シーパワー500年史 32
第一次世界大戦後、敗戦国ドイツには極めて懲罰的な講和条件が課せられます。その一方で、国際連盟が創設され、ワシントン海軍軍縮会議が開かれ、アジア・太平洋地域の枠組みであるワシントン体制ができあがります。
ワシントン海軍軍縮条約をまとめた加藤友三郎の「矛盾」とはどういうことでしょうか。日米間の対立は新たな段階へと進みます。
▼戦間期の軍縮 -パリ平和会議
第一次世界大戦では、潜水艦、機雷、巨砲、毒ガス、航空機など新しい兵器が登場して戦闘の様相が一変した。人命の損失も前例のない規模だったが、艦艇の損失もドイツ海軍290隻、イギリス海軍162隻などと甚大だった。未曾有の大消耗戦の戦費は各国の経済に重くのしかかった。
このような大戦の終結を受けて開かれたパリ平和会議(1919年)で平和と軍縮を求める声に切実なものがあったのは当然だろう。こうした平和への切実な願望はヴェルサイユ条約の形となって、ドイツに対する軍備制限を課すとともに国際的な海軍軍縮の機運を生み出すことになった。
▼ドイツに対する軍備制限 ―ヴェルサイユ条約
ヴェルサイユ条約は敗戦国、特にドイツ陸海軍に対して厳しい軍備制限を課した。新生ドイツ海軍が保有できる艦艇は、前ド級戦艦6隻、軽巡洋艦6隻、駆逐艦12隻、水雷艇12隻などとされ、潜水艦や海軍航空隊の保有は禁止された。また代艦の建造も厳しい条件が課されたので、艦艇の旧式化、弱体化は著しかった。さらに参謀本部は廃止、兵員についても徴兵制を禁止されたうえ1万5,000名以下に制限され、予備員も確保できないようにされるなど徹底的な弱化策がとられた。
連合国側はドイツに最低限の軍事力を持たせてソ連の革命勢力に対する防波堤にしようとしたが、当のドイツはフランスの脅威に備え背後のポーランドのけん制などのため、逆にソ連と接近してしまう。独ソはラパッロ条約(1922年)を結び、軍事訓練の相互協力やドイツの新兵器をソ連で開発するなどした。また潜水艦や航空機関係の人材を、オランダ、スペイン、フィンランド、日本などに派遣して、その技術の温存を図った。
新たなドイツ共和国海軍の任務は、飛び地となった東プロイセンとドイツ本土間の海上交通路の確保やフランスによる沿岸封鎖に対する防衛などであった。フランスは、後述するワシントン海軍軍縮条約(1922年)によって主力艦の建造を制限されたため、巡洋艦以下の艦艇の整備に全力を注ぐことを決めていた。
このためドイツ海軍もフランスに対抗して巡洋艦以下の艦艇を条約の制限内で建造した。ドイツ海軍では、1928年計画で「ポケット戦艦」とも呼ばれる装甲艦「ドイッチュラント」が建造された。これは電気溶接などで排水量を1万トンに収め、砲力では戦艦に劣るもののディーゼル機関の採用で戦艦以上の長大な航続力と高速を発揮するものだった。
▼一般軍縮の試み
条約がもたらしたもうひとつのものは、国際連盟の創設と連盟規約にもとづく一般軍縮の提唱である。このため常設陸海軍問題諮問委員会などが設置されて軍縮についての具体案も議論されたが、各国の主張が対立し、いずれも成立しなかった。
これに対して、ワシントン条約、ロンドン条約、英独協定として締結された個別の海軍軍縮交渉は、一応成立した。その理由は、第一に各国とも建艦競争の重い財政負担を抑えたかったこと、第二に海軍軍備は艦種、排水量、備砲などで計量化でき交渉になじみやすかったからである。
▼ワシントン海軍軍縮条約 -ネイヴァル・ホリデー
第一次大戦後のアメリカの関心は、唯一のライバルとなったイギリス海軍との均勢を保つことと、東アジアにおける権益を維持するため日本の膨張を抑制することであった。戦勝国となった日本はドイツ領であった南洋諸島を獲得して中部太平洋に進出したが、このことは米英の警戒感を高めずにはおかなかったのだ。アメリカは、世界第3位の日本海軍を抑え、日英同盟の排除を目指した。
イギリスの問題は、財政の窮乏で大戦間に急拡大したアメリカ海軍との建艦競争を回避することと、日本の脅威から極東における権益を守ることであった。この頃、日米はそれぞれ「八八艦隊計画」と世界第一位の海軍力を目指す「ダニエルズ・プラン」にもとづいて建艦競争を繰り広げていた。イギリスも早速シンガポールに八八艦隊を配備する計画を立てるなど建艦競争に対抗する動きをみせた(1919年)。
こうした建艦競争に要する海軍予算は各国の財政を圧迫し、米英で歳出の2割を超え、日本などは3割を超えるほどであったため、ハーディング米大統領が軍縮を呼びかけるに至ったのである。大戦で疲弊した仏伊もこの提案に賛同し、英米日仏伊の五大海軍国が軍備制限に関するワシントン会議を開き、おおむね米原案に基づいて、建造中の艦艇をすべて廃棄した上で、主力艦保有の比率を「5:5:3:1.75:1.75」とすることに合意した。補助艦艇の制限については、巡洋艦の排水量、備砲、航空母艦の保有トン数などが定められ、その他の協定は再検討されることになった。
この条約により、「二国標準主義」をとってきたイギリス海軍が「一国標準主義」に後退し、発展著しいアメリカ海軍と同列になるとともに、米英両国が西太平洋における日本の海軍力を認める形になった。また、かつては世界第2位の海軍国だったフランスは、二流海軍国と見ていたイタリアと同格に扱われることになり、隣国ドイツが厳しく軍備を制限されたため、地中海の制海権を争うイタリア海軍を第一の仮想敵として海軍軍備を整備することになる。
主力艦の比率と同時に、日本の提案により香港を含む太平洋上の各国要塞及びハワイ、シンガポールを除く海軍根拠地の現状維持も定められた(要塞化禁止条項)。このワシントン海軍軍縮条約は1922年に調印され、有効期限の1936年までの間は建艦競争も止み「ネイヴァル・ホリデー」の期間に入る。
ただし、条約では巡洋艦の合計トン数については制限がなかったので、各国とも条約の制限内で可能な限り高性能な「条約型巡洋艦」を建造したため、この分野ではかえって建艦競争が激化した。これは巡洋艦以下の補助艦艇の制限を取り決めるためのロンドン軍縮会議につながってゆく。各国の戦艦なども公称トン数は制限内に収まっていても実際にはオーバーしていたり、条約後を見据えて巡洋艦用に大口径砲を砲塔ごと交換する準備を進めていたりと水面下の建艦競争が続いた。
▼対米7割の根拠
条約の交渉では、強硬に対米7割を求める日本と、関係が悪化していたイギリスと開戦した場合に日英同盟に基づき日英が連合することを警戒して6割を主張するアメリカが激しく対立した。結局、日本は要塞化禁止条項などを条件に全権の加藤友三郎海相の判断で6割を受け入れて決着した。加藤は「国防は軍人の専有物にあらず」として、八八艦隊が計画どおり完成しても財政的に維持できずこれ以上の軍拡に国力がたえられないこと、軍縮に応じることで仮想敵国との戦力比を固定でき国際平和にも資するとの冷静な判断を下していたのだ。
そもそも日本が対米6割ではなく7割という比率にこだわった理由は何だったのか。敵味方の勝敗を予想する数理モデルに「ランチェスター第2法則」があるが、これは敵味方の兵力それぞれの2乗の差の平方根が1会戦後の残存兵力となるというものである。日本海軍は対米開戦時の比率を「10:7」にしたいと考えていた。
数字を当てはめると分かるとおり、米国が全艦隊「10」のうち半分の太平洋艦隊の「5」と日本の「7」が会敵すれば、日本側は米側を全滅させて更にほぼ「5」の兵力が残ることになる。これが「6」だと残存兵力はほぼ「3」に減ってしまう。またこれとは別に、艦隊は1,000マイル進出するごとに戦闘力が約10%消耗するという一般論があり、ハワイから5,000マイルほどの極東海域で会敵できれば十分互角の戦いになり得るとの読みもあった。
佐藤鉄太郎が、攻者は防者に対し数的に優位であるべきことを論じて日本海軍の戦術思想に影響を与えたことはすでに述べた。米国が最初にオレンジ計画を策定し、グレート・ホワイト・フリート(1908年)が日本に示威をかけた頃なら、フィリピンを守るために来攻する米艦隊を極東水域で迎え撃つ決戦シナリオは妥当性があったかもしれない。
しかし、日本海軍がこのシナリオに固執して大艦巨砲、艦隊邀撃作戦一本槍だった一方で、アメリカは艦隊決戦よりも日本と南方との分断、そして本土封鎖を重視するようになっていった。日米の戦いが航空機や潜水艦を主役とする局地的な遭遇戦の連続で、艦隊決戦はほぼ起きないということが明らかになるのは20年後の実戦でのことである。
▼ワシントン体制 -四ヵ国条約、九ヵ国条約
ワシントン会議では、海軍軍縮条約のほか四ヵ国条約と九ヵ国条約が締結され、アジア・太平洋地域の国際秩序を維持する体制がつくられた(ワシントン体制)。
四ヵ国条約(1921年)は、日英米仏が太平洋地域に持つ領土や権益を相互に尊重し軍事基地化せず現状維持を図るというもので、ハワイとフィリピンの間の中部太平洋の旧ドイツ領南洋諸島を日本が委任統治領として獲得したことによる脅威論の高まりなどを背景として結ばれた。有効期間は10年間とされた。この条約の結果、満期のきた日英同盟はアメリカやカナダの強い要求で更新されずに破棄された。
日本では同盟国イギリスの不誠実、すなわちパリ講和会議での人種差別撤廃条項の否決、日本を仮想敵国としたジェリコ報告の公表、ワシントン条約締結時の英米が結託しての差別的比率の強制、中国の権益をめぐる利害の対立などからイギリスに対する不満が高まっていた。さらに日英同盟の破棄とその直後に始められたシンガポールの築城に対して「忘恩の国イギリス」とのイメージが国民に植え付けられた。
中国に関しては、日本の対華21カ条要求(1915年)で中国の反日感情が悪化しアメリカの警戒感も強まったが、大戦中は「石井・ランシング協定」で双方の立場を認め合って争いを回避した。大戦末期に起きたロシア革命(1917年)に対しては、連合国側は革命干渉に踏み切り、日本も英米仏伊とともにシベリア出兵に参加したが、これに対してアメリカは日本の大陸進出への警戒心を強めた。
九カ国条約は中国の主権を尊重し、門戸開放、機会均等の原則を承認するというもので、太平洋と極東に領土を持つ9カ国間で結ばれたが、中国に大きな影響力を及ぼし得るソ連を含んでいなかった。この条約で中国における従来からの日本の権益は認められたが、その後の大陸進出には足かせとなった。
大戦の結果、アジア・太平洋地域からドイツ勢力が消え、疲弊したヨーロッパ諸国の地位が後退すると、日米の対立が大きく浮上してくるのだが、日本はワシントン体制のもと国際秩序を維持する「協調外交」をとる。1920年代は、日本はシベリア出兵や関東大震災で国力を消耗し、欧米諸国も大戦後の復興や世界恐慌で戦争どころではなかったのだ。
しかし、群雄割拠状態の中国で国民党の蒋介石が北伐を開始(1926年)すると、日本は居留民保護のため山東省に出兵(山東出兵)し中国の反日感情をさらに悪化させる。日本陸軍は総力戦を戦う資源を得るために満州を武力制圧することを狙っており、関東軍はついに満州事変(1931年)を起こし、満州国建国(1932年)、支那事変(1937年-)に至ってワシントン体制は崩壊する。
▼加藤友三郎の矛盾
加藤友三郎は、日本の国力ではアメリカとの総力戦を戦えないと判断して、大局的見地から軍縮条約を締結したことはすでに述べた。ただし彼の考えは、対米戦を永久に回避するのではなく、軍備を整え国力を涵養するまでの間、当面戦争を避けるというものだった。なぜか。
海軍が日米不戦という立場をとれば、アメリカ海軍を目標に大海軍を建設してきた自らの存在意義を否定することになる。国家戦略は米英と衝突する可能性の小さい「南守北進」となり、日本の国防は「陸主海従」となってしまい、海軍の目指してきた「海主陸従」と反してしまう。
さらに、加藤は将来戦を総力戦と認識しながらも、対米作戦構想は明治末期以来の迎撃決戦という、加藤寛治らの考える短期決戦思想の枠から出ていないという矛盾を抱えていた。これでは、艦隊派の対米作戦構想、所要兵力と同じになってしまう。
黒野耐は『日本を滅ぼした国防方針』において、「加藤友三郎の思想が総力戦、日米不戦を基本とするならば、米英と衝突しない方面への日本の発展を考え、海洋正面において守勢を堅持する新たな海軍戦略を構想して提示すべきであった」と指摘している。
【主要参考資料】 黒野耐著『日本を滅ぼした国防方針』(文春新書、2002年)、内田一臣「懐かしの海軍」(『水交』12-4)、外山三郎著『日清・日露・大東亜海戦史』(原書房、1979年)、平間洋一著『第一次世界大戦と日本海軍』(慶応義塾大学出版会、1998年)、石津朋之・ウィリアムソン・マーレー編『日米戦略思想史』(彩流社、2005年)、青木栄一著『シーパワーの世界史②』(出版共同社、1983年)
※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。