シーパワー500年史 35

 いよいよ太平洋戦争です。陸海軍は、戦争突入前の最後の国防方針を立てますが、それは非現実的なものでした。無条約時代に入り、日本はアメリカとの国力を超えた軍備拡張競争を行ないます。作戦は時代遅れの漸減邀撃作戦一本槍です。日本は追い詰められた状況のなかで無謀な開戦を決意したのでした。

▼現実離れした帝国国防方針 第三次改訂

 日本の国防政策が第二次改定の時から混迷しはじめていたことは既に述べた。日本は1932年に満州国を承認したが、この頃にはソ連が極東の軍事力を急速に増強しつつあったので、陸軍は北方の脅威を除いた後に南方に進出する「まず北進、そのあと南進」を海軍に提案してきた。これに対して海軍はあくまで「北守南進」を前提とした南進策に固執した。無条約時代に入った海軍としては、対米軍備を早急に完成するための南進策という面もあったため、陸海軍の主張は平行線をたどった。

 

 国防方針の改定に当たって、満州事変の結果として想定敵国が増えたことに加え、対一国戦と対数国戦、短期決戦と長期持久戦の問題がまたも焦点となった。陸海軍は基本的にそれまでの主張を繰り返し対立が続いたため、陸軍側の主導者であった石原莞爾参謀本部第2課長(作戦)は海軍との調整をあきらめて以後は部下に任せ、要求した陸軍の所要兵力が認められることを条件に国防方針の第三次改定が成立した(1936年)。日本はこの第三次改定で太平洋戦争に突入することになる。

 第三次改定の「基本方針」は、短期決戦を基本として開戦初動の兵力を大きくすることを重視し、アメリカ、ソ連、中国、イギリスを想定敵国として「所要兵力」へのつなぎとなっている。長期戦への覚悟と準備には一言触れているのみである。「用兵綱領」は、短期決戦思想を示して、それぞれの想定敵国と単独に戦う場合の作戦目的と作戦要領の骨子を示している。この改定は、主敵を米ソ同等として、所要兵力に陸軍の要求を取り入れた以外は、対一国戦、短期決戦という海軍側の考え方が色濃く反映された現実離れしたものだった。

 国防方針の改定と並行して、「国策大綱」が陸海軍、外務省、大蔵省の合意で定められた。このように政軍間の合意ができあがったのは初めてで画期的なことであったが、問題は内容にあった。

 国策の基準は南進に重点があるとも南北併進ともとれるような玉虫色であったが、外交方針は北進に重点がおかれ、整合されていなかった。このことは陸海軍の軍備についても同様で、陸軍の対ソ軍備と海軍の対米軍備をそれぞれ併記したに過ぎないものだった。また国防方針は、複数国との持久戦争となる時代にあって、一国に対する短期決戦の構想が示されただけだった。このことは、その後の対外政策の展開のなかで致命的な欠陥となってあらわれることになった。

▼海軍の軍備構想 

 海軍は、西太平洋において今後10年間は対米比率7~8割を保持できる軍備として、戦艦12隻、空母10隻、巡洋艦28隻など約130万トンの艦艇と、基地航空65コ隊(戦時1,402機)などの兵力を保有するとした。いうまでもなく、漸減邀撃作戦を成功させるための戦力量だった。しかし、この対米比率の算定は、日本は軍縮条約に拘束されずに増強する一方で、アメリカは条約下の整備ペースを維持するという都合の良い前提でなされており、重大な誤算を含んでいた。

 この所要兵力を整備するための「第三次補充計画(③計画)」は1937年度に着手したが、その前の②計画は造船能力の限界と夕鶴事件や第四艦隊事件に伴う多数の大改装工事が立て込んでいたため、すでに1~3年遅延していた。

 いずれにせよ、③計画の目玉は大艦巨砲の象徴ともいえる超ド級戦艦「大和」「武蔵」の建造であり、アメリカにパナマ運河の拡幅または太平洋専属の大型戦艦の建造を強要することを狙ったものだった。これは隻数で太刀打ちできない日本が英米の最新戦艦を圧倒するために一点豪華主義で建造した艦隊決戦派の新兵器だったが、結果的に「無用の長物」となったのは戦史が証明することになる。

▼アメリカに引き離された軍備拡張競争

 日中戦争が拡大するなか、アメリカではローズヴェルト大統領がファシズムに対抗できる軍備の必要性を訴えて「新ヴィンソン海軍拡張計画(第二次ヴィンソン案)」に署名し(1938年)、大々的な海軍拡張に乗り出した。この計画が予定の1941年に完成すると戦艦24隻、空母8隻を含む190万トン、航空機3,000機の大海軍に膨れ上がり、③計画下の日本海軍の対米比率は64%まで低下することが見込まれた。

 年々緊張感が増し、恐怖の均衡に駆り立てられた日本海軍は「昭和14年度海軍軍備充実計画(④計画)」を策定し、1931年度スタートの①計画以来最大の軍拡計画がスタートすることになった。この計画は「大和」型戦艦2隻を含む80隻32万トンの艦艇を1944年度までに、航空機1,511機を1943年度までにそれぞれ整備し、対米比率を8割に戻すはずのものだった。

 しかし、④計画は非力な国力に加えて日中戦争の泥沼化で無理に無理を重ねた計画であり、例えば航空機の生産を達成するには、その前の③計画の「大和」「武蔵」の建造を中止しなければ成り立たないものだった。

 アメリカでは④計画に対抗して「第三次ヴィンソン案」が承認され(1940年)、その直後には壮大な「スターク計画」が可決された。これは、当時の日本の年間GNPを1割近く上回る100億ドルを投入して1946年までに艦艇を7割増強し、航空機1万5,000機を整備するという途方もないもので、太平洋で日本と、大西洋で独伊との二正面作戦が可能になるまさに「両洋艦隊案」であった。この計画が完成すれば、④計画が完成した1944年の日本海軍と1946年のアメリカ海軍の比率は43%にまで低下することになる計算だった。

 日本海軍はこの後、⑤計画を策定しようとするが、すでに軍備拡張競争の勝負は明らかで、開戦を迎えるのは⑤計画着手前の計画段階のことだった。

▼時代遅れの漸減邀撃構想と「新軍備計画論」

 海軍が必死に取り組んだ軍備増強は、30年前に一路ウラジオストックを目指すバルチック艦隊を対馬海峡で邀撃撃滅した日本海海戦をそのまま対米戦に引き写したものだった。これは広大な太平洋を隔てて対峙する日米艦隊とは条件が全く違う上、主力艦中心の艦隊決戦は起こりにくくなっているという海軍戦略の変化を見落とした時代遅れのものだった。

この原因のひとつとして、海戦要務令が時代遅れで艦隊戦術をミスリードしたとの指摘がある。海戦要務令は海軍最高の戦術規範として天皇の允裁を仰いで公布され、海軍参謀の虎の巻であった。その初版は米国留学から帰国した秋山真之大尉の「海戦に関する綱領」を取り込んで1901年に公布され、その後、八八艦隊の整備、日英海軍軍事協約、ジュットランド海戦の教訓、航空機や潜水艦の発達などを受けて太平洋戦争開戦までに4回改定された。

 1920年代頃までは、海戦要務令の説くところが最高の戦法であったと思われるし、戦術の固定化が戒められてもいたが、時代が下り、海軍のドクトリンとして画一的に教育されるなかで硬直化が進んだ。また、要務令の改定は海軍戦術の進歩に後れがちで、艦隊決戦に大きな比重を置いていたため「艦隊決戦要務令」といわれていたほどだった。

 1930年頃には航空戦力が進歩してきたが、海戦要務令(航空戦の部)の草案が作成されたのは1940年のことであり、結局、太平洋戦争に間に合わなかった。この草案では全体の半分が航空決戦に充てられており、奇襲索敵の重視、空母の分散配備、敵空母の攻撃は爆撃によるのを例とする等としていたが、ミッドウェー海戦(1942年)ではことごとくこの逆を行なって歴史的な大敗を喫したのだった。

結果的に海戦要務令は日本海軍の戦略、戦術思想を画一的に縛り、より重大な過ちはこれに基づいて軍備をしたことであった。漸減邀撃作戦での艦隊決戦を唯一の目標としていたから、艦隊はそれを目標として建造されたのだ。

 邀撃構想の問題については、当時から航空関係者を中心に個別に指摘されていたが、航空本部長であった井上成美はより包括的に「新軍備計画論」としてまとめ、海相に提出した(1941年)。その要点は次のとおりである。

・航空機の発達により主力艦隊同士の決戦は絶対に起こらない。

・十分な航空兵力があれば戦艦でも皆沈めることができる。

・空母は脆弱だが、陸上航空基地は不沈なので基地航空兵力を中心にすべきである。

・対米戦は太平洋の島々の争奪戦が主作戦になることを断言する。

・基地の要塞化を急ぎ、主力艦を犠牲にしてでも基地航空兵力を整備充実すべきである。

・第2に海上交通の確保のため海上護衛兵力を、第3に潜水艦を充実すべきである。

 この意見は、太平洋戦争の実際の推移を予言したともいえる卓見であったが、開戦を直前に控え、すでに手遅れというしかなかった。しかも、島の基地航空兵力が「不沈」だとしても機動力のある敵の固定目標となりうる。この欠点を補うために一連の島々に隙間なく「海のマジノ線」を作ったとしても広大な海域では容易に迂回され、陸のマジノ線の運命を逃れることはできないだろう。

 そもそも当時の日本の貧弱な基地建設能力では井上が考えるような基地建設は不可能であり、第4艦隊司令長官となり南洋諸島防備にあたった彼自身が能力の不足に驚き、苦労した点でもあった。また、実際にも基地建設途中で米軍に奪われたガダルカナル島を奪回するために航空消耗戦に引きずり込まれ、日本は戦力を回復できずに国力の限界に達したのだ。

▼進化したレインボー計画

 対日戦争計画オレンジ・プランは、1938年まで改訂を繰り返したが、第二次大戦直前、連合国対枢軸国の枠組みを前提とした新しい戦争計画として一連のレインボー計画が承認された。このうち欧州戦線を優先し同盟国とともに対日戦を戦う計画が「レインボー No 5」であった。真珠湾攻撃の直後、この計画にもとづいて英米首脳間で合意したのがドイツ打倒を優先する連合国統合戦略計画「ABC-1」だった。

 真珠湾攻撃で戦艦部隊を失った米海軍の反攻は遅れ、フィリピンとグアムは放棄せざるを得なかった。米海軍はオーストラリアを反撃の根拠地と考え、ハワイ~サモア~オーストラリア連絡線の防衛に全力をあげる。その後のミッドウェー作戦で日本海軍は完敗し、引き続く大消耗戦の後、米軍が島伝いの渡洋反攻を始めると旧オレンジ・プランのシナリオどおりの展開となっていった。おそらく事前の想定と異なったのは、マッカーサーの南西太平洋作戦と日本の特攻作戦であっただろう。

 日本海軍が艦隊決戦一本槍だった一方で、アメリカはマハン流の艦隊決戦から脱皮して、広大な海域における海洋総力戦を航空兵力と海兵隊による水陸両用戦により海から陸を屈服させる戦い方に進化していたのだ。

▼無謀な開戦へ 

 開戦2ヶ月前の1941年9月、山本五十六連合艦隊司令長官は永野修身軍令部総長に対して、戦備の不備はあるものの初期の段階では「相当なる戦」ができると確信していること、しかし間違いなく長期戦となり戦争継続は次第に困難となり、国民生活は非常に窮乏するため、第三者としての立場からは、そのような成算の小さい戦争は為すべきではないとの意見を吐露している。

 しかし、日本海軍は開戦を決意した。その理由は、日米間で日を追って戦力の格差が広がってゆくことに加え、石油の枯渇に象徴される戦力の「立ち枯れ」の問題があったからだった。1941年7月、日本の強引な南部仏印進駐を契機に、アメリカは遂に日本の生命線ともいえる石油の全面禁輸を打ち出していたのだ。同年9月の石油備蓄量は940万バレルであり、2年足らずしかもたない計算だった。こうした追い詰められるような状況のなかで、結果的には山本五十六を含めて戦を急ぐことになった。

 これより先、開戦13ヶ月前の1940年11月、海軍大臣は遅れている戦備計画を促進するために出師(出兵)準備を発令している。しかし、この出師準備は、実際には開戦時においてさえ完成せず、特に弾薬、魚雷などの充足率は1~3割に過ぎなかった。苦し紛れに不足していた航空用魚雷を艦船用魚雷から転換しようとしたが、かえって魚雷の生産が数ヶ月間も全面的に停止してしまうなど戦時生産体制はあまりにもお粗末だった。

 また、開戦直前に算定した⑤計画完成のための所要資材のうち、鋼材は70%、アルミが50%、ニッケルは15%しか取得の見込みがなかった。このような海軍内の問題に加えて、陸軍と海軍との物資取得をめぐる「分捕り合戦」はまさに「無政府状態」(戦史叢書「海軍軍戦備」(1))というべき状況となっていた。

 1941年11月、天皇に拝謁した嶋田繁太郎海相は、「海軍大臣として、総ての準備は完了したと考えるか」と問われ、「人員、物資は十分に整備を終わり、大命の下るのをお待ちいたしております」と奉答したのだった。

 確かに戦争資材の不足とは裏腹に、猛訓練に明け暮れる連合艦隊の士気、練度は極めて高く、その戦力はかつてないほど高まっていた。しかし累次の戦備計画に示された460隻にのぼる艦艇は1944年度を待たねば完成せず、3,000機もの航空機は1943年度にならなければできあがらない「仕掛かりの戦力」であり「虚の戦力」であった。日本の国力で十分な戦備を整えるには余りに時間が足りなかったのだ。

【主要参考資料】 高木惣吉著『私観太平洋戦争』(光人社NF文庫、1998年)、森本忠夫著『魔性の歴史 マクロ経済学からみた太平洋戦争』(文藝春秋社、1985年)、戦史叢書「海軍軍戦備(1)昭和十六年十一月まで』(朝雲新聞社、1969年)、寺部甲子男「帝国海軍と海戦要務令(上・下)」(『波濤』6-5~7)、黒野耐著『日本を滅ぼした国防方針』(文春新書、2002年)、外山三郎著『日清・日露・大東亜海戦史』(原書房、1979年)

※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。