シーパワー500年史 37
ドイツ海軍はUボート戦で戦果を上げてゆきました。一方でヒトラーは、当初の戦略とは異なり独ソ戦の前に英本土上陸作戦を企てます。ドイツ海軍は懸命にヒトラーの要求に応えようとしますが、結局は資源の無駄遣いに終わります。ただでさえ戦力不足なのに、このように国家戦略のレベルで振り回されたのではたまりません。
連合国側にとってUボートとの戦いは科学技術の戦いでもありました。様々なセンサーや兵器が登場して戦術が開発され、Uボートを追い詰めてゆきます。どれも現代の対潜戦につながっています。
「ドイツも勝っていることだし…」として、太平洋戦争に突入した日本海軍の真珠湾攻撃がUボート戦に与えた影響とはどういうものだったのでしょうか。
ドイツ海軍は、地中海、大西洋、北極圏で奮戦しますが、その最後の戦いの様子はどのようなものだったのでしょうか。ヒトラーによりレーダー海軍総司令官は解任され、その座をデーニッツに譲ります。
そのデーニッツがヒトラーの後継者になるとは誰が予想したでしょうか。「ヒトラーの海軍」と大西洋の戦いの終わりを見てゆきます。
▼フランスの降伏と英本土上陸作戦
1940年6月、フランスが降伏するとドイツは大西洋岸に基地を持つことになった。ヒトラーはソ連打倒に着手するため、大陸を封鎖しようとするイギリスとの決着を急いで和平を呼びかけたが、チャーチル率いる英国が屈服しなかったため、英本土上陸作戦(「アシカ作戦」)の準備を各軍に命じた。
レーダーはフランス占領という好機をとらえて地中海の制海権を握り、ジブラルタル、マルタ、スエズの交通線を遮断すればイギリスを追いつめられると考えたが、ヒトラーの認めるところとならなかった。ちなみに、この地中海への展開構想はデーニッツからも戦力の分散を招くとして反対される。デーニッツは、海軍の戦果はUボートによるものでレーダーの重視する主力艦は役に立っておらず、Uボートを他作戦への支援などへ「転用」せず大西洋の通商破壊戦に専念させるべきだとしてレーダーを批判し、両者は対立を深めてゆく。
ヒトラーの上陸作戦は、ドーバー海峡の制空権を握った上で、機雷堰で作った回廊に沿って陸軍の大部隊を送り込むというものだった。このため、イギリス本土への揚陸戦用の艦艇を保有していなかったドイツ海軍ではUボートや艦艇の建造を中止して、かき集めた商船や艀などを上陸作戦用に改造する作業を急ピッチで行なった。
しかし結局、上陸作戦は発動されなかった。ドイツ空軍が3ヵ月あまりにわたった英本土航空戦(「バトル・オブ・ブリテン」)に勝利できず、制空権を確保できなかったからだ。この理由としては、洋上の制空戦における双方の空軍機の優劣やパイロットの救難態勢、イギリスの革新的な本土防空態勢、独機のロンドン誤爆で両国の対都市無差別爆撃が始まったこと、英空軍への外国人パイロットの参戦、そしてなにより英国民の不屈の抗戦意志などが挙げられる。
いずれにせよアシカ作戦の準備は壮大な無駄となったが、もし作戦が発動されていたら、英独海軍の圧倒的な戦力差を考えると、ドーバー海峡においてノルウェー作戦を上回る大被害が生じてドイツ海軍は壊滅の危機に瀕しただろう。10月、ヒトラーは正式に上陸作戦の延期を命じたが、彼の関心はこのときすでにソ連に向けられていた。イギリスは持ちこたえ、危機を脱したのだ。
▼不利になるUボート戦
バトル・オブ・ブリテン(1940年7~10月)の終結にともない多数の航空機が船団護衛の強化に回されるようになり、Uボートの行動が制限され始める。1941年以降は、それまでのアスディック(音波探知機、ソーナー)に加えて無線方位測定装置、レーダーなどが登場し、さらにエニグマ暗号が解読されたことなどからドイツのUボート戦は不利になっていった。
日本が真珠湾を奇襲してアメリカが参戦(1941年12月)すると、デーニッツはアメリカの商船が無防備で米海軍も対潜戦に不慣れなうちに打撃を与える好機と判断し、はやくも翌年1月からアメリカ東海岸からメキシコ湾、カリブ海までUボートを展開させて大戦果を上げた(太鼓連打作戦)。デーニッツは、最小のコスト(Uボートの喪失)で最大の成果(船舶撃沈トン数)を上げられそうな海域を選んで行動させるという方針をとっていたため、1942年になると船団護衛態勢が強化されたアメリカ海域から相対的に護衛態勢の緩い大西洋にUボートを戻した。
その頃、北アフリカ戦線のロンメル率いる独アフリカ軍団は、マルタ島を基地とする英潜水艦などによりその補給線を攻撃され、一時は独船団の70%を沈められるほどだった。ヒトラーは、この危機を打開するためにデーニッツの反対を押し切り、またもやUボートを地中海へ「転用」して英海軍に大打撃を与えるが、Uボートのほとんども撃沈されてしまう(「ジブラルタルのネズミ捕り」)。これにより大西洋の通商破壊戦は一時下火となり、イギリスの生命線は息を吹き返すことになった。
▼地中海の戦い
フランスが劣勢となり、降伏が迫ったのに乗じたイタリアは連合国に対して宣戦布告し(1940年6月)、地中海の要衝マルタ島を空爆するとともに、連合国の海上交通路を脅かすようになる。
その頃の地中海の海軍勢力は、水上艦艇については英仏海軍と伊海軍がおおむねパリティで、潜水艦については伊海軍が凌駕しており、その一部をデーニッツの指揮下に入れた時期もある。また、英海軍はおおむね1~3隻の空母を地中海に展開していたが、前述のとおり欠陥のあった英空母戦力でも、地中海においては伊海軍が海上における航空兵力をほとんど持たず、独空軍も独ソ戦が始まると主力をソ連戦線に移動させたため、相対的に優勢を保って積極的な作戦を展開できた。
特に、地中海中央に位置しイタリアから至近距離にあるマルタ島は、北アフリカ戦線のロンメル軍団への補給線を管制できる位置にあるため、同島への航空機の輸送や船団護衛にあたっては英空母が活躍した。
英海軍に補給線を攻撃されたドイツは、前述のとおり地中海へ「転用」したUボートにより英空母2隻を撃沈している。海上補給路の攻防は激しく、イギリスはエジプトへの派遣軍に対して地中海経由での戦力増強ができなかったため、アフリカ南端を回り紅海側から補給支援を行ったこともあるほどだ。
イギリスは多大の犠牲を払ってマルタ島を守り抜き、そのおかげで北アフリカのロンメルの進撃を食い止めることができ、ジブラルタルからスエズ運河までの海上交通路を守ることができた。やがて連合軍は反攻に転じ、北アフリカ戦線でのイタリア軍も敗北、ムッソリーニは解任されイタリアは降伏(1943年9月)、地中海の戦いは終わった。
▼大西洋での通商破壊戦
「アシカ作戦」が中止され、ドイツ海軍は再び通商破壊戦に専念しようとするが、もともと少なかった主力艦がノルウェー攻略でさらに失われてしまったので、ドイツ海軍は行動可能な重巡などを単艦で行動させることにした。
イギリスは多数の船団を広大な海域で運航させた結果、護衛兵力が分散してしまい、配備された護衛兵力の小さい船団ではドイツの通商破壊艦が大きな戦果を上げ、そのような場合、他の船団の運航も一時中断せざるを得ない状況に陥った。また、神出鬼没のドイツ艦を捕捉することは困難であり、圧倒的な兵力をもつイギリス海軍をしても大いに振り回され、ドイツ海軍が意図した通商破壊戦の間接的な効果が発揮された。
一方で、少数の主力艦しか保有しないドイツ海軍が圧倒的に優勢な英海軍に圧力をかけるには、兵力を極力温存しつつ出撃を繰り返さなければならなかったので、艦の喪失はもちろん、被害を受けることも恐れる傾向が強く、護衛兵力が強力な船団に対しては戦闘を避けるという方針で臨んだ。このためドイツ艦艇は、腰の引けたような行動を繰り返すこととなり、海軍に対するヒトラーの不信感を募らせることになった。
1941年に入るとドイツ海軍は前年に占領したノルウェーとフランスのブレスト港をイギリス攻撃の基地として活用するようになり、水上艦による通商破壊戦は成果を上げ、同時期のUボートの戦果を若干上回るほどになった。
対する英軍はブレスト港に空襲を繰り返し、港外には機雷を敷設してドイツ艦隊の行動を妨害した。出撃したドイツ艦には執拗な追跡と攻撃を行い、ドイツ側の被害は増え戦果は上がらなくなった。また、ドイツ海軍の暗号を解読した英海軍は、洋上に秘密裡に配置されたドイツ通商破壊艦用の補給船を次々に撃沈したため、水上艦による通商破壊戦は困難となった。第一次大戦の戦訓から、フランスの港湾を利用して英国の海上交通路を脅かすというドイツ海軍の作戦は、航空機の発達により成り立ちにくいものとなったのだ。
一方のUボート戦も苦戦を強いられるようになってくる。大西洋には連合国の陸上哨戒機が到達できない海域があり、Uボートが活動しやすい危険な海域(「ブラック・ピット」)となっていた。この対策として、1943年頃からは船団に小型の護衛空母をつけて艦載機で海域を哨戒できるようになり「プラック・ピット」が消滅するとともに、Uボート狩りのための新兵器の登場や「ハンター・キラー戦術」も確立したことから、Uボート戦は終焉に向かうことになる。
連合国をあげて取り組んだ対潜戦能力の向上が、Uボートの性能向上と狼群戦術を上回った結果であるが、ドイツが早期にUボートを増勢しなかったこと、また常に不足していたUボートがさらに他の作戦に「転用」されることが多く通商破壊戦に専念できなかったことも大きな失敗だった。
▼「チャンネル・ダッシュ」 大西洋の戦いの終焉
ヒトラーは、勢いを増した連合軍がノルウェーを奪還し、バルト海経由でドイツの背後から襲いかかってくることを恐れて、戦果の上がらない通商破壊艦をブレストからドイツに回航させノルウェーの守りを固めようとする。
レーダーは、英仏海峡の回航はリスクも大きいので通商破壊戦の続行を訴えたが、ヒトラーの命令でドイツ艦隊のブレストからの脱出、回航が行われた。この撤退作戦は、英仏海峡を白昼突破するという大胆な行動で成功するが(「チャンネル・ダッシュ」、1942年2月)、またしても機雷によって戦艦2隻が損傷してしまった。この作戦で脱出を許した英海軍が面目を失ったことはいうまでもないが、基本的にドイツ艦隊の撤退作戦であり、大西洋の戦いは実質的に英海軍の勝利で幕を下ろすことになった。
▼独ソ戦の開始と北極圏の戦い
1941年6月、ヒトラーはスウェーデンなどからの資源確保のためのレニングラード(クロンシュタット軍港)の占領や「生存圏」拡大のためのウクライナ攻略を戦略目標として独ソ戦を開始した(バルバロッサ作戦)。ドイツ軍は初期段階でソ連軍を撃破できず、戦略目標の優先順位も不明確のまま冬を迎えて敗退し、戦争の決定的な転機となった作戦である。
イギリスはソ連を支援するため援ソ船団を北極圏のムルマンスクなどに送り続けた。ドイツ海軍は、ブレストから回航した戦艦などを含む主力艦で船団を攻撃し、空軍機やUボートとの連携で大きな戦果を上げ、イギリスは一時船団の運航を中断するほどだった。しかし、水上艦艇だけの船団攻撃(虹作戦、1942年12月)において、ヒトラーの「危険は冒すな」との命令で好機を活かせず撤退したことから作戦は失敗に終わってしまう(バレンツ海海戦)。
▼レーダーの解任と「ティルピッツ」による待機艦隊戦略
自らの命令で失敗したバレンツ海海戦であったにもかかわらず、海軍不信と怒りが頂点に達したヒトラーは、ついに水上艦艇部隊の解散を命じてしまう。役に立たない主力艦はスクラップとし、その砲は沿岸砲台として利用し、人員や生産力を水上艦より効率的なUボートなどに回すというのだ。この後、艦隊の解散に反対するレーダーは海軍トップとして10年あまり仕えたヒトラーから解任され、海軍総司令官をデーニッツに交代させられる。
デーニッツはかねてから、通商破壊戦にはUボートが適していると主張してきたが、艦隊の解散は英海軍の行動の自由を増し対日戦にも悪影響を及ぼすこと、また荒れる北極圏での船団攻撃には水上艦が必要であるとしてヒトラーを説得し、結局、解散命令は撤回され水上艦は「練習艦」として存続を許された。
こうして、ドイツの水上艦艇部隊は辛うじて存続したが、アメリカが参戦し英海軍も新型戦艦を就役させたため、ドイツ海軍と連合国海軍の戦力差は大きくなる一方だった。
ドイツの燃料事情は悪化の一途を辿っていたため、1943年12月の船団攻撃で巡洋戦艦を撃沈されたのを最後に戦略を見直し、戦艦「ティルピッツ」をノルウェーのフィヨルドの奥に待機させ、援ソ船団をけん制するという文字どおりの待機艦隊(現存艦隊)戦略へと移行した。
▼最後の戦い
「ティルピッツ」は、英海軍にとって最後の大きな脅威となり、このため新型戦艦を本国海域にとどめることになり、対日戦への参加を遅らせる効果も生んだ。英海軍は特殊潜航艇も使ってフィヨルドの厳重な守りを突破し、艦載機や重爆撃機の空襲を繰り返し「ティルピッツ」の撃沈に成功した。待機艦隊戦略も、その艦艇が停泊、待機しているだけであれば発達した航空兵力の格好の標的となることは当然である。
1944年になるとドイツ本土に迫るソ連軍への防衛戦に重巡が投入され、沿岸地帯ではその巨砲が威力を発揮した。同年末以降、ドイツ艦隊は、包囲、孤立した陸軍部隊や民間人の救出作戦をバルト海で展開する。戦前の粛清で弱体化していたソ連軍の水上艦艇からの妨害はほとんどなかったものの、潜水艦の攻撃では大きな被害が出た。同年6月の連合軍のノルマンディー上陸作戦では、ドイツ海軍はわずかに水雷艇3隻が出撃し駆逐艦1隻を撃沈したのみであった。
1945年4月に入ると、連合軍空軍によりバルト海に展開した主力艦は次々と撃沈されていった。4月30日、ドイツ海軍総司令官デーニッツが突然ヒトラーの後継者に指名され総統に就任、デーニッツは5月2日、連合軍に降伏を申し出た。「ヒトラーの海軍」の終焉である。
ドイツ海軍は最期には自沈する計画を立てていたが、その前に東部戦線からの人員の救出作戦に全力を挙げ、5月9日の終戦までに兵員と避難民約211万人もの救出に成功したのだった。
【主要参考資料】 谷光太郎著『ドイツ海軍興亡史』(芙蓉書房出版、2020年)、『図説ドイツ海軍全史』(学習研究社、2006年)、『歴史群像大西洋戦争』(学習研究社、1998年)
※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。