シーパワー500年史 33

 ワシントン体制の成立を受けて、日本の戦略がどのように変化したかを「帝国国防方針」を中心に見てゆきます。国防方針の第二次改定は何が問題だったのでしょうか。日本の国家戦略が迷走するなかで、加藤友三郎が死去し、海軍のなかでも当時のマスコミのいう「艦隊派」と「条約派」が対立し、ロンドン海軍軍縮条約に臨みます。

▼帝国国防方針 第二次改定 -国家戦略の喪失

 ワシントン体制の成立により、日英米の協調による新秩序が一応できあがった。日本がこの体制にあわせて抑制的な国家戦略をとる限りは米英は味方であり、仮想敵国はソ連、中国となるはずだった。

 しかし、ワシントン体制を受け入れて、幣原外相のもと「協調外交」を行った政府と異なり、軍はワシントン体制を一時的な妥協と認識し、日本の海外権益を維持拡大するそれまでの構想を放棄しようとしなかった。また、海軍内では日米必戦論の軍令部に対して日米戦一時回避論をとる海軍省が対立し、陸軍内でも方針の対立があった。国家戦略をめぐる政府と陸海軍それぞれの思想的違いは、国防方針のもとになる国家戦略についての合意を作り上げることを困難にしていた。

 こうしたなかで1923年、国防方針が陸軍参謀本部と海軍軍令部主導で改定された。この第二次改定では、仮想敵国の第一がアメリカに改められ、次いでソ連、中国とされた。また、構成も「国防の本義、国防の方針、情勢判断、想定敵国、結論」の5項目に変更されたが、なかでも重要な変更は、それまで第1項として明確な国家戦略が示されていたのが「国防の本義」という抽象的内容に変更されたことである。

 これは第二次改定の根本的問題だった。南守北進か北守南進かで陸海軍はまとまらず、中国本土なしでは資源が確保できず陸海軍ともに困る。結局、陸海軍が合意できる国家戦略は、東アジア全域に日本の権益を追求することになってしまう。しかしそうするとワシントン体制の考え方に反し、政府の考えとは大きくかけ離れてしまうので、国家戦略とこれを実現するための政戦略を省略してしまい、陸海軍間で合意できる作戦構想と所要兵力を実質的な中身とする国防方針に単純化、矮小化することになったのだ。

 その結果、「基本方針」には「国防の本義」として国際協調、戦争抑止が「建前」として記述され、いきなり「一朝有事に際しては、国家の全力を挙げて敵に当り、速に戦争の目的を達する」と短期決戦の考え方を示したあと、作戦構想の骨子が盛り込まれただけの内容となった。

 このことは、初度制定の時の「国家戦略-戦略-作戦用兵-所要兵力」という基本的な構成から逸脱して、政戦略を一致させるという国防方針の最も重要な役割のひとつが失われたことを意味した。

▼国防政策の迷走の始まり

 第二次改定の「用兵綱領」では漸減邀撃構想のほか、陸軍作戦について中国大陸での「対数国戦」に代わって「対ソ一国戦」「対中一国戦」が別々に示された。総力戦についても、「海外物資の輸入を確実にして国民生活の安全を保証し、以て長期の戦争に堪ふるの覚悟あるを要す」という一文が示されただけだった。

 このように第二次改定では、第一次改定で示された長期の総力戦を重視する考え方から、むしろ初度制定(1907年)の短期決戦思想に逆戻りした。これは長期戦であれば国力の差から対米戦は回避すべきとなるところを、短期決戦であれば開戦時の決戦兵力さえ準備できれば対米戦も可能という判断になりやすい危険性を秘めたものだった。

 また、日米戦は否応なしに米中ソ三国との戦争になる可能性を情勢判断の中で示していたが、陸軍がこの点を海軍に指摘すると、軍令部は日本の能力は対一国戦が限界なので、対数国戦にならないようにするのは政治家の責任として、対米一国戦を強引に構想の基本にしてしまった。これは海軍に限ったことではないが、現実の情勢判断や見積りを軽んじて国防方針を軍備充実の理屈づけとして用いる傾向が強まった。

 大正末期に行われた第二次改定は、昭和にかけて日本の国防政策が迷走を始める出発点となった。その原因は、国防方針に国家戦略を明確に示せなくなったこと、そして作戦構想が総力戦の時代に入ったにもかかわらず短期決戦という現実離れしたものになったことである。そもそも国力が乏しい日本が米英をはじめとする列強国群と戦うことは全く無理であり、国家戦略はワシントン体制の枠内で米英と対立しない範囲に抑制しなければならなかったのだ。

▼漸減邀撃構想

 アメリカを主敵にした第二次改定の用兵綱領では漸減邀撃構想を次のように示した。海軍は開戦後すみやかに東アジアにいるアメリカ艦隊を制圧するとともに、陸軍と協力してフィリピン、グアムのアメリカ海軍の根拠地を破壊する。その後、アメリカ海軍の主力部隊が東アジア方面に進出するにしたがって、その途上において勢力を漸減し、機をみて我が主力艦隊をもってこれを撃破する。

 この構想は日本海海戦での完勝という成功体験にもとづくもので、ミクロネシアに展開させた潜水艦による反復襲撃の後、小笠原とマリアナ諸島西方で巡洋艦や駆逐艦で夜戦を仕掛ける二段構えの邀撃作戦により敵主力を日本側の7割以下に漸減させた上で決戦を行うというものだった。

 その決戦海面は、日露戦争後は小笠原諸島付近と想定されていたが、第一次大戦後に南洋諸島を獲得したことで、そこから陸上攻撃機を発進させ米艦隊を攻撃する構想が生まれ、さらにトラック諸島を艦隊泊地として活用することでマリアナ諸島付近まで大きく東に移動した。

▼オレンジ・プランの進化

 対するアメリカの対日作戦構想であるオレンジ・プランは、フィリピンとグアムに対する日本の奇襲と攻勢、消耗戦とアメリカ軍の反攻、日本封鎖という3段階からなっていた。

 第2段階からは大西洋艦隊を回航して戦力を集中して渡洋反撃を開始し、第3段階でフィリピンとグアムを奪回し、ここを反攻拠点として日本本土に進攻、日本艦隊を撃破し制海権を獲得、海上封鎖して経済活動をマヒさせる「飢餓作戦」で降伏させるというもので、日本の漸減邀撃構想の裏返しのようなもので両者はかみ合っていた。

 しかし、第一次世界大戦、日本の南洋諸島の領有、パナマ運河の開通、艦船燃料の石炭から重油への転換、航空兵力の発達などを背景として対日作戦構想は変化する。

 まず、グアムの要塞化と十分な陸海軍兵力の前方配備が検討されたが、巨額の費用とワシントン海軍軍縮条約で西太平洋の現状維持が取り決められたことから採用されなかった。また、日本の先制攻撃に対して大西洋艦隊が来援次第、即時反攻するという「マニラ直行便」も検討されたが、航空兵力の発達で来援兵力の到着まで西太平洋を守り切れないことが明らかになりこれも放棄された。最終的に、海兵隊を活用してハワイから中部太平洋の島々を飛び石伝いにフィリピンへ反攻する構想が採用された。

 このミクロネシアの島々を水陸両用戦で奪って島伝いに日本本土に迫るという新しい戦い方を「海兵隊作戦計画712D」(1921年)として具体化させたのが米海兵隊のエリス少佐であり、以後海兵隊はひたすら両用戦能力の向上に努め、部隊編成、装備、ドクトリンなどを進化させていった。これは軍縮のたびに「不要兵力」として削減されがちだった海兵隊の存在理由を証明しようとするものでもあり、対日戦反攻の主兵力として重視されるようになると海兵隊は増員、拡充された。

 日本海軍はアメリカ海軍が島を前進基地として活用する可能性を認識していたが、小笠原やミクロネシアに艦隊のための港湾、支援施設や要塞の建設はほとんど行わなかった。これは委任統治や太平洋防備制限条項を遵守したというよりも、そもそも艦隊決戦一本槍で正面装備を重視する日本海軍の体質というべきで、開戦までのミクロネシア方面の部隊の増強や前進基地の建設も緩慢だった。

▼「導火線」となった海の「生命線」

 第一次大戦後に日本が委任統治を託された南洋群島をめぐる状況はどうだったのか。統治が始まってしばらくはおおむね平穏に経過したが、1920年にフィリピンとグアムの中間にあるヤップ島をめぐって事件が起きる。同島には海底電信線の中継所があったのだが、日本が占領直後に電信線を遮断したため、アメリカが同島を国際管理下に置くべきと主張したのだ。交渉の結果、日本の統治を認める代わりにアメリカは電信線を自由に使用できることになったが、互いを仮想敵としていた日米間の対立が垣間見えた事件であった。

 のちに満州事変をきっかけに日本が国際連盟からの脱退宣言(1932年)をすると平穏な南洋群島に転機が訪れる。連盟脱退に伴い南洋群島の委任統治の受任国としての資格を失うのではないかという声が上がり、海軍が「海の生命線」というキャンペーンを映画、書籍、歌謡曲などで展開したのだ。

 海軍省が発行した国民向けの啓蒙冊子「海の生命線」(1933年)は、「南洋群島が不幸敵に利用されたら、飛石伝いに敵は我本土に近寄るであろう。その時は西太平洋から帝国海軍の威力が失われるであろう。砦が陥り壕が埋められては本城は到底持ち耐えることが出来まい」と書いて、南洋諸島の重要性を訴えている。まさにエリス少佐の作戦構想を「予言」したかのようなキャンペーンであった。こうした海軍の心配をよそに、実際には日本の統治は強い反対もなくそのまま続けられ、太平洋戦争期には島民人口の倍の日本人移民が生活していた。

 日独伊三国同盟が締結されると(1940年)、南洋群島がドイツから日本に譲渡された。そもそもドイツは同群島に執着していなかったのだが、日本海軍が軍事基地化を欲しているという「価値」に気づくと、海軍の首脳陣から英米協調派が一掃されたタイミングで海軍を揺さぶり、日本をナチスドイツとの軍事同盟へ引き込むのに使ったのだ。海軍は、アメリカ艦隊を攻撃する航空機、艦艇の出撃基地とするために本格的な飛行場や港湾施設の建設を始めるが、島の要塞化は進まなかった。艦隊決戦一本槍の海軍は、キャンペーンでは「海の生命線」といいながら、太平洋の戦いが島の争奪戦になることに真剣に備えてはいなかったのだ。

 アメリカは、ハワイとフィリピンの連絡線を遮断する形で軍事基地化される日本の南洋群島を脅威に感じ、日本もまたアメリカの南洋群島に対する野心を疑い、日米の相互不信を不可避的なものにしていった。後にニミッツは日本が統治する南洋諸島を「太平洋に張られた巨大な熱帯グモの巣」と呼んだ。

 やがて太平洋戦争においてアメリカは、島伝いに日本本土に迫り爆撃機の発進基地を建設し、日本を海上封鎖し都市を焦土と化した。日本は南洋群島を領有したがために、結果的に本土から遙か遠くに防衛線を持つことになり、それがアメリカとの衝突を招き、「「生命線」は国家を丸焼けにする「導火線」になってしまった」(井上)のだ。

▼「艦隊派」と「条約派」

 ワシントン体制については加藤友三郎海相らの海軍主流(「条約派」と通称されたが派閥的な実態は希薄)が基本的に是認して英米との協調を重視していた反面、加藤寛治軍令部次長らに同調する勢力(通称「艦隊派」)はこの体制を否定し日米必戦の考えを抱いていたものの、加藤海相の力量で一応の統一を保っていた。しかし、加藤友三郎が病没し(1923年)、加藤寛治が軍令部長に就任すると(1929年)ロンドン軍縮条約を翌年に控えて海軍中央で両派の意見が対立する。

 「艦隊派」の対米作戦構想は、漸減邀撃構想そのものであり、対米6割に抑えられた主力艦の不足を補助艦の増強で補うことが絶対条件と考えていた。あわせてパナマ運河を通航できない大型戦艦を日本が保有することにより、アメリカに太平洋正面専属の大型戦艦の建造を強要して資源を消耗させ、この間に日本の国力を増進させると考えた。長期総力戦の時代に1、2回の艦隊決戦で決着をつけられると考え、アメリカの巨大な建艦能力を甘く見ていた点で大きな欠陥のある考え方だった。

 「条約派」の考え方の原点は、すでに述べた加藤友三郎の思想であったが、彼の後継者たちは次の軍備制限に備えた「軍備制限対策研究」報告書(1928年)を新たな守勢的海軍戦略として提示した。それは、極東海面において、英米のどちらか一国が使用できる海軍力に対抗でき、かつ少なくとも台湾海峡以北のアジア大陸との交通線を維持するのに必要な海軍軍備を整備するというもので、長期間の総力戦を強く意識したものだった。

 それまでの戦略は、戦時に東アジア海域を管制できる軍備の建設に努めるが、国力がこれを許さない場合でも、最小限、本土の防衛、本土と大陸との連絡保持、南シナ海の保安ができる軍備を保持するというもので、加藤海相が1917年に示して以来、継承されてきた。

 この報告書では、従来の構想から南シナ海の保安をはずし、管制海域を東アジア海域から極東海域に狭めていたのだ。管制海域を狭めたことは、日本の生存上必要な地域を総力戦に必要な資源を満州と中国本土に求めることを国策としたためであろう。このことは、海軍が満蒙を含む中国大陸への発展を国策として認め、海軍の役割をこれに寄与する日本周辺の防衛と大陸との交通線確保という守勢的任務に置いたことを意味し、西太平洋の制海権確保を目指す「艦隊派」とは明らかに異なる戦略であった。

 しかし、この「条約派」が起案した報告書の内容は、1929年のロンドン会議に対する訓令案では、「極東海域」が「西太平洋」に置き換わり、「台湾海峡以北のアジア大陸との交通線を維持する」という目標が削除されていた。軍令部の首脳が「艦隊派」に交代したためである。

このような「艦隊派」の行動に対して、「条約派」は日米不戦の信念を持ちつつもアメリカ海軍に対抗できる大海軍を建設するという海軍としての組織的要求に縛られていたため、明確な論理で対抗しなかった。黒野は、「条約派のかかえた問題は、総力戦時代に入った海軍が、圧倒的な国力の差から戦っても勝てないアメリカを主想定敵国として、大海軍の建設に邁進してきた組織の矛盾そのものであった」と述べている。(黒野)

 このような問題は陸軍内でも起きていたが、ワシントン体制後の日本の国家戦略についての合意を形成することなく、国防方針を制定した結果でもあった。この結果、日本は列強に対する一貫性のある戦略を持たないまま国際的に孤立してゆくことになる。

▼ロンドン海軍軍縮条約

 ワシントン軍縮条約は締結されたものの、イギリスは対米パリティを余儀なくされ、アメリカは太平洋防備制限への不安を抱き、日本は6割という「劣勢比率」を押し付けられたことなどから、おのずと各国間で補助艦艇建造競争が激化した。このため、アメリカの提唱で1927年に第二次軍縮会議が開催されたが、仏伊の不参加と日米英の対立で行き詰まってしまう。ワシントン会議で生じた各国間の不信感が露呈したのだ。

 1928年に成立した不戦条約と英米間の予備交渉(ラピタン協定)が行われたことで行き詰まりが打開され、世界恐慌(1929年)で各国は莫大な建艦予算の抑制が急がれたこともあり軍縮会議が開かれ、ロンドン海軍軍縮条約が成立した(1930年)。これにより、英米日の補助艦比率は「10:10:7」とされ、日本の主張はおおむね容れられたが、仏伊両国の不満は解決されなかったため両国は条約に参加しなかった。

 会議では日米間で再び「7割」か「6割」かで厳しい折衝が行われ、最終的に全体として「6.97割」で妥結した。当時の日本の財政状況は「国家のすべての施設を停止して一切の費用を海軍に振り向けてもなお足りない状況」(戦史叢書)にあり、会議を決裂に追い込む選択肢はなかったのだ。

 それでも、またも「劣勢比率」を押し付けられたとしてアメリカに対する敵対意識が増幅されるとともに、日本国内にも対立を生じさせ、統帥権干犯問題(1930年)や五・一五事件(1932年)などの軍縮の波紋を引き起こし、昭和動乱の原点となった。

 もう一つの軍縮の余波は、条約対策として重装備軽量化が行き過ぎ、復元性能や船体強度の不足をきたし友鶴事件(1934年)や第四艦隊事件(1935年)を引き起こしたことである。艦艇は新旧を問わず設計の再検討とそれに基づく改造工事を行わなければならなくなり、ただでさえ遅れ気味の建艦計画をさらに遅らせることになってしまった。

【主要参考資料】 黒野耐著『日本を滅ぼした国防方針』(文春新書、2002年)、池田清「シーパワーと軍縮」『世界の艦船』1987.4、井上亮著『忘れられた島々「南洋群島」の現代史』(平凡社新書、2015年)、外山三郎著『日清・日露・大東亜海戦史』(原書房、1979年)、石津朋之・ウィリアムソン・マーレー編『日米戦略思想史』(彩流社、2005年)、青木栄一著『シーパワーの世界史②』(出版共同社、1983年)、戦史叢書『海軍軍戦備』〈1〉

※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。