シーパワー500年史 29

 日露戦争で満州を獲得して欧米列強の仲間入りをした日本は、自国の権益を維持、拡大するための国家戦略作りに取り組みます。統一した国防方針と戦後における軍備拡張の根拠となる「帝国国防方針」を検討しますが、海軍は大陸国家的な発想で国家戦略作りを主導しようとする陸軍と対立します。

 結局、陸海軍の調整はつかず、それぞれが主体となる国家戦略を併記せざるを得なくなってしまいます。つまり、陸軍が主力となる北進と、海軍が主力となる南進を合わせた「南北併進」が国家戦略となってしまうのです。これは、日本の国力を無視し、外交方針など政戦略の調整もされなかったもので、以後、日本の国家戦略の致命的な問題となってゆきます。

▼北守南進から南北併進へ

 1903年、日本の国家方針として「北守南進」が閣議決定された。これは、桂太郎台湾総督が提出した「台湾統治意見書」(1896年)がもとになったもので、ロシアの脅威を朝鮮半島、日本海以北に阻止して日本の安全を確保し、台湾を立脚地として清国南部に日本の利益圏を作り、これが完成すれば、さらに南方諸島に発展していくという構想であった。当時、ロシアが支配する北方よりもイギリスの支配する南方の植民地の方が、植民上も通商上も利益が大きいと認識されていたのだ。

 しかし、日露戦争の勝利で満州を獲得すると、日本は満鉄を設立し「戦後経営」として大陸の権益の維持拡大につとめ、国家戦略の議論が進まないまま満州問題に振り回されるかたちで「北守」が実質的に「北進」へと変化していった。

 また、日本周辺には急迫した脅威がなくなったことから、陸海軍が備えるべき軍備の考え方が必要とされた。この点で陸軍の山県元帥は、戦後も本国に強大な兵力を持つロシアの極東侵略の意図は変わらないため、日本は満州に軍隊を駐留させ、鉄道を整備して軍備を拡張することが必要であると考えた。

▼帝国国防方針の制定

 天皇は、山県元帥の進言に基づき、国防方針の統一と戦後における軍備拡張の根拠となる「帝国国防方針」の検討を命じた。1907年に制定された帝国国防方針は、「基本方針」、陸海軍の作戦の指針となる「用兵綱領」、そして作戦に必要となる「所要兵力」から構成されていた。その基本方針では、満州と韓国における利権とアジアの南方と太平洋に広がりつつある民力の発展を擁護、拡張してゆくという「南北併進」という遠大な構想が示された。

 このような構想の背景には、戦後の日本は海外へ発展すべきという高揚した世論と対立傾向を強める陸海軍への配慮があった。1872年に陸海軍に分かれた後、「海主陸従」か「陸主海従」かの議論があり、日露戦争直前には海軍軍令部の独立を巡って激しく対立したことはすでに述べた。

 大陸国家的な発想で国家戦略作りを主導しようとする陸軍に対して、後述するように日露戦争で立場が強くなった海軍が従属的な立場に甘んじることを拒んだのは当然であった。このような陸海軍が国防方針を定めるには、それぞれが主体となる国家戦略を併記せざるを得なかったということだ。つまり、陸軍が主力となる北進と、海軍が主力となる南進を合わせた国家戦略が「南北併進」だったということになる。

 この国防方針は、実質的に軍が作成し、政府との協議を欠いたうえに閣議にも諮られていないことから、策定プロセスからいって真に国家戦略とはいいがたいものだった。さらに西園寺首相は天皇に対して基本方針は適切なものであると答えているが、北進すればロシアと、南進すればアメリカ、フランス、ドイツ、オランダ、そして同盟国であるイギリスとさえ衝突する危険性が考えられるものだった。さらに南北併進という戦略が日本の国力に見合ったものかどうか、その妥当性を政府として検討しておらず、外交方針などとの政戦略の調整もなされていないという根本的かつ致命的な問題が放置されてしまった。

▼「用兵綱領」が軍備拡張の論拠?

 「用兵綱領」に示された海外攻勢戦略は、ロシアに対する大陸攻勢戦略とアメリカ、ドイツ、フランスに対する海洋攻勢戦略からなっていた。大陸攻勢は、満州方面のロシア軍を撃破した後、戦力を転用してウラジオストック要塞を攻略するという戦略であった。一方の海洋攻勢では、敵の根拠地と艦隊の撃破の二本柱で考えられており、例えばアメリカに対してはその極東艦隊を撃滅し、根拠地であるフィリピンを攻略し、来攻する米主力艦隊を迎撃する戦略を構想していた。

 しかし、この戦略と現実の国際情勢には明らかな食い違いがあった。当時の国際情勢は、世界的には日英仏露と独墺伊が対立し、極東では日露と米が対立していた。したがって、日本が東アジアで備えるべき主敵は米、独であり、ロシアを主敵とする考えとは乖離している。軍備の重点は海軍となるはずであり、戦時50コ師団が必要という陸軍の軍備は説明しにくい。

 黒野耐は『日本を滅ぼした国防方針』において、方針の策定を主導する陸軍が、対露陸軍軍備が後回しにならないように、現実の国際情勢ではなく地政学的条件を重視して、極東に大陸軍を投入できる唯一の国ロシアと大海軍を展開できるアメリカを主敵とする論理を導入したと推測している。つまり国防方針制定の目的が、実質的に軍備拡張の論拠とすり替わってしまったのだ。

▼「八八艦隊」の登場

 「所要兵力」について、西園寺首相は天皇に対して財政状況が厳しいので整備に時間がかかる旨、説明しているがどんなものだったのか。

 海軍は、東アジアへ来攻するアメリカ海軍に対抗するために戦艦8隻、装甲巡洋艦8隻からなる八八艦隊を基幹とする兵力が必要だとした。当時、日本海軍は対米戦略を完全には確立していなかったが、日本近海において遠来の敵を迎撃するには最小限の兵力として敵の7割があれば足りるとの考え方があった。アメリカ海軍が日本に向けられる主力艦を25隻とすれば、そのおおよそ7割に相当するのが八八艦隊16隻ということになる。一方、陸軍の所要兵力は、有事にロシアが極東に展開できる50個師団と同数の師団を保有するために、平時は25個師団を保有し、戦時に倍増させて50個師団にするというものだった。

 ちなみにこの「八八艦隊」は佐藤鉄太郎大佐(のち中将)が『海防史論』(1907年)や『帝国国防史論』(1908年)において提示していた艦隊編制だったとされている。佐藤は日本の国力に見合った戦略的守勢をとるための戦力を構想し、侵攻艦隊は迎撃艦隊に5割以上の比較優位性を必要とするとの前提に立って、戦略的守勢に立つ「防守艦隊」は、想定敵国の艦隊に対して少なくとも7割を確保する必要があると考えたのだ。

 さらに佐藤は、攻撃力と運動力を特に重視して局地優勢主義と質によって量を補う「劣勢艦隊」の論理を展開しているが、このような思想が日本海軍の提督らに浸透していった。千早正隆は『日本海軍の戦略発想』において「日本海軍の戦術家と言われた佐藤鉄太郎中将はエネルギーの法則をもじって、Force=1/2MV(M:兵力量、V:術力)だとして、劣をもって優を破るには精鋭でなくてはならないとした。結論には誤りないのであるが、エネルギーの法則を十分に検討せずに引用して、実力が1.5倍以上であれば大軍にも対抗しうるとしたところに、誤りがあったといわなければならない。」と指摘している。

▼国力を超えた帝国国防方針

 ともかくも日本は八八艦隊で大海軍の建設に乗り出すことになった。ところが日露戦争直後からド級戦艦の時代に移行したことで戦艦の建造コストはうなぎのぼりで、膨大な予算確保に難渋する。

 しかも建造をつかさどる艦政本部長などの収賄でシーメンス事件(1913年)が起き、海軍建設の立役者であった山本権兵衛内閣を崩壊させたため、八四艦隊、八六艦隊と段階的に予算を組まざるを得なくなり、八八艦隊の予算がようやく成立したのは1920年で、完成は1927年と見込まれた。

 八八艦隊を建設するための1920年度の海軍費は国家予算の26.5%を占め、その後も年々増加し、完成後には40%にも達することが見込まれ、現実問題として維持することが不可能で、明らかに日本の国力を超えた要求であった。結局この計画はのちのワシントン海軍軍縮条約の締結(1921年)で中止となる。

一方の陸軍は、常備25個師団増強のための2個師団増を巡って陸軍と内閣が対立し、陸相が辞任して内閣が倒れるという政変を引き起こした。このような日露戦争後の軍備増強を巡る問題は、帝国国防方針に日本の財政能力を無視して陸海軍の要求する兵力を単に書き並べた結果であり、日露戦争を増税と公債で切り抜け、戦後の満州などへの投資もしなければならない日本にとって実行できる計画ではなかった。

 帝国国防方針は、政軍間での調整がないまま決定した南北併進という戦略を規定してしまったが、それが国力を超えたものであることは、所要兵力の面からみても明らかであった。この方針は、以後、第一次世界大戦末期の1918年、ワシントン軍縮会議後の1923年、国際連盟を脱退した1936年に改正されるが、この政戦略と陸海軍戦略の不一致が根本的に解決されることはなく、国家戦略としての妥当性を欠いたまま最終的に日本を破滅させることになってゆく。

▼海軍と陸軍の対立

 国防方針の策定において、陸海軍戦略が整合されなかったという根本的な問題があったが、陸海軍の力関係という点からは、海軍として海洋国家としての立場から主張し、陸軍に対して対等の立場を保つことができたといえる。

 この背景としては、まず山本権兵衛海相の存在がある。兵部省が海軍省と陸軍省に分離して「海陸軍」が「陸海軍」になった時、陸軍の西郷や山県に匹敵するような人材は海軍にいなかったが、日清戦争開戦前になると、大佐となった山本が「海上権」について陸軍首脳に説いたエピソードはすでに述べたとおりである。山本は1898年に海相に就任すると、7年余りにわたって海軍建設の第一人者として活躍し、「日清戦争も日露戦争も五十パーセントまでは山本の力で勝ったといっても過言ではない」(伊藤正徳『大海軍を想う』)といわれるほどの存在になり、後には総理大臣を務めるなどその影響力は極めて大きくなっていた。

 また、日露戦争において海軍が挙げた戦功もその発言力を強めた。それまで明治天皇の臨幸は、陸海軍を問わず常に陸軍の制服であったが、日露戦争後の凱旋観艦式(横浜沖)では、はじめて海軍大元帥の制服で臨幸された。これは、山本海相の奏上によるものだったが、このことに象徴されるように海軍が陸軍に対し堂々と胸を張れるようになるのは、日露戦争以降だったといわれている。

 このように日露戦争で海軍は陸軍と対等の立場になったが、それまでは陸軍のリーダーである山県有朋が海軍建設に努力したし、陸軍首脳らは山本の「海上権」を理解して一致協力して国難に立ち向かってもきた。これは、北岡伸一によれば「彼らは、薩長や組織に分かれて激しく争ったが、明治国家の建設を担ってきたという自負と責任感から、いざという場合には協力することを忘れなかった」からであり、彼らの大部分は元武士だったため、軍事に対する偏見もためらいもなかったからでもあった。

 しかし、日露戦争以後は次第に陸海軍の対立が激化するようになる。それは、北岡が「藩閥型のシヴィリアン・コントロール」と呼ぶ、いざという時の陸海軍を協力させる機能が藩閥の勢力の衰えとともに弱まったからであり、帝国国防方針に象徴される陸海軍戦略の不一致が放置され続けたからでもあった。

【主要参考資料】 黒野耐著『日本を滅ぼした国防方針』(文春新書、2002年)、常廣栄一「海陸軍が陸海軍になった日」(「水交」20-3・4)、伊藤正徳著『大海軍を想う』(光人社NF文庫、2002年)、森本忠夫著『魔性の歴史』(文藝春秋、1985年)、千早正隆『日本海軍の戦略発想』(プレジデント社、1982年)、北岡伸一「海洋国家日本の戦略-福沢諭吉から吉田茂まで」石津朋之、ウィリアムソン・マーレー編『日米戦略思想史』(彩流社、2005年)

※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。