シーパワー500年史 30
前回まで日露戦争とその後の日米関係、そして日本が帝国国防方針を定めたものの南進と北進を併記せざるを得ず、国家戦略として根本的な問題を抱えてしまったことを述べました。
史上初の総力戦として戦われた第一次世界大戦ですが、海の戦いはどのようなものだったのでしょうか。そして日本は、そこから学んだ教訓を国家戦略に生かせたのでしょうか。
▼消極的なドイツ海軍 -要塞艦隊
1914年に第一次世界大戦が勃発した。英仏露など連合国30か国とドイツを中心とした4か国からなる同盟国が、4年半にわたって6,000万人以上を動員した史上初めての総力戦だった。ドイツのまわりには西部、東部、南部、そして海上に戦線が開かれ、海外植民地は蹂躙され、連合国側の圧倒的勝利に終わった。
ドイツ海軍は、優勢なイギリス海軍は当然攻勢に出て艦隊決戦を求めてくるか、少なくともドイツ艦隊を直接封鎖しようとするだろうと見積っていた。このためドイツ海軍は、北海沿岸に接近してきたイギリス艦隊を迎撃するため、主力艦をまとめて「ホッホゼーフロッテ(大海艦隊)」として編成して、北海側ヤーデ湾のヘルゴラント島要塞の防御範囲内で水雷艇などとともに行動させた。名称とは裏腹に艦隊を要塞砲で守ろうという消極的な「要塞艦隊」の用法であるが、皇帝やティルピッツは艦隊を温存することによって戦後の講和を有利にできるとも考えていた。
バルト海側には旧式艦を配備して対ロシア戦に備えさせ、バルト海の出入口にあたる海峡は機雷により封鎖してしまった。陸軍との連携は不十分で、ドーヴァー海峡を渡るイギリス陸軍兵力の輸送艦に対しては妨害を試みようともしなかった。
ちなみに、開戦時に地中海にあったドイツ巡洋戦艦「ゲーベン」は中立国オスマン帝国へ脱出、同国に譲渡されてオスマン帝国がドイツ側で参戦するきっかけとなったが、当時の戦艦の価値を示す出来事であった。また、ドイツ極東艦隊などは通商破壊戦に活躍したが、開戦後ほどなく撃破されイギリスの海上交通路に重大な脅威を与えるには至らなかった。
▼イギリス海軍による対独経済封鎖
一方のイギリス海軍は、ドイツに対する経済封鎖とドイツ艦隊の出撃阻止による自国の通商路保護のため、主力艦を集めた「グランド・フリート(大艦隊)」を北海の出口を抑えられる艦隊泊地スカパフローに配置した。そして1914年末には北海を交戦海域と宣言して臨検態勢を強化するとともに、英仏海軍でそれぞれ大西洋と地中海を分担して制海権を強固なものにした。
ドイツは、産業革命を経て一大工業国に発展し物資の多くを輸入に頼るようになっていたため、主要な通商路である北海を封鎖されたことにより極めて大きな打撃を受けた。封鎖は農業生産にも影響を及ぼし、1916年冬の配給食料は必要量の1/3に過ぎず、戦争継続が危ぶまれるほどになった。後述するとおりイギリスもドイツ潜水艦による通商破壊戦で一時は窮地に陥ったが、護衛船団方式の採用などでかろうじて通商路を維持できたため、その影響はドイツに比べると小さかった。
▼ジュットランド海戦
ドイツは優勢なイギリス艦隊は艦隊決戦を求めてくるだろうと予想していたが、イギリス側としてはスカパフローに艦隊を配置することで対独封鎖という任務を達成できたため、ドイツ側の新兵器である機雷、魚雷、潜水艦などが待ち受ける危険な海域にあえて出撃することはなかった。
見込み違いとなったドイツ海軍は、偵察部隊を出撃させてイギリス艦隊を誘い出し、打撃を与えて戦力を漸減させるしか方法がなくなったが、暗号を解読されるなどしてかえってドイツ側の損失が増えるばかりで、主力部隊による艦隊決戦はなかなか起きなかった。
そのような状況で起きた両軍の主力による唯一の海戦がジェトランド海戦(1915年)である。巡洋戦艦以上だけでも106隻が参加したこの海戦では、20ノット以上で運動する両艦隊が1万数千メートルの距離で徹甲弾を撃ち合い、相手艦の厚い装甲を貫通して炸裂し1~2万トンを超える巨艦が一瞬のうちに爆沈した。日本海海戦を経て大艦巨砲主義の時代が始まり、イギリスで近代的な砲術が確立され、ついに実戦で砲弾が装甲を撃ち破ったのだ。
この海戦の主力になったのは高速の巡洋戦艦であり、鈍足の戦艦は戦闘に参加する機会さえ与えられなかった。一方でイギリスの巡洋戦艦は、その防御力の不足で3隻が爆沈している。将来の海戦では2万メートルを超える遠距離砲戦となることが予想されるようになり、巡洋戦艦の高速力と戦艦の攻撃力・防御力を兼ね備えたポスト・ジュットランド型といわれる新しい戦艦が登場することになり、さらなる大艦巨砲化に拍車がかかった。
この海戦以降、両軍主力が積極的に行動することはなく、小規模な交戦が起きたのみで、北海におけるドイツに対するイギリスの優位、地中海におけるオーストリアに対するフランス・イタリアの優位、バルト海におけるロシアに対するドイツの優位が固定化し、膠着状態になった。ドイツ海軍は世界第2位の艦隊を持ちながら、イギリスの制海権に挑戦することはなく、北海で要塞砲に守られて沿岸防備的な消極的な行動に終始したのだった。
▼潜水艦との戦い
主力艦の戦いが低調であった一方で、大きな戦果を挙げたのはドイツの潜水艦(Uボート)だった。ドイツは開戦時に28隻の潜水艦を保有していたが、当初は補助的な戦力と見られていた。しかし、開戦早々、わずか1隻のUボートがイギリス装甲巡洋艦3隻を立て続けに撃沈したことで、一躍その評価を高めることになった。
ドイツは、イギリス海軍の海上封鎖に対抗してイギリス周辺海域を交戦海域と宣言し、潜水艦による無警告の敵商船攻撃を開始した(1915年)。これによりイギリスの大型客船がアイルランド沖で撃沈され1,000名以上の乗客が犠牲になるという惨事が起きる(ルシタニア号事件、1915年)。ドイツはこの事件で強い国際的非難を受けたため作戦を中断するが、ティルピッツはその再開を強く主張したため解任されてしまう(1916年)。
ドイツにとって海外貿易に依存するイギリスを効果的に追い詰める方法は他になかったため、結局96隻のUボートで無制限潜水艦作戦を再開する(1917年)。ドイツ潜水艦による通商破壊戦への備えがなかったイギリスは護衛船団方式を急遽採用し、アメリカの援助もあってかろうじて破局を回避したが、1917年前半においてイギリス周辺海域における制海権の維持は、未曽有の危機に直面したのだった。第一次世界大戦を通じて1,280万トン余りの船舶がUボートの攻撃で失われた。これは新しい形態の戦争であった。
通商破壊戦以外でも、潜水艦による機雷敷設と魚雷攻撃は主力艦に対する大きな脅威となった。主要国の巡洋艦以上の主力艦の喪失を見てみると、砲弾によるものが24隻であったのに対して、魚雷が36隻、機雷が16隻と水中武器によるものが大きく上回っている。
このように実戦における潜水艦の有効性が証明されたため、第一次世界大戦後は各国海軍とも本格的な潜水艦の活用に乗り出し、通商破壊戦に加えて艦隊決戦の補助兵力として艦隊に随伴する「艦隊型潜水艦」が発達することになる。
▼アメリカの参戦
第一次大戦に関して、戦争が南北アメリカに及ばない限り中立を守るというのはモンロー大統領以来のアメリカの伝統的な政策であった。しかし、ルシタニア号事件で128名のアメリカ人が犠牲になったことをきっかけとして参戦の世論が強まった。地上戦が長期化するなかドイツが戦局を打開するために無制限潜水艦戦を再開すると、ついにアメリカ議会は参戦を決議する(1917年)。
アメリカは対潜護衛のため駆逐艦を派遣、次いでド級戦艦5隻をイギリスのグランド・フリートに編入させた。大戦中のアメリカ艦艇の喪失は少なく、主要艦艇では装甲巡洋艦1隻と駆逐艦2隻だけだった。アメリカは連合国の兵器工場の役割を果たし、進行中のダニエルズ計画を遅らせて戦時計画として駆逐艦200隻以上を急造してヨーロッパに送り込んだ。
▼日本海軍の参戦
日本は日英同盟にもとづいてドイツに宣戦した。日本海軍はドイツ海軍勢力を太平洋から駆逐する一方で、陸軍はドイツ東洋艦隊の根拠地である青島要塞を攻略した。
日本海軍は戦艦など10隻余りを派遣し、南洋群島の占領、オーストラリア軍のヨーロッパへの輸送保護、インド洋におけるドイツの通商破壊戦への対応にあたった。1917年からは、地中海と南アフリカ方面の海上交通保護などのために艦隊を派遣したが、これはドイツの無制限潜水艦作戦による通商破壊でイギリスの食糧事情が極度に悪化したことから要請されたものだった。このうち地中海に派遣された第二特務艦隊は、休戦までの1年半にわたりマルタ軍港を根拠地として単独で実施しただけでも350回に及ぶ船団護衛にあたった。
▼学ばれなかった通商破壊戦の教訓
第一次世界大戦は19世紀に起こった戦争の犠牲者総数の2倍にあたる900万人近くの戦死者を出す未曽有の大戦争であり、潜水艦、航空機、毒ガスなどが登場しその戦況は凄惨を極めた。
なかでも潜水艦による通商破壊戦は、総力戦のなかで新しく出現した作戦の形であった。日本海軍は連合国軍側に立って戦い、この作戦が島国に及ぼしうる影響と対応の困難さを体験したにも関わらず、戦後その対策がとられることはなかった。代わりに自らは参加しなかったジェトランド海戦における主力艦同士の砲戦には十分すぎる注意を向け、教訓をくみ取ろうとした。
たしかに海軍は臨時委員会などを設置し、海軍の参考になるものはすべて調査しようとしたが、その重点は艦船、兵器の近代化、艦隊編成の成果など軍備計画に関するものに向けられた。これはたまたま八八艦隊の建設が始まる時期に当たっていたこともあるが、島国が総力戦を戦うとどうなるかということを学ぶことなく、後の太平洋戦争でアメリカの通商破壊戦に息の根を止められる遠因ともなったのである。
▼ドイツの敗北と艦隊の最期
1918年夏には地上戦でもドイツの敗色は濃厚となり、皇帝の退位と革命を求める世論が強まるなか、ドイツはアメリカに休戦を打診する。ドイツ海軍は講和条件を少しでも有利にするため、大海艦隊をテームズ河口に進出させイギリス艦隊との決戦に持ち込もうとした。ところが革命思想と厭戦気分が広まっていたドイツ艦隊の水兵たちは、これを終戦間際の無謀な出撃とみて反乱を起こしストライキに突入した。こうしてドイツ海軍最後の出撃は潰え、兵士達の反乱はまたたく間にドイツ全土での革命へと発展し、ヴィルヘルム2世はオランダに亡命、ドイツは敗北し第一次大戦は終結した。
連合国側はすべてのドイツ艦艇の抑留を決定しスカパフローへ回航させたが、ドイツ側は艦艇が返還されることに望みを抱いていた。しかし、ヴェルサイユ条約で潜水艦の保有を禁じられ、戦艦も旧式艦6隻の保有だけが許されるということが明らかになると、スカパフローのドイツ艦隊は連合国側に接収される屈辱を逃れるために指揮官の号令一下、艦底弁を開き一斉に自沈してしまった。世界第二位を誇ったドイツ艦隊の最期だった。
▼戦争ルールの変化 -潜水艦による通商破壊戦
第一次世界大戦では通商破壊戦が勝敗を左右する重要な戦いとなった。私掠船などによる通商破壊戦は数百年の歴史があるが、19世紀後半になると世界的な商船数、貿易量の増加を背景として、中立国船舶の保護のためのルール作りに関心が高まってきた。最初の試みは、イギリスとフランスが中心となって作られたクリミア戦争後のパリ宣言(1856年)であり私掠船を禁止するものだったが、大海軍国を利し弱小海軍国に制約を課すものとしてアメリカは反対した。
さらに中立国船舶や中立国所有商品の保護などのために、船舶の捕獲に厳しい制限と手続きが求められるようになった。このようなルールは、世界最大の海軍力と商船隊を持つイギリスに有利なルールであり、その後も第二次ハーグ会議(1907年)、ロンドン宣言(1909年)で補強されていったが、第一次世界大戦で潜水艦が実用段階になり、ドイツ海軍が無制限潜水艦作戦を開始したため、もろくも崩壊することになる。
戦時国際法の規定では、交戦海域を航行する商船を攻撃する場合、潜水艦は浮上して商船に停止を命じ、船内を臨検して戦時禁制品積載の有無を調べ、積載していれば没収するか、乗員を離船・避難させた後撃沈することになっている。
「無制限潜水艦作戦」とは、イギリスに向かう商船がドイツの指定する航路を外れて航行する場合に潜航したままのドイツ潜水艦の無警告の攻撃の対象になるというものであり、作戦開始日と対象水域が公表された。この作戦の実施にはドイツ国内でも異論が出たが、国際ルールどおりだと潜水艦自身を危険にさらすことになることに加え、国家総力戦となり戦闘員と非戦闘員、前線と後方の区別があいまいとなり、勝利のために最も効果的な戦闘方式をとることに躊躇しなくなった結果、採用されたものである。無制限潜水艦作戦は、第二次世界大戦では連合国側、枢軸国側とも実施した。
パクス・ブリタニカのもと大海軍国イギリスの利害を反映して作られた19世紀後半の戦争ルールが変化してゆくのは、海戦の形が変容する歴史の流れであったといえる。
▼対潜作戦と護衛船団制度
通商破壊戦で潜水艦が猛威をふるったことで、その対抗手段として潜水艦を探知するための水中聴音器(ソーナー)や攻撃兵器として爆雷が開発(1917年頃)され、広く駆逐艦に装備された。
対潜戦術としては、敵潜水艦による被害を防ぐために護衛船団方式が採用された。大戦前半においては、大部分の商船は平時と同様に単独航海をし、兵員、弾薬などを運搬する船だけに護衛がつけられた。1916年になると地中海で潜水艦による被害が増加したため、一部、護衛船団が編成されるようになった。
ドイツが無制限潜水艦戦を開始して被害が急増すると、イギリス海軍は北大西洋航路に船団を一定間隔で運航するようになり駆逐艦を護衛につけるようになった。アメリカの参戦で多数の駆逐艦が護衛に加わり、連合軍の船団制度が拡大され船団加入率が高まると、ドイツ潜水艦による被害は減少した。
潜水艦の脅威の増大に対して新たな対潜兵器や対戦戦術の開発がなされるという現代に続くシーソーゲームが始まったのだ。
▼帝国国防方針への総力戦思想の導入
日本海軍が第一次世界大戦から軍備計画に関する教訓を得たことはすでに述べたが、国家レベルの教訓はどのように学んだのだろうか。
第一次大戦に関する様々な調査の結果、陸海軍が共通して提唱したのは、資源や国力に乏しい日本が総力戦を戦うための国家総動員態勢を基礎とする戦備の必要性と、不足する資源を中国に求め大陸との交通連絡を確保する「日支自給自足体制」を確立することだった。
それまで「南北併進」で陸海軍の戦略的関心が南と北に分かれていたが、中国大陸を中心とした東アジア全域を対象として国家戦略を描く共通の基盤ができたのだ。国防上からの「日支自給自足体制」は国の経済政策としての「日支経済提携」として推進され、日本が中国全土において権益の獲得を追求する国家目標が政軍間において一致したことの意義は大きかった。このことは明治四十年に初度制定された帝国国防方針との重要な違いであった。
▼国防方針第一次改定 ―短期戦と総力戦の併存
1918年には総力戦思想にもとづいて国防方針が見直された(第一次改定)。この国防方針は成案が残されていないが、黒野耐『日本を滅ぼした国防方針』の推測によれば、海軍はアメリカ一国だけを想定敵国としていたのを米ロ中三国を主敵とするようになり、これはロシア一国を主敵としていた陸軍も同様だった。
当時、帝政ロシアは崩壊して混乱のさなかであり、アメリカは極東から遠く大兵力の投入は困難、中国一国では日本に対抗できないため、米中が提携して日本と戦い、ロシアがその隙を狙って参戦するとの見積りであった。極東においては日本と欧米列強の利害が錯綜していたことから、複数の国を想定敵国とせざるを得なかったのだ。
そして、日本としては開戦初頭の攻勢により短期決戦を追求するものの、結局は長期戦とならざるをえないため、必要な地域を占領して自給自足体制を確立する、その上で所要の方面で決戦を求め、長期間の総力戦を戦い抜くという、短期戦と長期間の総力戦が併存した考え方となった。
海軍は、最低限の国防目標を本土の防衛、本土と大陸との連絡保持、南シナ海の保安に置いた。有事には少なくとも東アジア海域を管制し、大陸からの物資の輸入を確保して長期戦を戦い、米艦隊の来攻を待っておもむろに屈服させるという戦略構想であった。
このための海軍の所要兵力は、「八八艦隊」にさらに1コ艦隊を増強して、3コ艦隊(「八八八艦隊」)を基幹とする途方もないものになった。問題は、「八八艦隊」すら予算のメドも立っていないのに、さらに1コ艦隊を増加できるのかという点にあった。
1920年度予算では、当時の財政状況、国力に沿った整備要領を立てることになり、海軍は経過的措置として「八六艦隊」の建設で我慢すること、陸海軍間の兵力整備の優先順位を当面は海軍に置き、海軍の計画が完了する1927年以降に陸軍の計画を実行に移すことで合意が成立した。これは日露戦争以降の予算獲得をめぐる陸海軍間の競争、対立の歴史のなかで、唯一ともいえる大局的見地に立った合意の成立だった。
▼戦略の拡大と国際的孤立の始まり
日本は総力戦を戦うための具体的な施策として軍需工業動員法を制定し(1918年)、新兵器の導入に踏み出した。しかし開始早々、資源が少なく工業生産能力が欧米列強に比較して劣るという日本の根本的な脆弱性が浮き彫りになってきた。
この弱点を補うため、日支自給自足体制の確立のための国家戦略の対象地域を中国本土を含む東アジア全域に拡大することになった。この結果、日本は中国のみならず、東アジア全域に進出した欧米列強をすべて敵としかねない国際的孤立のなかに陥って行くことになる。
この戦略の見直しこそ日本が英米との協調をできなくする第一次大戦後における最大の転換点だった。イギリス、フランスがアメリカの支援によって長期間の総力戦を戦い抜いたように、日本も英米両国との連携を保てる限度に戦略を抑制して、新たな戦争に備えるべきだったのだ。
【主要参考資料】 木村靖二著『第一次世界大戦』(ちくま新書、2014年)、外山三郎著『日清・日露・大東亜海戦史』(原書房、1979年)、青木栄一著『シーパワーの世界史②』(出版共同社、1983年)、ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 下』山本文史訳(中央公論新社、2020年)、宮崎正勝著『海からの世界史』(角川選書、2005年)、黒野耐著『日本を滅ぼした国防方針』(文春新書、2002年)
※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。