる強力な「戦闘艦隊」が整備されたが、これを目の当たりにしたスペイン、フランス両国はイングランドへの侵攻を思いとどまらざるを得なかったのである。

 ヘンリーは海軍組織の大改革にも取り組んだ。14世紀初頭、最先任のキャプテンが艦隊の指揮権を持つ「アドミラル(Admiral、提督)」として初めて任命され、その補佐のための組織として「アドミラリティ(Admiralty)」が置かれた。当時のアドミラルは艦隊を指揮するといっても兵士の海上輸送程度だったので、もっぱら陸上にいて海上秩序の維持や捕獲賞金の分配などを取り扱っていた。

 しかし、軍艦がウェポン・キャリアに進化して海戦の様相が変化してくると、アドミラルが海に出て作戦の陣頭指揮にあたる必要が出てきた。また、艦隊の規模が大きくなり、各地に設立された王立造船所などの管理体制の充実も求められるようになった。

 このため、16世紀中ごろ、アドミラルたちを本来あるべき艦隊に戻し、その最先任者を国王直属の「ロード・アドミラル(Lord Admiral、大提督)」として艦隊の指揮と管理、海事審判などを担当させ、その下にのちに「ネイビー・ボード(Navy Board、海軍委員会)」となる艦隊の管理組織を置くことになった。これにより、国王と枢密院の政治的な統制を受けたロード・アドミラルが、作戦関係の軍令と艦隊の維持整備などの軍政を一元的に握る強力な仕組みが誕生したのだ。

 一連の改革を行ったヘンリーはのちに「戦闘艦隊の創設者」と呼ばれた。しかし彼の死後は、せっかくの軍政、軍令の一本化はたちまち形骸化し、ネイビー・ボードの腐敗と財政難から艦隊は衰退してしまった。

▼エリザベス1世 イギリス海外発展の黎明

 ヘンリー8世が死去して11年、エリザベス1世は35隻に減ってしまった王室船を引き継いで即位した。この頃になると海外貿易が盛んとなり、それまでの北海やバルト海沿岸からアフリカやアメリカを含む大西洋全域、地中海へと貿易圏が広がった。女王は貿易相手先ごとの合資会社を設立させ、自らも出資して配当を得たり、船を貸し出したりした。この中にはアフリカとアメリカでの奴隷貿易も含まれた。

 スペインとポルトガルは、トルデシリャス条約に基づいてイギリスの交易をすべて密貿易として取り締まったので各地でトラブルが起きた。1568年にイギリスの奴隷貿易船がスペインに攻撃される事件が起こるとイギリス側も報復し、それまで良好だった両国の関係は悪化する。

 スペインはポルトガルを併合し(1580年)、東インドの富を独占する大帝国となっていたが、女王は私掠免許状を次々と発行してスペイン船を攻撃させ、捕獲船からの利益の一部を王室に上納させて(1589年に定められた配分率は、国王が1割、残りの9割が船主と船長および乗組員の取り分とされた)財政難を補った。ホーキンスやドレークらをはじめとする私掠船船長たちは「エリザベスの海の猟犬(Elizabethan sea dogs)」として恐れられ、エリザベスは「海賊女王(Pirate queen)」との異名をとった。

 イギリスの私掠船の活躍は目覚ましく、ドレークはスペインが支配していた世界を荒らしまわり、マゼランさえも果たせなかった世界一周を成し遂げて英国に帰国(1580年)して、国庫歳入を上回る巨額の利益を王室にもたらした。彼は出資者でもあったエリザベスから爵位を授けられた。こうして船乗りたちは海賊行為に駆り立てられ、海外探検、貿易圏拡大が大ブームとなり、農業国イギリスは海外発展の黎明期を迎えたのである。

▼アルマダの海戦

 エリザベスがオランダに援軍を送り、スペインとの戦争(英西戦争1585-1604年)を決断したのはこのような背景があった。女王は直ちにドレークに艦隊を授け、スペインの西インド植民地を襲撃させた(1585年)ので、両国は宣戦布告なき交戦状態となった。そして1587年にエリザベスがカトリック教徒のスコットランド女王メアリを陰謀のかどで処刑すると、スペインのフェリペ2世はローマ教皇の支持のもとイングランド侵攻を決意する。

 エリザベスはフェリペをけん制するために、スペイン艦隊が集結していたカディス港を急襲(「スペイン王の髭焦がし」)させ、スペイン艦隊の英国遠征を遅らせることに成功したが、翌1588年には再建された「無敵艦隊(アルマダ)」がイギリス海峡に姿を現した。ちなみに日本で使われる「無敵艦隊」という名称は、19世紀にスペインの海軍大佐が発表した論文のタイトルに由来するらしいが、イギリス海軍史では「Spanish Armada」としている。

 スペインのアルマダは、ガレオン船65隻のほか武装商船や大西洋には不向きのガレー船を含む130隻もの大編成であったが、寄せ集めの陸兵の輸送船団であり戦闘艦隊というようなものではなかった。指揮官は海上経験皆無のシドニア公で、国王に「すぐに船酔いしてしまう」と交代を願い出たが、尻をたたかれ出撃した。艦隊は、カレーで17,000名の兵士を乗せ、ドーバー海峡の制海権を握って一挙に英国を征服する計画だった。

 迎え撃つ英国側は197隻、そのうち王室所有船は34隻に過ぎず、残りは私掠船の寄せ集めで、こちらの指揮官も海上経験はなかったがドレークを副司令官に得て、操艦や砲戦などでもスペイン側よりはるかに優れていた。

 ドーバー海峡を東航し接舷、斬り込み戦法をもくろむソルジャー・キャリアからなるアルマダに対してイギリス側はウェポン・キャリアとして遠距離での砲戦を挑んだことは海戦史上、画期的なことだった。決着のつかないままスペイン側はカレーにたどり着いたが乗り込んでくるはずの兵士がなかなか到着しない。オランダ海軍が150隻の艦艇により海岸に出るあらゆる水路でスペイン軍の移動を封鎖していたのだ。

 泊地で待機を強いられたスペイン艦隊は、火船の急襲を受けてバラバラに脱出したところを英国艦隊の攻撃に遭い大被害を被ったため、上陸作戦をあきらめて退却した。両艦隊は折からの大嵐に襲われるが、英国艦隊が全艦なんとか帰港できたのに対して、スペイン艦隊は方々で難破するありさまだった。

 スペイン艦隊の損失63隻のうち戦闘で喪失したのは4隻に過ぎず、その他は荒天による難破、行方不明であり、指揮や練度が劣っていたために自滅したのだ。英国海軍史はこの嵐を「Winds of God(神風)」と呼んでいる。

 もしスペイン艦隊が計画どおりに兵士を乗せ、ただちに海峡を渡っていたら英国は征服されたかもしれない。そう考えると、この海戦で特筆すべきはオランダ海軍の働きであり、英国を救ったといっても過言ではない。この海戦を「イングランドの制海権のはじめ」とする見方があるが、実際にはイングランドに降りかかった国難をオランダ海軍の助けを借りて切り抜けたというのが正当な評価だろう。

▼アルマダの海戦その後

 アルマダの海戦に勝利したエリザベスは、プロテスタント世界の盟主として自らを宣言した。

 しかし、スペインのイングランドへの挑戦は止まず、さらに二度アルマダを派遣(1596年、1597年)した。いずれも悪天候のためとん挫したが、エリザベスはスペイン艦隊との対決を極力避けて、アルマダの海戦で得られたイギリス海峡の制海権を拡大どころか維持しようともせず、海軍予算も大幅に削減してしまった。

 また、エリザベスの「海の猟犬」によって荒らされた西インド諸島のスペイン植民地の守りは強化され、私掠船が簡単に掠奪できる時代は終わった。女王は国力を蓄えるために合資会社には存分に活動させたが、ドレークらの私掠活動には小心ともいえる慎重さで手綱を絞り、彼らを憤慨させた。こうしてスペインは以前にも増して多くの富をアメリカから略奪したのだった。

 こうしたことからエリザベスは、優柔不断とかシー・パワーを理解できなかった君主などと批判されることがあるのだが、彼女の常備艦隊はわずか34隻で、増強するにもカネがなかったのだから仕方がない。当時のイングランドは人口も少ない農業国であり、輸出品といえば毛織物くらいのもので、始まったばかりの植民地開拓も失敗続きだったので、アルマダの海戦以降もスペイン艦隊と戦い続けたら国家財政は破綻してしまっただろう。

 エリザベスはひとまず国難を脱したが、イギリスがトラファルガーの戦い(1805年)で海上覇権を握るのは200年も先のことである。

【主要参考資料】 桜田美津夫著『物語 オランダの歴史』(中公新書、2017年)、岡崎久彦著『繁栄と衰退と』(文春文庫、1999年)、ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 上』山本文史訳(中央公論新社、2020年)、宮崎正勝著『海からの世界史』(角川選書、2005年)、青木栄一著『シーパワーの世界史①』(出版共同社、1982年)、小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』(原書房、2007年)

※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。