シーパワー500年史 3
前回の「海の特質と海軍のはじまり」に引き続いて「シー・パワーとは何か」について。今日「sea power」と「seapower」は厳密に区別しないで使われることが多いようだが、本連載では一応マハンの「sea power」を「シー・パワー」とし、一般に海軍国や海軍力と訳される「seapower」は「シーパワー」と表記することにする。
▼マハンは「シー・パワー」の元祖か?
今日広く使われている「シー・パワー」という言葉の元祖は、アメリカの海軍士官アルフレッド・セイヤー・マハン(1840-1914)であるとされている。
彼は著書『海上権力史論(The Influence of Sea Power upon the History, 1660-1783)』(1890年)において、イギリスの覇権をつくり上げたのは世界の海での「シー・パワー」の確立がもとになっていたとして、若き海洋国家アメリカが「見習うべき最善の先例」をイギリスの歴史のなかに求めてその進むべき針路を論じたのである。ちょうどアメリカが南北戦争(1861-65年)後に高度経済成長を遂げ、海洋国家として国際政治に大きな影響力を及ぼすようになっていた頃だ。
マハンは「シー・パワー」を厳密に定義せず、「海洋ないしはその一部分を支配する海上の軍事力のみならず、平和的な通商及び海運をも含むもの」という広い意味で論じている。したがって「シー・パワー」とは、もっぱら海軍力を指す「ネイヴァル・パワー」よりも広義で、単に軍事力にとどまらず、海運業や商船隊、またその拠点として必要な海外基地や植民地をも含むものと考えられる。マハンの著作は、当初アメリカではあまり注目されなかったが、イギリスで大きな反響を呼んでから全世界的に有名になった。
彼がことさら「シー・パワー」という言葉を使ったのは、当時新しかった蒸気機関や電力の「パワー」あるいは権力政治(パワー・ポリティクス)の「パワー」ということで、時代を反映し世間の注目をひくキャッチフレーズとして選んだからであった。
また、マハンはシー・パワー理論そのものについて、エリザベス女王の寵臣ウォルター・ローリー卿が「海の支配者は通商の支配を通じて世界を制覇する」と述べているように自分のオリジナルではないとし、偉大な先人たちが行なわなかった緻密な史的分析の「機会がまわってきたのだ」と述べている。
マハンは著書の中で、繰り返しアメリカの現状に言及して海洋支配国としての可能性に考察を加えている点からみても、自国の海軍拡張や海外発展を主眼としていたことは間違いない。事実、彼は有力な“膨張主義者”ロッジ米上院議員への書簡で「自分の能力の及ぶかぎり、過去の経験が現在の思想、そして将来の政策に影響を与えるよう」念願して著述したと述べている。(麻田 1977,22)
1889年、艦隊勤務に出ていたマハンは海軍大学の校長に就任。トレイシー海軍長官が、世論を“啓蒙”するプロパガンディストとしてマハンを呼び戻したのだ。そして、マハン流の戦艦を中心とした攻勢作戦を任務とする戦闘艦隊の計画を立て、翌年には画期的な海軍予算案を通過させることに成功した。米国議会は帝国主義、拡張主義的な方向で「大海軍主義」を支援するようになったのだ。
しかし、この「大海軍主義」もマハンのオリジナルというわけではなく、1880年代に海軍部内や議会にあった「ニュー・ネイヴィー」建設論を反映したものだった。例えば、1880年にホイットソーン米下院議員(下院海軍委員会の元委員長)は、「一国の通商を支えるものは、まず第一に工業生産力、第二にそれを護衛し防御する海軍力である。領土とパワーと文明の点で最高の地位に達した国々の歴史を見ると、強大な海軍と商船隊を持つ国が富と繁栄を極める、という教訓が得られる」と演説している。通商拡大→商船隊復活の必要→海軍拡張の急務→遠洋艦隊の傘の下での貿易伸長、という循環論法的な大海軍主義の主張が、80年代を通じて広く国民にアピールするようになっていたのだ。(麻田 1977,17)
蛇足ながら、『海上権力史論』で展開される有名な六つのシー・パワーの要因は、1882年度の米海軍協会懸賞論文に入選したW.G.デイビット海軍少尉による「米国の商船隊:衰退の原因と復活のためにとるべき方策」で論じられていることが知られている。少尉は、歴史上の海洋国家の興亡を分析して大海運国になるための必須条件を、①有利な地理的位置、②低コストで船舶を運航できる能力、③強力な海軍、とし、望ましい条件として、④通商が盛んなこと、⑤良好な港湾、⑥海を志向する国民性、➆資源の豊かな植民地をあげている。
マハン自身、1880年頃の書簡の中などで大海軍建設の重要性を主張しているが、少尉のような考え方も広く取り込んで、自著の中で実質的に海軍の立場を代表して意見を表明したのであろう。このように、マハンのシー・パワー論は1890年になって突如現れた新説ではなく、それに先立つ10年間になされた議論をふまえ、それらを集大成したもの、といえる。貧弱な米海軍の再建を目指して活発化した海軍ロビーは、その主張を貿易拡大や海外市場確保の必要に結びつけて対外膨張政策を説いたのだが、そこにマハンも一役買っていたということだ。
▼日本における「シー・パワー」の理解
マハンは日本でも高く評価された。
彼の著作がアメリカで名声を博すと1893年の『水交社記事』に「近来傑出の一大海軍書にして…必読の書」であると紹介され、1896年には『海上権力史論』として全訳が出版された。この本が高く評価されたのは、日本が国を挙げて海軍建設を開始した時期に当たったからでもある。なにしろ、明治天皇自ら宮廷費の一部を軍艦建造費として使わせたほどの時代だ。全訳は1、2日のうちに数千冊も売れたという。
この出版にあたり明治の和訳者は「sea power」を「海上権力」と訳したのだが、これが曲者だった。当時の日本海軍は、シー・パワーを「もっぱら自己の実力から生じる海上を支配する力」と理解していたが、「権(力)」と訳された「sea power」が、何か一段高い権威者なりから与えられる権利や権限のように誤解される恐れが出てきたと考えたのだ。
また「command of the sea」も「制海権」と訳されたため、日本海軍の考える「実力をもって海上を制圧する」という意味が「影響力を及ぼす範囲の確保」のように受け取られ、海戦の目的が敵の主力を撃滅し屈服させるのではなく海上交通を維持できるに足る「海上権」さえ獲得すればよいと理解されかねないと危惧された。
このような海軍としての懸念があったので、海軍大学校は『兵語界説第4版』(1907年)において「sea powerを海上権力と訳したのは誤訳である」とし、新たな訳語を「海上武力」とした。これと同時に「制海権」という言葉からは「権」を外し「command of the sea」というのは「制海」ということにしたのだ。
このような「sea power」を「海上武力」とする考え方は、日本の海軍部内で敵艦隊を撃滅する海戦を中心に論じるにはよいとしても、マハンが考えたように海を「一大公道」ととらえ貿易や海運を含めた広い意味のことは議論の範囲外となりかねない狭い考え方といえる。それは、長期の鎖国から脱したばかりの明治海軍には、通商保護や通商破壊の重要性が理解されていないことの証でもあり、このことは日本の貿易や海運が拡大してもなかなか変わらなかった。
青木は、「一国の経済立地が海外との貿易に依存し、シー・パワーを失った時にその国の経済が破綻に瀕するというような事態を、明治の政治家や海軍士官は体験的に理解することができなかったのである。海軍の目的はあくまで来攻する敵艦隊の撃滅であり、海上交通に対する攻撃や保護は副次的な戦争とみなしていた」(青木 1983, 355)と指摘する。
この『兵語界説』の定義ぶりに象徴されるような日本海軍のシー・パワーについての視野の狭さは、戦闘については熱心に研究するが総力戦の時代の戦争そのものの研究を怠ったり、貿易や海運を含む国家のマクロ経済を軽視して無謀な太平洋戦争に突入する遠因となったのではないだろうか。
▼現代における「制海」
「シー・パワー」論における重要な概念である「制海(command of the sea)」は、今日「制海」もしくは「制海権」と特に区別されることなく使われている。
マハンも著書のなかで「command of the sea」「control of the sea」などの用語を厳密な使い分けや定義を示すことなく使用している。彼は、海上作戦の目的は敵の艦隊を撃破し制海権を得ることであり、重装備の戦列艦、戦艦こそが艦隊の主力であると論じていたことから、「単純で完全な制海権」として「敵艦隊を撃滅して自己の目的のために海洋を自由に利用できること」と考えていたことがうかがわれる。
その一方で、第二次ポエニ戦争(紀元前218-210年)について「本当に海洋を管制していたとしても、制海(control of the sea)とは、敵の単独行動の艦船も小さな戦隊もひそかに港から脱出することができない…ということを意味するものではない。それとは反対に、このような回避行動は弱者の側も、いかに海軍力が劣勢であってもある程度は可能であることを歴史は示している」(マハン 2008、24)と「制海の不完全性」を指摘している。
今日、世界の海はマハンが唱えたように主力艦隊によって制圧できるような「広大な共有地」ではなくなっているし、敵艦隊の撃滅という意味での単純な制海権を行使しようにも極めて困難だ。コーベットなどは「制海は、通商目的であるか軍事目的であるかを問わず、海洋交通の管制だけを意味するのだ。海の戦いの目標は交通の管制であり、陸の戦いのように領土の征服ではない。」(コーベット 2016、164)と述べている。
考えてみると、 領土に対する国家の支配権が排他的でかなりの程度絶対的であるのに対して、人のいない広大な海域に対する支配力は、結局のところ他国との相対的な力関係によって決まるものだ。マハンの論じた帆走海軍の時代に比べると、現代海軍の作戦海域は広大で、作戦のスピードやテンポも比較にならないほど速い。
このことから、制海の「程度」も不安定で流動的とならざるを得ず、海上作戦の観点からも必要な海域で必要な時間帯のみ「制海」状態を維持すればよい、むしろそうすることが経済的であるという考え方が一般化してきている。つまり現代の「制海」とは局地性、相対性、流動性を前提とする考え方になっている。
このような理由から、現代の海軍では「制海(command at the sea)」という言葉は戦略的、一般的な文脈で使われることが多く、作戦、戦術を具体的に論じたり計画を作ったりする場合には、「Sea Control(海域管制)」とか「Area(Sea) Denial(領域(海域)拒否)」という用語を使うことが多い。
▼「制海」・「海域管制」・「海域拒否」
現代の海軍では、「制海(Command of the sea)」とは「自己の目的を達成するために海洋を利用し、敵の利用を拒否すること」と一般的に理解されているが、「海域管制(Sea control)」や「海域拒否(Sea denial)」との関係はどうなっているのか。
現代の米海軍や日本を含む同盟国海軍の考え方は、米軍が作った『JP3-32』というドキュメントに基づいている。その考え方によれば、「海域管制」とは「重要な海域における局地的な優勢を獲得すること。このため味方の海上連絡線を防護しつつ、敵の海上部隊を撃破し海上交易を阻止すること」と定義されている。
一方、『JP3-32』は「海域拒否」について明確に定義していない。これは米海軍などが基本的に優勢な海軍であり「海域拒否」作戦をとる必要がないこと、言い換えると劣勢の敵海軍がとる「海域拒否」を「拒否」するのが「海域管制」と考えることができる。このように「海域管制」と「海域拒否」は、基本的にそれぞれ優勢側、劣勢側の考え方であり、対置的ともいえるしコインの裏表のような関係ともいえる。
たとえば米海軍のシー・パワーとしての五つの役割は、「アクセス、抑止、海域管制、戦力投射、海上警備」とされており、「海域管制」はそのひとつである。(NDP-1)これに対して、海域拒否は中国のA2/AD(anti access/ area denial、接近拒否/領域拒否)戦略にみるとおり、ロシアやソ連の伝統的な戦略の大きな柱でもあった。
海洋国家の海軍の役割が「海域管制」であるのに対して、大陸国家が「海域拒否」の考え方をとるのは、それぞれの国の地政学的な特徴や海軍の主な役割を反映しており、興味深い。
【主要参考資料】アルフレッド・T・マハン著『マハン海上権力史論』北村謙一訳(原書房、2008年)、麻田貞雄著『アルフレッド・T・マハン』(研究社出版、1977年)、Ensign W. G. David, “Our Merchant Marine: The Causes of its Decline, and the Means to be taken for its Revival,” USNI Proceedings, January 1882、『第四版兵語界説』(海軍大学校、1907年)、青木栄一著『シーパワーの世界史2』(出版共同社、1983)、ジュリアン・スタフォード・コーベット著『コーベット海洋戦略の諸原則』矢吹啓訳(原書房、2016年)、『Joint Publication (JP)3-32, Joint Maritime Operations』8 June 2018、『Naval Doctrine Publication (NDP) 1, Naval Warfare』April 2020
※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。