シーパワー500年史 36

 日本が泥沼化した日中戦争のなか、アメリカとの国力を超えた必死の軍備拡張競争を行っている頃、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発します。14年にわたってドイツ海軍のトップの座にあり、ヒトラーに10年間仕えることになるレーダー海軍総司令官は、独裁者のもとでドイツ海軍の舵取りを行います。ドイツ海軍はどのように戦争に備え、戦ったのでしょうか。

▼第二次世界大戦勃発、幻に終わった「Z」計画

 ヒトラーは、レーダー海軍総司令官に対し、1944年までは開戦しない前提で、対英戦に備えた海軍軍備の拡張を指示する(1938年5月)。

 すでにドイツはヴェルサイユ条約を破棄して再軍備宣言(1935年3月)をし、英独海軍協定の締結(同年6月)により戦艦6隻、空母4隻などの増強に踏み出していたが、これは第一の仮想敵である仏海軍とのパリティを実現するものだったので、改めて対英戦を前提とした軍備計画の検討を始めなければならなかった。

 検討においては、ヴィルヘルム二世のもとで海軍を増強し始めたときと同じように、通商破壊戦を主任務として高速巡洋艦を主力とする考え方と、決戦のための強力な戦艦を主力とすべきとする考え方が提示された。結局、ヒトラーは対英戦をまだ先のことと考えていたため、後者の戦艦等を中心とした大艦隊を整備する「Z」計画を選択し、英独海軍協定を破棄した(1939年4月)。

 「Z」計画は、戦艦6隻、装甲艦(ポケット戦艦)12隻を主力として軽巡24隻、偵察巡洋艦36隻などを整備しようとする大規模なもので、英艦隊に決戦を挑める艦隊でありながら長期間の通商破壊戦を展開できる行動力も持たせるというものだった。レーダーは、この大計画に対してヒトラーの後継者で空軍総司令官であったゲーリングからの支援を得る見返りに、海軍航空の建設計画を正式に放棄した。この決定により、ドイツは空母を完成させることができず、Uボート戦を支援するはずの長距離哨戒機部隊も持てないことになる。

 「Z」計画の採用を決定して間もなく、ヒトラーはポーランドへの侵攻を開始し第二次大戦が始まった(1939年9月)。レーダーが驚愕したのはもちろんだが、大戦の勃発を受けて建造に時間のかかる大型艦計画は取りやめられ、Uボートなどを中心とするものへと切り替えられてゆき、「Z」計画は幻に終わったのである。

 ちなみに、「Z」計画が続行されたとしても、鋼材以外は輸入に頼っていた建造資材の決済資金の不足、20年に及んだヴェルサイユ条約の制限下で落ちてしまった造船所の建造能力などを考え合わせると実現は困難だったと考えられている。すでに計画開始前の1936年頃から建造能力不足による艦艇建造の遅れで予算が消化できない状況が起きており、相互に調整されていない各軍の調達計画が競合し軍需産業の生産は混乱し、国庫も底を尽きかけていたのが現実だったのだ。

▼ヒトラーの国家戦略とレーダーの海軍戦略

 ドイツは、東にソ連、西にフランスという陸軍大国に挟まれ、その国境線には天然の要害というものがないため、第一次大戦前には東西からの挟み撃ちに備えた「シェリーフェン・プラン」があった。これは、西部戦線にほぼ全兵力を集中させて一気にフランスを陥落させた後、鉄道を活用して東部戦線へ迅速に兵力を移動させてソ連にあたるというものだった。

 海では、ドイツは北海とバルト海に面している。大西洋に出るには北海を北上して英海軍の根拠地であるスカパフローの近くを通ってイギリスの北端を回るか、オランダ沖を西進してドーバー海峡を抜けなければならない。また、北海をイギリスに封鎖されたら海上貿易は内海であるバルト海経由のみになってしまう。このようにドイツが置かれている地理的条件は陸海とも極めて不利である。

 ヒトラーの最終目的は欧州大陸での覇権を握ることであり、英米と対峙するための「生存圏」を確保するというものだった。そのためには当面イギリスとの戦いは避け、フランスとソ連を屈服させた後、対アングロサクソン戦争に備えるというのが基本戦略だ。

 対するレーダーの海軍戦略は、最も危険な敵はあくまでもイギリスであり、通商破壊や海上封鎖で締め上げて屈服させるというものだ。そのため、敵が船団護衛などの対策を確立する前に無制限潜水艦戦を開始して、可能な限りの打撃を与えるべきだとヒトラーに訴えた。

 イギリスの海軍戦略の柱は、自国及び連合国との海上交通路を守ることであり、アメリカとの大西洋ルート、アフリカ南端を回るインド洋ルート、ジブラルタルからスエズ運河に至る地中海ルート、ソ連を支援する北極圏ルートなどが戦略的に重要だった。対英戦を避けたいヒトラーは逡巡したが、「U-47」がスカパフロー奇襲作戦で英戦艦を撃沈するという大金星を上げると(1939年10月)、一転、無制限潜水艦戦の開始を認めた。

 また、ドイツはソ連からの石油などの資源輸入なしには戦えず、Uボートの訓練海域であるバルト海の安全も維持しなければならないため、まずイギリスを破りソ連はそのあとになるというのがレーダーの基本戦略であったが、ヒトラーの戦略とは明らかに相容れないものだった。

 さらに、レーダーはフランスを占領(1940年6月)して大西洋岸に基地を確保した好機を活かして、北アフリカを占領して地中海に進出してイギリスのインド、アジア方面との海上交通路を遮断することや、アイルランドを占領してノルウェー、アイスランド、アイルランドからイギリスを包囲することも海軍戦略として構想していた。

▼通商破壊戦の開始

 ドイツが二度目の大戦に突入した時、「Z」計画は着手した途端に中止されたので、海軍の主力艦は、わずかに巡洋戦艦2隻と装甲艦(ポケット戦艦)3隻で、空母は1隻もなかった。このため、主力艦の戦力で英海軍にはるかに劣るドイツ海軍は、艦隊決戦を回避して通商破壊戦を基本戦略とするしかなかった。

 当初、ドイツ海軍は通商破壊戦を少数の水上艦で開始した。英国の海上交通路を直接脅かすほどの戦力はなかったため、通商破壊艦を大洋で行動させ、英海軍をかく乱し兵力が分散した隙をついて商船を襲撃するという作戦をとるのが精一杯だった。

 ドイツ海軍は2隻の装甲艦を大西洋に展開させて通商破壊戦を開始した。このうち「ドイッチュラント」は、商船2隻を撃沈しただけで本国に帰投させられたうえ「リュッツオゥ」と改名された。ヒトラーが国名を冠した艦の喪失を恐れて命じたのだ。もう1隻は南米方面で9隻の商船を撃沈したところで英艦隊に捕捉され、交戦の末に中立港モンテビデオに入港して自沈した(ラプラタ沖海戦)。代わりに出撃した巡洋戦艦2隻は、捕捉しようとする英仏艦隊を翻弄することには成功したが、戦果は英仮装巡洋艦1隻にとどまり、少数の水上艦艇による通商破壊戦の限界を示した。

 このような通商破壊戦にあてる水上艦艇の不足を補うためにドイツ海軍が力を入れたのが仮装巡洋艦であり、比較的高速の大型商船を改造して中立国商船などに偽装し、15センチ砲などを数門備え、なかには魚雷や水上偵察機を搭載したものまであった。これらの仮装巡洋艦は、補給船の支援を受けつつ大西洋からインド洋、一部は太平洋にまで展開して多数の商船を拿捕、撃沈したが、英軍がドイツ軍の暗号を解読して警戒を強化し、アメリカが参戦すると活動は抑えられていった。

▼効果的だった機雷戦

 一般的な機雷の用法は防勢的なものだが、ドイツは攻勢的に用いた(攻勢機雷戦)。ドイツ海軍は、開戦直後から駆逐艦や航空機を使ってテームズ河口などの英本土沿岸一帯に新たに開発した磁気機雷を敷設し、半年あまりで67隻25万トンもの英輸送船を撃沈し、戦艦「ネルソン」をも損傷させるという予想外の戦果を上げた。

 しかし英海軍が磁気機雷への対抗策をとるようになると新兵器としての効果は失われ、その後は英独海軍双方がお互いに機雷敷設と掃海を繰り返すようになった。また、磁気機雷に続いて音響機雷、水圧機雷などが登場し、起爆装置にタイマーやカウンターをつけて掃海を困難にするなど、機雷の複雑化、高度化が進んだ結果、終戦まで続いた機雷戦は熾烈なものとなった。

▼ノルウェー攻略

 1940年3月、ヒトラーはノルウェー攻略を決定する。すでに開戦直後にレーダーからノルウェー沿岸占領を進言されており、イギリスによるノルウェー上陸占領も迫っていると判断されていた。ここにUボート基地を造れば、スウェーデンからの鉄鉱石を輸送する海上交通路などの安全も増す。第一次大戦で「大海艦隊」をヴィルヘルムスハーフェンで封鎖されたドイツ海軍にとって、大西洋に面したフランスやノルウェーの港を確保することは戦略上大きな意味があったし、Uボートの訓練のためのバルト海の安全確保も図れると考えられた。

 攻略にあたっては、ドイツ海軍は揚陸艦を保有していなかったため、空挺部隊を投入すると共に駆逐艦で山岳兵部隊などを輸送してオスロなどの沿岸主要都市へ奇襲上陸を行った。上陸作戦は成功したもののドイツ海軍の損害は大きく、オスロ攻略戦などでは要塞からの砲撃で主力艦が撃沈され、英海軍が反撃に出ると、ドイツ海軍の駆逐艦の半数が失われ大きな代償を払うことになった(ナルヴィックの戦い)。

 この戦いで英海軍は空母3隻を逐次投入したが、艦上戦闘機の戦力不足により、圧倒的な艦艇兵力を持ちながらもドイツの急降下爆撃機の勢力圏内では行動できず、はるかに劣勢のドイツ艦艇部隊の作戦行動を許してしまった。開戦時の英空母は7隻で、数こそ日米を上回っていたが、その艦載機は複葉機も含まれているなど時代遅れで海軍航空戦力には大きな欠陥があったが、この原因が戦間期の政策にあったことは既に述べたとおりである。

▼Uボートの活躍

 第一次大戦末期、連合国側が護衛船団方式をとり単艦のUボートによる攻撃による戦果が上がらなくなると複数艦による協同攻撃が試みられたが、戦術として確立しないまま敗戦となった。Uボート艦長として捕虜となったデーニッツは、帰国後、集団攻撃戦術の開発に取り組み「狼群作戦」として完成させる。

 第二次大戦開戦時、大西洋で作戦可能なUボートはわずか22隻であり、その1/3を展開させたとしても7隻しか出撃させられないことになる。潜水艦隊の司令官となったデーニッツは、Uボート300隻態勢を要求するものの、この時点では空軍第一の立場をとるヒトラーは認めなかった。結局、その後の増勢で200隻余りに達することになるが、それは1943年のことである。

 1940年に入るとイギリスは護衛船団を運航し始めたため、狼群作戦のチャンスが到来した。しかし、Uボートはノルウェー攻略作戦(1940年3月)に「転用」されてしまう。

 大西洋で本格的に狼群作戦を展開できたのは、ノルウェー作戦終了後からであるが、占領したフランスの基地から、無線傍受で集めた船団の情報を活用して出撃を繰り返し、1940年6月から10月にかけて280隻もの船舶を撃沈し、Uボート戦の第一の最盛期となった。

【主要参考資料】 谷光太郎著『ドイツ海軍興亡史』(芙蓉書房出版、2020年)、『図説ドイツ海軍全史』(学習研究社、2006年)、『歴史群像大西洋戦争』(学習研究社、1998年)

※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。