シーパワー500年史 5

 前回は、カトリック世界のポルトガルとスペインが探検航海を開始し、各地に植民地を建設しながらアジアに到達して、日本へのアプローチをするところまででした。今回は、大航海時代のアジアの海はどうだったか、ヨーロッパ勢力はどのように日本に入ってきたか、そして日本はなぜ植民地にならずにすんだのかなどについて話を進めます。

▼戦国時代の日本とアジアの海

 ポルトガルとスペインがアジアに到達した頃、日本は戦国時代で、海では14世紀頃の前期倭寇に続いて後期倭寇が全盛期を迎えていた。後期倭寇は密貿易を「強行」する海賊だったが、明国の海禁令(1371年から1567年の間、中国人が海上で交易することを禁じた)を逃れた中国人を中心に日本人やポルトガル人などを含んでおり、各地に拠点を設けて広く東シナ海や南シナ海で活動していた。その貿易ネットワークはフィリピン北部に及び、フィリピン征服を狙ってマニラ(1574年)を襲撃した倭寇もいたほどであったが、明国の倭寇討伐と解禁令の緩和とともに勢力を弱める。日本でも秀吉の海賊禁止令(1588年)で活動は沈静化した。

 倭寇は奴隷貿易も行っており、戦国時代の「乱捕り」や朝鮮出兵で増えた奴隷をアジア各地に売り、一部はポルトガル商人により遠くインドやポルトガル、スペインへと運ばれた。1582年にローマに派遣された天正遣欧使節の少年たちも、アジアや南欧の各地で大勢の日本人奴隷を見かけたことが記録されている。

 戦国時代が終わると、仕事のなくなった兵士たちは、高い戦闘能力を買われて契約に基づくヨーロッパ勢力の傭兵となり、植民地獲得をめぐる紛争や現地民の鎮圧などに活躍した。兵士たちは東南アジア諸国にも多く雇用され、シャムのアユタヤ王朝に仕えた山田長政のような者も現れた。日本人の海外進出が本格化した16世紀以降、東南アジア各地の港町には日本人町ができたが、そのうち最大のアユタヤには最盛期で1,000人以上の日本人がいた。ちなみに中継貿易港として栄えたアユタヤは造船業も盛んで、徳川幕府で始まった朱印船貿易で使われた日本の商船の多くはシャム製のジャンクだった。

 ポルトガル人が日本に来たのは1543年、乗っていた倭寇のジャンクが種子島に漂着したのだが、鉄砲が伝えられたのもこの時だ。1549年にはマラッカで出会った日本人の案内で、イエズス会士フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸、翌年には平戸にポルトガル船が入港し、領主の保護を受けてキリスト教が広まる。

 スペイン人の日本来航は1584年であり、マニラを拠点にして対日貿易を始めた。やがてフランシスコ会の宣教師たちも布教を始めたが、教皇が日本布教をイエズス会にのみ認めていたため、争いとなる。それでもポルトガルを併合したスペインのフランシスコ会系は強気で押し、ついに1600年にはローマ教皇がイエズス会以外の日本布教も認めた。

▼スペインの明国征服論

 戦国時代の日本におけるスペインの動きと秀吉の外交を、平川新著『戦国日本と大航海時代』にもとづいてたどってみる。

 アジアに進出してきたスペインは、明国との貿易を確保し布教を進めるために同国を征服すべきと考えていた。中南米と同様、わずかな兵力で征服できると考えたのだ。それが世界領土分割(デマルカシオン)体制における彼らの当然の論理でもあった。

 一方、日本については、戦国時代の非常に勇敢で絶えず軍事訓練を積んでいる武士たちを見て、すぐに征服するのは困難だが、うまく使えば明国征服には非常に役立つだろうと考えた。その頃、キリスト教徒が急速に増え、キリシタンとなった大名たちは宣教師の指示に忠実だとみなされており、これらの大名を軍事的に支援すれば、他の諸大名の改宗が一挙に進んで日本を支配でき、神の名のもとに戦闘力の高い日本兵を明国侵略に駆り出すこともそう難しくないと考えられたのだ。

 信長は、イエズス会は自らが敵対する仏教勢力のけん制に役立つと考えて好意的に接したが、役立たなければ容赦なく切り捨てる考えを宣教師らに示していた。信長は、ポルトガルが伝えた鉄砲を巧みに使う自らの軍事力に自信を持ちつつも、献上された地球儀を前に宣教師たちから聞かされるポルトガルの世界進出に対しては対抗心を持っていたと思われ、諸大名を平定したら一大艦隊を仕立てて明国を征服すると大言した。明智光秀に討たれる2週間前のことだった。

▼秀吉の強硬外交

  秀吉は朝鮮出兵を行なったほか、明国、台湾、南蛮(東南アジア)、天竺(インド)の征服構想を語っており、誇大妄想にとりつかれていたとの見方や狂気説まである。たしかに明国征服は非現実的だったが、秀吉は日本主導の出兵を具体的に考えてポルトガルに軍事支援を依頼し、イエズス会もポルトガル船の提供やインドからの援軍を申し出ていた。

 秀吉はイエズス会とこのような関係にありながら、彼らが日本国内で急速にキリシタン大名に対する政治力を強め軍事力を蓄える様子に警戒心を深めており、これが突然のバテレン追放令(1587年)につながる。驚いたイエズス会側はフィリピン総督などに援軍派遣を要請し、長崎に要塞を築いて教会を守ろうとする。

 結局フィリピン側は派兵には応じなかったが、この頃から秀吉の「強硬外交」が始まる。秀吉は朝鮮出兵を明国征服の前段階として位置づけていたが、出兵に前後して琉球や台湾、フィリピン総督に服属を要求しただけでなく、アジアのポルトガル植民地を支配するインド副王にまで威嚇的な書簡を出した。

 特にフィリピン総督に対しては強い言葉で恫喝して服属を要求したため(1591年)、怯えた総督はマニラに戒厳令を布き、慌てて秀吉に使者を送り何とか融和に持ち込もうとした。使者は謁見の場で秀吉にポルトガル人の悪口を吹き込むのだが、それを信じて怒った秀吉は長崎のイエズス会の教会などの破壊を命じてしまう。

 それまでの秀吉のイエズス会に対する不満が吹き出した形だが、実は秀吉はマニラ貿易に関心を持っており、ポルトガルが独占する長崎貿易のあり方を変えたいとも考えていたのだ。また、スペインとしても対日貿易に食い込むために、バテレン追放令でイエズス会が追放されたら、その後釜としてドミニコ会士を派遣しようとしていた。サラゴサ条約で境界線上にある日本におけるポルトガルとスペイン両勢力の争いが表面化したのだ。

 秀吉は、フィリピン総督へさらに激越な書簡を送るが、その中でスペイン国王に対しても「遠方にあるというとも予が言を軽視すべからず」などと恫喝している。朝鮮出兵が意のままにならないからこそ、フィリピンの服属をなんとしても実現したかったのかもしれない。

▼幻の明国征服構想

 朝鮮出兵は失敗し、秀吉の死により明国征服も幻となったが、その征服構想は海洋戦略としてみると大変興味深い。秀吉は、明国を征服したら天皇を北京に置き、自らは寧波(ニンポー)(浙江省)を居所とするつもりでいた。

 寧波は、古くは遣唐使や室町時代の日明貿易(勘合貿易)で日本船が出入りし、戦国時代には明人倭寇たちの拠点とポルトガルの対日貿易の中継地になった港である。ここからは東シナ海に面した朝鮮、琉球、台湾はもちろん、南シナ海を経てマカオやマラッカ、さらにはインドのゴアともつながることができた。明国を押さえるだけでなくシナ海交易も掌握し、さらにポルトガルの支配領域にまでにらみをきかすことができる港が寧波であり、東アジア全体を視野に、陸だけでなく海も支配する秀吉の強い意志を感じ取ることができる。

 今日、その寧波は中国海軍東海艦隊の本拠地となっている。東海艦隊といえば、台湾海峡や東シナ海などを担当し、日米などと対峙する重要な艦隊である。中国がその艦隊司令部を置いているということは、時代が変わっても地理は変わらず、国際情勢は変わっても同地の戦略的価値の高さが変わらないことの証左といえる。

▼台湾をめぐる争奪戦

 失敗したとはいえ、朝鮮出兵によりスペインは日本の軍事力の強大さを知ることになった。フィリピン総督は、日本がいずれマニラを攻略しに来ると考え、日本が朝鮮出兵に全力をあげている間にその前進基地となる台湾を占拠することを国王に進言した。結局スペインは台湾の占拠には動かなかったが、メキシコからフィリピンへ兵員と武器を積んだ船が派遣されたという。

 秀吉の死去により台湾出兵はなされなかったが、対外貿易に携わる領主からするとマニラやマカオなどとの交易路上に存在する台湾は確保しておきたい拠点だった。徳川幕府は、国内を平定すると台湾へ触手を伸ばしはじめ、1616年には台湾の支配を狙って13隻の船団を派遣したが、暴風のため失敗した。

 台湾への関心はヨーロッパ勢力も同じで、オランダ東インド会社が澎湖諸島を占拠すると(1623年)、明軍と交戦となり、和議によりオランダ人は台湾南部に移ったが、今度はスペイン人が台湾北部を占拠してしまう(1626年)。

 1642年にはオランダが登場する。オランダは、艦隊を派遣しスペイン勢力を駆逐して台湾を植民地に組み込んだが、1662年には鄭成功の攻撃を受けて、台湾から撤退した。こうした熾烈な領土争奪戦が展開されたのだが、今日の情勢をみると寧波の例のように、台湾の戦略的価値も時代を超えたものであることがわかる。

▼オランダとイギリス

 家康の時代に入り、遅れてやってきたオランダやイギリスは、日本が軍事大国であるとの認識をもっていた。なにしろ日本は、自国の数倍の人口を擁し、鉄砲の数は30万丁で世界一、世界の銀の1/3を産出していたのだ。

 平戸のオランダ商館長はバタヴィアのオランダ東インド会社総督に対して、日本の皇帝(将軍)には力がある、インドネシアの小さな国の国王のことなど取るに足りないが、日本の皇帝を怒らせると危ない、と書き送っている(1621年)。また両国は、家康がキリスト教を嫌っていることを知っていたので、ポルトガルやスペインが布教と征服を一体化させていることをしきりに吹き込んだ。そして、そう讒言した以上、自分たちが布教行為をするわけにはいかなかった。

 このようにオランダもイギリスも、スペイン・ポルトガルとの貿易戦争に勝つために将軍の機嫌を損ねないように、日本やその周辺での軍事的な行動はもちろんキリスト教(プロテスタント)の布教も自制したのだ。

▼日本が植民地にならなかったわけ

 このあと幕府は禁教令(1616年)を出し、布教にこだわるスペイン・ポルトガルと断交する。スペイン船の来航禁止は1624年、ポルトガル船の来航禁止は島原の乱(1637-38年)の後、1639年に通告された。そして、それをより万全なものとするために、幕府は海岸線に遠見番所や烽火台を設けるとともに、長崎では有事に大名家の兵力を動員する仕組みを整備して、沿岸防備体制を整えた。イギリスはオランダとの市場競争に敗れて1623年に日本から撤退するが、オランダは出島に封じ込められ日本の貿易管理に従った。

 圧倒的な武力と策略をもって世界中を植民地化してきたスペイン、ポルトガルは追放され、新興勢力であるイギリスやオランダは幕府の指示に従った。ヨーロッパでは三十年戦争(1618-48年)の真っ最中で、列強は世界中の海で戦いに明け暮れていたこともあっただろうが、戦国時代の日本がこれらの国々と対抗可能な軍事力と外交力を持っていたことは確かだった。それが、ヨーロッパ列強に征服された地域との大きな違いだった。

 しばらくはヨーロッパから交易再開を求める船が来たが、それが途絶えると(1673年)、日米和親条約締結(1854年)までの200年以上にわたって鎖国政策をとる。鎖国のおかげで泰平の海だったと思われがちだが、果たしてそうだったのだろうか。

【主要参考資料】 平川新著『戦国日本と大航海時代』(中公新書、2018年)、村井章介著『海から見た戦国日本』(ちくま新書、1997年)、田中健夫著『倭寇 海の歴史』(講談社学術文庫、2012年)、松尾晋一著『江戸幕府と国防』(講談社選書メチエ、2013年)、松方冬子著『オランダ風説書』(中公新書、2010年)

※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。