シーパワー500年史 42
今回は冷戦が終わった後の話から始めたいと思います。冷戦後の各国の海軍戦略の転機となったのは何といっても湾岸戦争だったと思います。この戦争が、アメリカ、日本、中国に与えた影響を見てゆきます。
▼湾岸戦争と米海軍の戦略転換
冷戦が終わると、米軍は対ソ戦から地域紛争への備えに戦略を転換する。早くも1990年にはイラクがクウェートに侵攻し、翌年、米国が主導する多国籍軍がクウェートをイラクから解放する軍事行動を起こした(湾岸戦争)。米海軍は、ピーク時には6隻の空母を展開したものの、戦争そのものは航空戦と地上戦が主体だったため空母艦載機を除き、統合軍内においての役割は限られたものだった。
このため、海軍は湾岸戦争が終わると対ソ全面戦争に備えた兵力や戦略を自ら見直し、地域紛争に備えるとの方針を示す。「前へ(The Way Ahead)」(1991年)、「海から(…From the Sea)」(1992年)、「海から…前へ(Forward… from the Sea)」(1994年)といった海軍長官、海軍作戦部長、海兵隊司令官の連名で発表された戦略文書において、海軍と海兵隊が協同して海軍遠征部隊を編成し、大洋を越えて沿海域での統合作戦を行うことで地域紛争に対処するという構想を発展させた。この構想に基づき、①陸上への戦力投射、②制海、③戦略的抑止、④戦略海上輸送、⑤前方プレゼンスが海軍の役割とされ、海軍は海兵隊とともに前方に展開し、戦闘即応態勢を保ち平和の維持にあたるとした。
湾岸戦争はまた、情報化時代の戦い方を進化させた。この戦争においてイラク軍は戦車と兵員の数で多国籍軍よりも優っていたにもかかわらずあっけなく敗退した。情報力と技術力に優れた多国籍軍は、イラク軍の動静を事前に把握し、その指揮中枢、情報・通信ネットワークを精密誘導兵器などで無力化し、戦闘の主導権を握って短期間で勝利した。本格的な地上戦闘が始まる前にイラク軍は組織的戦闘力を失っていたのだ。
戦車や艦艇の数や武器の性能が戦闘の勝敗を左右するという従来の「プラットフォーム中心の戦い」(PCW: Platform Centric Warfare)から「ネットワーク中心の戦い」(NCW: Network Centric Warfare)の時代になったのだ。
NCWとは情報化時代の戦い方の概念であり、戦闘力を構成するセンサー、ウェポン、指揮官をネットワーク上で一体化し、情報を共有することにより情報優位を獲得し、各レベルの指揮官が自己同期(上位の指揮官の指図なしに意図に沿った行動を自らとること)することにより迅速な指揮を行い、高い戦闘力を生み出し、最終的に戦闘における優位を獲得しようとするものだ。
▼日本 湾岸の夜明け作戦
日本ではイラン・イラク戦争がペルシャ湾に波及した「タンカー戦争」(1984~88年)での苦い経験が湾岸戦争でも繰り返された。米国を中心とする多国籍軍が編成されたとき、海上自衛隊を派遣すべく法案を成立させようとしたが、海外派兵に対する強い反対から廃案になった。このような日本の状況に対して米国国務省高官からは、「米兵等の犠牲者が出た際に、日本が資金面のみの協力に終始し何ら人的な貢献を行っていない場合には、日本に対する極めて激烈なる反応が米国内で爆発することは必至」と迫られたりもした。
結局、日本ができたことといえば、多国籍軍への130億ドルもの資金協力と周辺国への経済協力だけだった。国際社会からは「小切手外交」とか「ツゥーリトル、トゥーレイト(少なすぎ、遅すぎ)」などと厳しく批判され、世界屈指の原油輸入国である日本が相応しい貢献をできなかった苦い経験として記憶された。
一連の対応で明らかになったのは、国家としての危機対処能力が全く欠如していることであり、政府は戦争終結後、ようやく掃海艇部隊をペルシャ湾へ派遣した(湾岸の夜明け作戦、1991年)。この派遣は、自衛隊にとって初の人的な国際貢献であり国際社会からも高く評価された。
ちなみに、岡崎久彦が『繁栄と衰退と』を発表したのもこの頃である。彼は、17世紀に繁栄を誇ったオランダが自己中心的な平和主義を推進するうちに国際社会での信用を失い凋落の道を辿った歴史を日本に重ねたのだった。(連載第8回参照)
このような湾岸戦争での経験を踏まえて、10年後の米国同時多発テロ(2001年)では、小泉首相はその翌日に米国に対する強い支持を表明、9日目には海上自衛隊艦艇の派遣を含む「当面の措置」を発表するとともに、テロ対策特別措置法をスピード成立させた。日本は、テロとの闘いを自らの問題として積極的かつ主体的に取り組み、ようやく世界の国々と一致結束して努力する姿勢を明らかにしたのだった。
▼中国 情報化条件下の局地戦争論
中国では、解放軍の近代化が一層進むきっかけとなった。ハイテク兵器を使用した米軍がイラク軍に完勝したことは人民解放軍にとって大きな衝撃であり、ハイテク戦争への対応が急がれた。
海軍司令員を長く努めた劉華清は93年の論文で、湾岸戦争にみられた新しい局地戦争の特徴として、①戦闘空間の拡大、②航空戦力の役割増大、③C3I(指揮、統制、通信、情報)と電子戦の役割拡大、④夜間戦闘装備の発達、⑤作戦テンポの高速化と兵站の重要性などを指摘し、さらなる軍の近代化を提唱し「ハイテク条件下の局地戦争論」のはしりとなった。
コソボ紛争(99年)でも米軍はユーゴスラビア軍を圧倒し、サイバー戦やソフトキルの成果が注目され、軍の機械化だけでなく高度の情報化が必要との認識が広がる。さらにイラク戦争(03年)での米軍のC4ISR(指揮、統制、通信、コンピューター、情報、監視、偵察)能力を発揮した戦いぶりから、①異軍種一体となった統合作戦、②卓越した状況把握と意思決定能力、③精密誘導兵器などによる情報と火力の高度の統合、④三戦(世論、心理、法律戦)などを重視した「情報化軍隊」による「情報化戦争」に勝利するとの考え方が提唱される。この考え方は「情報化条件下の局地戦争論」として、現在にいたるまでの軍建設の指針となっている。
【主要参考資料】 立川京一ほか編著『シー・パワー』(芙蓉書房出版、2008年)、「受け身の日本 いらだつ米…外交文書公開」(読売新聞2021年12月23日朝刊)
※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。