シーパワー500年史 31

 第一次世界大戦において優勢なイギリス海軍に対するドイツ海軍の挑戦は敗北に終わりました。日本は、総力戦の態勢を整えようとしますが、それは英米との衝突に向かう道となってしまいました。

 今回からは第一次世界大戦から第二次世界大戦までのシー・パワーや海軍戦略がどのように変化していったかを見てゆきます。最も大きな変化は、パックス・ブリタニカが終わり、バクス・アメリカーナが始まったことですが、それはどのようにして起こったのでしょうか。時計の針を戻して、大戦前の世界からもう一度見てみます。

▼パクス・ブリタニカの終焉 -第一次世界大戦

 パクス・ブリタニカの世界は第一次世界大戦で崩壊した。この大戦は、シー・パワーの観点からみれば、圧倒的に優勢なイギリスに対するドイツの挑戦であった。イギリスはドイツを封鎖しその植民地を占領していったが、ドイツは新たに実用化された潜水艦による通商破壊戦を展開してイギリスを大いに苦しめた。

 しかし、イギリス以外の大海軍国がすべて連合国側に立ったためにドイツの挑戦は失敗に終わった。イギリス一国の海軍力で世界の海を支配し平和を保障した時代が終わったのは明らかであったが、それはこの大戦で突如として起きたことではなく、それまでに衰退に向かう様々な変化が起きていた。

▼帝国の拡大と大陸国家の発展

 ナポレオン戦争から半世紀が経つと、イギリスの海洋支配を衰退させる国際環境の変化が起きる。まず、スエズ運河の開通(1869年)でインド洋や南シナ海までの距離が短縮されイギリスの植民地は世界中に広がっていった。イギリスは拡大した帝国の防衛のために多数の艦艇を遠方まで展開させざるを得ず、本土防衛のためのヨーロッパ大陸に対する影響力に限界がでてきた。

 その一方で、イギリスは伝統的なライバルであるフランス海軍以外にもロシア、ドイツ、アメリカ、日本といった新興海軍力を相手にする必要が生じた。こうして次第にイギリス単独での海洋支配が困難になったため、後述するように日本やアメリカといった各地域で排他的な影響力を持とうとする国との協調が必要になってゆく。

 産業革命による蒸気船や鉄道の発達もイギリスの海洋支配に大きく影響した。帆船から蒸気船になると湾の奥深くまで進入したり大河を遡航できるようになったため、沿岸の都市などを砲撃しやすくなり、海軍の影響力を沿岸部から内陸部まで及ぼせるようになった。クリミア戦争(1853-56年)、アロー戦争(1856-60年)、薩英戦争(1863年)、下関砲撃事件(1864年)などがその例である。

 さらに鉄道の発達で沿岸部から内陸部への物資や兵力の大量輸送が可能となったため、海軍力と鉄道建設が結びつく形で、イギリスはエジプトやスーダン侵攻、インド、マラヤ半島そして南アフリカ支配を進めていった。

 このようにイギリス海軍の陸に対する影響力が強まった一方で、大陸国家においては19世紀半ば以降、蒸気機関の発達で鉄道網が拡大して大陸内における大規模な物資や兵力の移動が可能となり、アメリカの大陸横断鉄道(1869年)、ドイツ統一(1871年)による鉄道発展、ロシアのシベリア横断鉄道(1905年)などと飛躍的に国力を発展させる契機となった。こうした大陸国家に対してイギリスの海軍力が影響力を及ぼせる範囲は限られてゆき、鉄道の発達はイギリスの海洋支配の構図を弱めることになった。

▼二国標準政策とその限界

 19世紀後半になると、イギリスが信頼を寄せる海軍の強大さも揺らいできた。それは、第一に装甲艦の誕生以来、フランス、ロシアなどのヨーロッパ各国が急ピッチで建造を進めた結果、イギリス海軍の優位が相対的に低下したことによる。

 ナポレオン戦争までのイギリスは、しばしば複数の大陸国を相手に戦争をしてきた。一対一なら優位でも複数の国が敵になった場合には劣勢となる可能性がでてきた。また、当時イギリスは多くの艦艇を世界各地の植民地に派遣し、本国海域の勢力は少なくなっていたのでなおさらである。

 第二には、イギリスにとって最大の仮想敵国フランスが水雷艇を増強して通商破壊戦に重点をおいたことだ。イギリスでは食糧の約8割を輸入に頼るほど貿易依存度が高くなっており、フランスはこの脆弱性を狙ったのだ。これに対して、イギリス海軍は、あくまでも敵艦隊を封鎖する作戦にこだわる姿勢を見せたが、小型で発見されにくい水雷艇を完全に封鎖することは難しく、帆船時代の戦い方が転換点にきたのは明らかだった。

 1880年代に入ると、フランスの軍艦建造のピッチが速まりイギリスとの差が縮まってきたが、ちょうどそのころイギリス海軍の有事即応態勢に欠陥があるとの海軍省秘密文書が明るみに出て、海軍を増強すべきとの声が高まった。

 このような背景で成立した海軍国防法(Naval Defence Act、1889年)は、イギリス海軍の主力艦の勢力を世界第2位と第3位の勢力を合わせたもの以上にするというもので「二国標準主義(Two Powers Standard)」といわれた。この建艦計画は、第2位のフランス、第3位のロシアの建艦計画が進むにつれ拡張、継続され、従来の2倍近くの予算をつぎ込む建艦競争となったが、水雷艇に対抗する新しい艦種である駆逐艦も多数建造され、イギリス海軍の地位を一旦は安定させた。

▼イギリス海軍と新しい戦略環境

 しかし、建艦競争は列強国すべてに広がっていったため、世界全体の海軍勢力に占めるイギリスの割合は逆に低下した。この頃出版されたマハンの『海上権力史論』(1890年)が、各国の海軍関係者や政府指導者に大きな影響を与え、海軍力増強の理論的根拠を提供し、世界を大艦巨砲主義の時代へ導く契機となったことも一因であった。

 1890年代からはドイツとアメリカの急速な海軍増強により、フランスとロシアを想定した「二国標準」がドイツやアメリカに置き換わる情勢となり、際限なく拡大を続ける建艦予算はイギリス経済を圧迫するようになったため、イギリスは根本から戦略を再検討しなければならなくなった。

 イギリス海軍が最も警戒したのは、三国干渉(1895年)を行なったロシア、フランス、ドイツの大陸国家三カ国が連携して敵対してくることであった。独立戦争や1812年戦争(第二次米英戦争)などの記憶からアメリカのイギリスに対する警戒感や不信感は強く、19世紀を通じて米英間は緊張関係にあったが、これらヨーロッパの大国と敵対するような余裕をなくしていたイギリスは、アメリカとの和解を模索せざるを得なくなる。

▼パクス・アメリカーナへの移行のはじまり

 ヴェネズエラ国境紛争(1895-96年)で英米は戦争直前の緊張状態までいったが、危機を回避できたのはイギリス側が譲歩したからであり、その後両国は友好関係を構築する。イギリスは拡大を続けるドイツ海軍に対抗するために自国海軍の艦艇をヨーロッパ海域に集結させるためには中南米で紛争を起こす余裕はなかったのだ。

 イギリスの譲歩の背景には、南北戦争後のアメリカの国力の発展で英米間のパワーバランスが変化したこと、米西戦争におけるイギリスの対米支持とボーア戦争におけるアメリカの好意的な中立、そもそもアメリカが大西洋を越えてイギリス本土を武力攻撃することは考えにくかったことに加えて、「血は海水より濃い」というスローガンでアングロサクソン主義に基づいた英米提携論が浸透したことなどがあった。

 また、アメリカはイギリスと共にパナマ運河を建設にすることを決めていたが(1850年)、これはモンロー主義を否定するものとしてアメリカ国内で批判され続けていた。アメリカは米西戦争(1898年)の勝利を受けて、イギリスに同運河の独自建設を認めさせることに成功する(ヘイ=ポンスファート条約、1901年)。これはアメリカに対するイギリスの影響力を排除した象徴的な出来事であり、パクス・ブリタニカからパクス・アメリカーナへの移行の始まりを意味するものであった。

▼「光栄ある孤立」から英仏協商、日英同盟へ 

 20世紀に入る頃にはアメリカに加えてフランスやロシアなどの経済が急速に成長し、同時にドイツ、イタリア、日本などの新興国が帝国主義国家の仲間入りをし、パクス・ブリタニカの基盤が揺らぎ始めた。

 イギリスは、ドイツによるなりふり構わぬ植民地獲得や急速な海軍拡張に対して脅威を感じ始めた。また、ロシアのアフガニスタンや満州への進出に対しても対策が必要になった。ここにおいてすでにアメリカとの協調路線を選んでいたイギリスは孤立政策を捨て、新興ドイツ海軍の拡張に備えて、積年のライバルであったフランスとの対立を英仏協商(1904年)で緩和し、極東水域では日本海軍との協力のために日英同盟(1902年)を結んだ。

▼フィッシャー改革

 第一海軍卿のフィッシャー大将は、これらの政策変更にもとづき、それまでイギリス海峡と地中海に配備された二つの艦隊(Fleet)と世界各地に派遣された七つの戦隊(Squadron)を整理、集約した。ヨーロッパ海域に海峡艦隊、大西洋艦隊、地中海艦隊の三つの艦隊、ドーバー、ジブラルタル、アレクサンドリア、ケープタウン、シンガポールといったイギリスにとって重要な戦略拠点に五つの戦隊を配備した(1904年)。

 この艦隊配備の集約が始まると、海外の自治領や植民地付近の海域での海軍力が低下したため、イギリス政府は自治領となった地域では自らの予算で海軍を設立するよう要求した。各自治領はイギリス海軍の自治領海域の警備について分担金を支払うようになっていたが、1909年、カナダとオーストラリアが海軍の創設を決定した。ニュージーランド海軍の創設は第一次大戦後の1921年となった。

 このほか、フィッシャーは兵学校制度の確立、兵科・機関科の統合、砲術の進歩、艦艇燃料の転換などをリードし、一連の改革は「フィッシャー改革」と呼ばれた。戦艦ドレッドノートの建造のリーダーシップをとったのも彼であり、ド級、超ド級戦艦時代の幕開けとなった。

▼日露戦争後の変化

 日本海海戦(1905年)でロシアのバルチック艦隊が撃破されるとイギリス海軍にとって北海におけるロシア海軍の脅威がほぼ消失するとともにフランスも海軍大国の地位から大きく後退する。

 代わってイギリスの最大の脅威となったのは海軍力を急速に増強し始めたドイツだった。そもそもフランスやロシアと国境を接しているドイツにとっては、地上兵力こそが中核的な戦力であり、大規模な海軍力は不要なはずだった。莫大な予算を使って建設される巨大なドイツ海軍は、フランスやロシアに対してというよりも、イギリスに対抗しようとするものと考えるのが自然であり、この頃からイギリス海軍はドイツ海軍を最大の仮想敵国と考えるようになる。フィッシャーはイギリスが唯一恐れるべきものはドイツとアメリカの同盟であるとして、それを避けるようにアメリカとの協調を進めてドイツに対抗してゆく。

▼海洋大国アメリカの発展

 第一次世界大戦を経て海洋国家アメリカは大きく発展し、第二次世界大戦後のパクス・アメリカーナへ向けて海の世界を変化させた。

 第一次世界大戦以前においては、全世界の海上貿易の約半分をイギリス船が担っており、第2位のアメリカ船は1割ほどに過ぎなかった。また、アメリカ船の多くはイギリスで建造されており、造船業での世界シェアもイギリスが圧倒的だった。

 ところが、第一次世界大戦でイギリスが経済的に疲弊した一方、戦場にならなかったアメリカは世界の兵器工場、食糧庫となり、驚異的な経済成長を遂げた。海運の面では戦争初期こそ他国船舶に依存していたが、1916年に船舶法(Shipping Act)が制定されて国防と商業の両目的にかなった商船隊を建設することがうたわれると、国を挙げての造船所の拡充に乗り出し、外航船の建造量は23万トン(1913年)から300万トン(1919年)に急増した。

 全世界で大戦中に失われた船舶は約1,200万トンであったが、アメリカは900万トンもの船舶を建造し、1920年には1,240万トンの商船隊を有する大海運国となった。しかし、依然としてイギリスは世界中に艦隊の根拠地や給炭施設のネットワークを維持しており、それを持たないアメリカにとってイギリスとの協力関係は重要な意味を持っていた。

▼パナマ運河の戦略的価値

 大戦勃発直後に完成していたパナマ運河は、スエズ運河とともに世界の海上交通に重要な役割を果たし、アメリカの太平洋と東アジアへの進出を助けた。同運河により、商工業の中心地である東海岸と太平洋岸が結び付けられ、マハンが説いた太平洋の海洋帝国建設の目標が急速に進むことになった。

 太平洋世界の支配を目指すアメリカにとって大西洋と太平洋を結ぶ運河の建設は必須の条件だった。パナマ運河がなければ、アメリカがフィリピンやグアムを維持することはより困難だったし、中国大陸に対する「門戸開放」宣言も単なる声明に終わったかもしれない。

 そして、戦間期の日米対立の深まりにも間接的ながら影響を与えたと考えられる。なぜなら、大戦後のワシントン会議を経て日英同盟が廃止されると、東アジアの既得権益の維持・拡大を図る日本と中国への進出を目指すアメリカとの間で対立が激化したからだ。運河の建設が地政学と現実の戦略に影響を与えたのだ。

 パナマ運河の開通によりアメリカの海洋戦略は勢いを増し、1919年に太平洋艦隊を編成するとハワイの基地機能や貯油能力が拡充され、従来のミッドウェー島に加えてウェーク島にも通信中継所が置かれた。いよいよ「両洋艦隊」が実現したのだ。

 1922年には、ドイツの敗戦とイギリスの衰退を受けて米海軍の主力を大西洋から太平洋に移すため、太平洋艦隊を最大の勢力を持つ戦闘部隊(Battle Force)と基地部隊(Base Force)に、大西洋艦隊を偵察部隊(Scouting Force)と制海部隊(Control Force)にそれぞれ再編した。さらに後述する軍縮条約後の「ネイヴァル・ホリデー」の間にも再編が行われ、1932年には大西洋側の訓練部隊を除き兵力の大部分を太平洋側へ集中させた。

 後にドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まると、海軍兵力は太平洋艦隊と大西洋艦隊にバランス良く再配分されて太平洋戦争に突入することになる。

【主要参考資料】 青木栄一著『シーパワーの世界史②』(出版共同社、1983年)、田所昌幸編『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』(有斐閣、2006年)、ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 下』山本文史訳(中央公論新社、2020年)、宮崎正勝著『海図の世界史 「海上の道」が歴史を変えた』(新潮選書、2012年)

※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。