シーパワー500年史 41

 今回は太平洋戦争のまとめです。日米海軍はどちらも艦隊決戦型の作戦構想を持っていましたが、開戦前に米軍側の構想はミクロネシアの島々を水陸両用戦で奪って島伝いに日本本土に迫るというものに進化しました。艦隊決戦構想は日本海軍独りよがりのものとなったのです。この島伝いの進攻作戦について、日米両軍の備えはどうだったのか、これが第一のポイントです。

 もうひとつは、通商破壊戦とそれから商船を守る海上護衛戦の実態はどうだったのかということです。終戦直後、東久邇内閣は臨時議会において、太平洋戦争の敗因の最も根本的なものは船舶の喪失と激減であったことを明らかにしました。これまでもこの問題については折々に触れてきましたが、もう一度整理してみます。

▼日本軍の島嶼防衛作戦

 第一次大戦で日本の委任統治領となった旧ドイツ領のマーシャル、カロリン、及びマリアナ諸島はワシントン条約(1922年)で防備制限が課せられていた。しかし無条約時代となると(1937年)、海軍は南洋群島の基地整備が必要と判断し、それまで南洋庁(総理府、のち外務省、拓務省)が行っていた飛行場の建設などを担当することになった。また、海軍は南洋群島の防備のために第4艦隊を新編し(1939年)、翌年、周辺海面の警備や占領地の治安維持などを担当する根拠地隊を4隊編成した。

 開戦して日本が南方へ進攻作戦を展開しているうちは海軍の根拠地隊でなんとか対処できていたが、米軍が本格的な反攻作戦を開始して熾烈な島嶼争奪戦が始まると、海軍だけでは対処できなくなり、陸軍部隊も派遣されるようになった。しかし、「太平洋正面は海軍で陸軍は大陸」との考え方は強く、マリアナ諸島の例に見るように陸軍部隊の派遣は後手に回りがちで、ガダルカナル島の補給のように輸送船の不足や沈没により戦力の造成は難航した。

 島嶼での戦い方も、日本軍の防御は第一次世界大戦のガリポリ上陸作戦(1915-16年)の戦訓などから水際での撃滅が徹底されたが、米軍は上陸作戦前に日本の航空基地を無力化して制空権を握り、艦砲射撃と航空爆撃により日本軍の水際陣地を徹底的に破壊する戦法をとった。

 日本軍の兵力の逐次投入や補給の失敗もあり、圧倒的な戦力と上陸作戦要領を進化させ続けた米軍の強襲上陸は防ぎきれなかった。日本軍は太平洋の島々で奮戦したものの玉砕が続いたことから、米軍の戦法への対策を立てようにも戦訓を語る者がいなかったことは悲劇的だった。

 太平洋戦争を通じて、日本の島嶼防衛戦は、前進基地の防御に始まり、絶対国防圏の確保、そして最終的には本土決戦への時間稼ぎの様相を呈していった。

▼米海兵隊の強襲上陸作戦

 米海兵隊のエリス少佐による「海兵隊作戦計画712D」(1921年)は、その後の部隊編成、装備、ドクトリンなどの研究成果を取り込んで「上陸作戦マニュアル草案」(1935年)に進化した。

 これにより、上陸前の艦砲射撃、航空支援、輸送艦から上陸用舟艇に移乗しての上陸、橋頭堡の確保という水陸両用作戦の一連の流れと指揮系統や兵站の基準が確立された。また、装備面でも大きな革新がなされ、輸送艦から海岸へ兵士を運ぶ上陸用舟艇、戦車やトラックを運ぶ平底船、上陸の掩護と上陸地点の確保のための水陸両用装軌車などが開発された。

 海兵隊の新しいドクトリンの初の実戦の場となったのは、日本軍が飛行場を建設中のガダルカナル島とその向かいのツラギ島への上陸作戦においてだった(1942年8月)。ツラギ島では抵抗を受けたが、ガダルカナル島は無血上陸であった。ガダルカナル島をめぐる日本軍の大消耗戦についてはすでに述べたが、戦いは1943年2月に日本軍が撤収するまで続き、海兵隊は陸戦で日本軍に初めて勝利し、多くの教訓を得た。

 太平洋戦争において海兵隊は二つの進攻軸に沿った作戦を実施した。南太平洋方面での作戦はガダルカナル島のようなジャングルの戦いであり、上陸地点を敵の抵抗の少ないところに選ぶことができた。一方、中部太平洋方面では、タラワや硫黄島のような強固に防御された小島での戦いであり、本格的な強襲上陸作戦となった。

 初の本格的な強襲上陸となったタラワでは、3日間の戦闘で米軍に3,407名の死傷者、日本軍に4,690名もの戦死者を出した(1943年11月)。タラワでの戦訓は徹底的に研究され、後のペリリュー、サイパン、テニアン、グアム、硫黄島、そして沖縄での戦闘に反映された。沖縄戦(1945年4月~6月)は第二次大戦における水陸両用作戦の完成形というべき展開を見せた。それは過去30年間に米海兵隊が行った26回の水陸両用作戦の成果でもあった。

▼忘れられた通商破壊戦

 日本海軍の戦略は艦隊決戦一本槍で、第一次大戦でドイツ潜水艦による通商破壊戦が島国イギリスを追い詰めたことも深刻に研究されず、開戦時、海上交通保護については海防艦4隻を有するのみだった。第一次大戦中に撃沈された連合国の船舶は、1,285万トンにのぼり、実にその87%がドイツ潜水艦によるものであり、開戦1年目に31万トンだった喪失量は、その後凄まじい勢いで増加して、4年目の1917年には実に624万トンに達していたのだ。アメリカは、第一次大戦にドイツの無制限潜水艦戦をきっかけとして参戦したが、大西洋の戦いでドイツの通商破壊戦が戦局に大きな影響を与えたことを十分に理解していた。アメリカも伝統的に艦隊決戦主義であったが、すでに述べたように対日戦を見据えて戦略を進化させていた。

 太平洋戦争開戦当初の日本の海上輸送は、進攻にともなう作戦輸送がほとんどであり、輸送地域も限られていたため進攻作戦と輸送船に対する護衛作戦はおおむね両立していた。しかし、作戦が進展し対象地域が拡大する一方で、攻略した南方資源地帯からの国内への物資輸送も増加してくると、護衛を必要とする航路も必然的に増え、作戦用の兵力を割かなければならなくなった連合艦隊には負担となってきた。

 1941年当時の石油の民間需要は年100万トン、海軍が200万トン、陸軍が50万トンで、計350万トン、国内生産は50万トンであった。これに長年の備蓄が700万トンあったのだが、南部仏印への進駐(1941年7月)で石油の全面禁輸となり、陸海軍が何もしなくても日本は2年しか持たないということになった。

 そこで南方資源地帯を占領して石油を輸入すればよいのだが、そうすれば英米と戦争となり、日本のタンカーが敵潜水艦に沈められてしまう、この輸送の問題が詰められていなかった。軍令部は船舶被害を1年目80~100万トン、2年目以降60~80万トン、これに対して造船能力は、1年目45万トン、2年目60万トンなどと見積もっていた。

 当時の日本の船腹量は630万トンあったので、戦争2年目の終わりに555万トンまで減少するが、その後はやや増加さえする計算になり、これなら太平洋戦争はなんとか遂行しうるということになる。しかし、この見積りが根拠のあやふやなバラ色の希望的観測であり、実際には絶望的な展開をたどったことはすでに述べたとおりである。

▼連続攻勢の破綻

 このように海上輸送態勢は極めて脆弱であった一方で、日本軍は緒戦からの連続攻勢で後方連絡線を数百マイル単位で伸ばしていった。例えば、門司から高雄は640マイル、高雄からシンガポールは1,630マイルもあったし、横須賀からサイパンは1,280マイル、サイパンからトラックは610マイル、トラックからラバウルは800マイル、ラバウルからガダルカナルは600マイルであった。もともと輸送能力には限界があるのだから、制海権を獲得したといっていた緒戦の段階においてさえ、連続攻勢は潜在的に破綻する運命にあったのだ。

 米海軍は真珠湾攻撃のその日のうちに日本に対する無差別潜水艦戦を開始した。開戦時に米海軍が保有する111隻の潜水艦のうち73隻を太平洋側に配備したが、当初は魚雷の欠陥や不足により戦果は上がらなかった。

 しかし、ガダルカナル争奪戦の頃には日本軍が無理な海上輸送を強いられたこともあり、米側の戦果は顕著に増加する。1943年半ば、米軍は大西洋から太平洋に重点正面を移しはじめ、レーダーを装備した米潜水艦が日本海や黄海にも侵入し、日本近海での船舶被害が急増する。1944年にかけて、米潜水艦では電池魚雷、夜間潜望鏡、レーダー、ソーナーなどの武器の革新が進むとともに、3~4隻の潜水艦による集団攻撃法(狼群戦術)をとったことにより対日海上交通破壊戦は軌道に乗り、日本船の被害は激増した。1945年になると、日本船舶が激減してしまい攻撃目標がなくなったため、米潜水艦は主として不時着搭乗員の救助にあてられるようになった。

▼遅すぎた海上護衛戦

 日本海軍では、開戦当初は海上護衛のための専門組織はなく、1942年4月に日本とシンガポール及びトラック間の各航路の船団に対する海上護衛隊が編成されたのみである。その後、軍令部に海上交通保護などを担当する課が新設されたが、課長以下5名の体制でしかなかった。

 絶対国防圏が設定され米第5艦隊による怒濤の進撃が始まろうとしていた1943年11月、ようやく海上護衛総司令部が発足し、海上護衛隊と各鎮守府などを統一指揮することになった。しかし、肝心の兵力は海防艦をはじめとする44隻と掃海艇などに過ぎず、余力のない連合艦隊からは兵力は得られなかった。

 日本は米潜水艦の跳梁に対抗する護衛艦艇が不足していたことから、黄海南部や宗谷海峡には機雷を敷設した。また、対潜哨戒により安全を確保した指定航路帯を通航させる方式も試みたが、兵力不足により計画倒れに終わった。

 1945年3月には、マリアナ基地のB-29が飛来して下関海峡に機雷を敷設し始め、米潜水艦が侵入できない日本の主要港湾、内海、さらには日本海や朝鮮沿岸などもB-29による機雷で封鎖され、大陸からの食糧輸送が止まった(飢餓作戦)。

 同年5月、日本海軍に船舶の一元的運用のための海運総監部が設置されたが、7月には米機動部隊は北海道から本州北部にかけて猛烈な空襲を行い青函連絡船を含む多数の船舶を撃沈して、北海道炭などの輸送ができなくなった。このようにして日本は完全に封鎖され、海外輸送、国内海上輸送はほとんど止まり、戦争遂行に必要な物資や食糧は極度に不足した。

 アメリカの海上交通破壊戦により日本が喪失した船舶は、2,259隻814万トンであり、このうち60%が潜水艦、30%が航空機、5%が機雷によるものであった。100トン以上の商船乗組員の犠牲者は30,592名に達し、これは太平洋戦争中に日本商船隊を支えたおよそ7万人の海員の44%にあたり、この犠牲率は陸海軍全将兵の19%をはるかに上回った。船舶の建造能力も不十分なら、海上護衛も後手に回ったことで、日本が1トン建造するごとに3トン沈められた計算になり、日本の商船隊はやがて皆無になり、日本は破滅する運命にあった。

▼太平洋戦争の根本的な敗因

 日本海軍は海上護衛戦に関して、開戦から2年間ほどほぼ無為無策であり、海上護衛総司令部が設置されてからも連合艦隊は必要な兵力を割り当てなかった。これは、連合艦隊が艦隊決戦で敵艦隊を撃滅しさえすれば制海権を獲得でき、海上交通路の安全も守られるという考えに固執したからであった。

 この考え方は、第一次大戦のジェットランド海戦で決戦が成立しなかったように、艦隊決戦は起きないという海上戦略の発展段階を軽視するものであり、事実、自ら戦ってきた太平洋の戦いでも証明され続けていることであった。また、ドイツが両大戦において潜水艦だけで極めて効果的な海上交通破壊戦を行ったことから海上交通破壊と艦隊決戦は無関係であることも認識すべきであった。

 潜水艦の用法についていえば、日本海軍は艦隊決戦の前の漸減作戦に潜水艦を使うという考えを変えなかったため、日本潜水艦は主として対潜警戒の厳重な米大型艦に指向したため、戦果が上がらず多数の潜水艦を失う結果になってしまった。米海軍のように脆弱な商船を主目標とする通商破壊戦を重視していたならば米軍にとって大きな痛手となったであろうことから、日本海軍の潜水艦用法の戦略的な過ちだったといえる。

 終戦直後、東久邇内閣は臨時議会において、太平洋戦争の敗因の最も根本的なものは船舶の喪失と激減であったことを明らかにした。また、米戦略爆撃調査団もその報告書において「日本の経済および陸海軍力の補給を破壊した諸要素のうち、単一要素としては、船舶に対する攻撃が、恐らく、最も決定的なものであった」としている。島国の戦略としてあまりにも当たり前のことが、4年近くの戦のあとにようやく再確認されたのであった。

【主要参考資料】 外山三郎著『日清・日露・大東亜海戦史』(原書房、1979年)、吉田俊雄著『四人の連合艦隊司令長官』(文藝春秋社、1981年)、森本忠夫著『魔性の歴史 マクロ経済学からみた太平洋戦争』(文藝春秋社、1985年)、野中郁次郎著『アメリカ海兵隊 非営利型組織の自己革新』(中公新書、1995年)、井上亮著『忘れられた島々 「南洋群島」の現代史』(平凡社新書、2015年)

大井篤著『海上護衛戦』(学研M文庫、2001年)

大内健二著『戦う民間船』(光人社NF文庫、2006年)

※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。