シーパワー500年史 28

 日露戦争に勝利し、ローズヴェルト大統領の仲介で講和条約が締結され、日本も列強の一角を占めることになりました。日米の友好関係と日英同盟が合わさって強固な日米英関係ができあがります。日本とロシアは満州の権益を分け合う形で関係が好転しますが、今度は満州への進出を狙うアメリカと日露両国が対立する形になってゆきます。

 アメリカ国内でも対日世論は悪化します。日本移民の問題や日本が非白人の一等国として出現したことが脅威とみられるようになったのです。アメリカは対日戦争計画であるオレンジ計画を立案し、グレート・ホワイト・フリートを派遣し典型的な砲艦外交を展開します。

▼新たな日米関係のはじまり

 日本は日露戦争の結果として、東アジアで権益を拡大してきた英仏独露といった欧州列強に新興勢力として仲間入りすることになった。

 日米関係も新たな段階に入った。ローズヴェルト大統領は、中国における門戸開放とアメリカの勢力圏さえ尊重されれば、日本が自前の勢力圏を築くことは問題ないと考えていた。アメリカ自身が中南米を勢力圏に組み込んでいる以上、日本が東アジアで勢力の拡大を目指すことは受け入れられるというわけだ。日米は、韓国における日本の優越的な支配権とフィリピンにおけるアメリカの統治を相互に承認する「桂・タフト覚書」に合意し(1905年)、同年の第二次日英同盟成立により、極東における日英米の堅固な関係ができた。

▼友好から対立へ

 その一方で、中国進出に出遅れていた日米のうち日本が先に満州の利権を獲得したため、アメリカは門戸開放を求めて満州の鉄道路線を国際管理下(中立化)に置いて中国に参入することを構想する。

 同じ頃、中国大陸進出を狙っていたアメリカの鉄道王ハリマンは日本が獲得した南満州鉄道の共同経営を申し出て、桂首相と予備協定を結んだ(桂=ハリマン協定、1905年)。世界一周鉄道建設の野望を持っていたハリマンは、アメリカが共同経営に参加すればロシアの復讐戦を抑止できるなどと説得したのだ。これに対しポーツマス講和会議から帰国した小村は、苦労して獲得した利権が損なわれることに反対し、アメリカとの協定を破棄してしまう(1906年)。

 日露両国は、講和直後こそお互いに再戦を警戒していたが、戦争と革命で疲弊したロシアはフランス資本に従属する形となって英仏連合の側につかざるを得なくなった。さらに日本と北部満州の権益を維持するためには日本との協調が必要となり、日露協約(1907年)で北満州をロシア、南満州を日本としてそれぞれ権益を分け合うことに合意し、日露関係はむしろ好転していた。

 日本は南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立して南満州鉄道の経営および鉄道付属地での行政などをおこなったが、これは東インド会社などの植民会社にならった国策会社であったちなみに鉄道付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部がのちの関東軍だ。一方のアメリカは門戸開放を主張して満州進出を強めたので、満州をめぐって日露両国がアメリカと対立する形となってゆく。

 このような状況を反映して、アメリカ国内の対日世論も変化する。一般のアメリカ人は、急増する日本移民への反発を強めていたが、当時盛んだった黄禍論も手伝って、日露戦争の勝利で出現した非白人の一等国日本を脅威と見るようになったのだ。

 サンフランシスコ学童隔離事件(1906年)は、日本人学童が公立学校から排除されたことで起きた騒動だったが、地元新聞の煽動も手伝って日本移民排斥運動へ発展した。日本政府としても、不平等条約に始まる近代化の歴史があるため、一等国になった国民意識を背景に日本人移民に対する差別は到底看過できるものではなく強く抗議した。事態を重視したローズヴェルト大統領が収拾に乗り出し、「日米紳士協定」(1907-08年)で一応の沈静化が図られた。

▼対日戦争計画 -オレンジ計画

 この頃の日米関係の緊張を背景として、アメリカは対日戦争計画であるオレンジ計画(War Plan Orange)を策定した。計画は、西太平洋における日本の奇襲と攻勢、消耗戦とアメリカ軍の反攻、日本封鎖という3段階からなる概念レベルのものだったが、太平洋戦争までの対日戦略策定の前提であり続けた。

 この計画では、日本の攻撃に対するフィリピンとグアムの防衛がポイントとなるが、米本土から7,000マイル、ハワイからでも5,000マイルも離れており、1,500マイルしか離れていない日本の先制攻撃を防ぐのは不可能と考えられた。また、第2段階以降は戦域が広大となることから、国家総力戦にならざるを得ず、距離の克服と兵站支援がカギとなることが予測されたため、アメリカはその解決のための研究を続けることになる。

▼グレート・ホワイト・フリートによる砲艦外交

 1907年、日米関係をさらに緊張させる出来事が起きる。ローズヴェルト大統領が、周囲の反対を押し切って戦艦16隻からなる「グレート・ホワイト・フリート」を14ヶ月間にも及ぶ世界周航(1907-09年)に出発させたのだ。これは、国内的には西海岸の米国民に対する海軍力の誇示と海軍拡張に向けた米世論の喚起を狙い、対外的には日本に対する威圧と世界に対しての国威の発揚を目的とするもので、典型的な砲艦外交だった。

 また軍事的には、主力艦隊を大西洋から太平洋に移動させる検証と長距離航海で疲労したロシアのバルチック艦隊が日本海海戦で完敗したことから、オレンジ計画で想定される渡洋作戦の演習も目的としていた。

 艦隊は急遽整備して間に合わせた戦艦16隻で編成し、アメリカ海軍には石炭補給船が8隻しかなかったので、49隻もの外国商船を傭船して世界中の寄港地に配置して燃料炭の補給を行った。また、スパイ対策が不十分との批判を受けないよう日本人のコック等は出発前に退艦させられた。東海岸を出発した艦隊は、パナマ運河が建設中だったためマゼラン海峡を回ってハワイ、ニュージーランド、オーストラリア、日本、清国、フィリピンなどを経てインド洋に入り、スエズ運河を抜けジブラルタルに寄港して帰国した。

 その頃の日米関係は緊迫の度を増していた。日本移民排斥運動が激化した際、ローズヴェルトが在フィリピン米軍司令官に日本軍に対する防衛準備命令を出すという騒ぎが起きたり(1907年)、各国のマスコミが日米戦争の可能性を無責任に書き立てたりしたのだ。

 このため日本政府は来航するアメリカ艦隊に威圧されたと見られることを避けるため、あえて訪日要請という形をとるとともに、積極的に歓迎して友好ムードを盛り上げて乗り切ることにした。米艦隊16隻は「三笠」ほか同数の日本艦隊とともに横浜沖に投錨し(1908年)、東京や横浜での熱烈な歓迎を受け、その報告を受けた大統領も満足し険悪だった日米関係も修復へ向かった。

 こうした歓迎の一方で、日本は前年に策定した帝国国防方針でアメリカを第一の仮想敵国にしていたこともあり、横浜沖には旧式艦や戦利艦を並べて歓迎する一方、それ以外の艦艇は外洋で臨戦態勢をとらせて「明治41年海軍大演習」を実施していたのだ。

 緊張した日米関係は、前述の「日米紳士協定」とそれに続く「高平・ルート協定」(1908年)で太平洋の現状維持、清国の領土保全と機会均等を確約したため、日米は協調路線に戻ることになった。

【主要参考資料】 田所昌幸・阿川尚之編『海洋国家としてのアメリカ』(千倉書房、2013年)、田中航「グレート・ホワイト・フリートの世界周航」『世界の艦船』(海人社、1984年6月号)、『「決定版」太平洋戦争①「日米激突」への半世紀』(学習研究社、2008年) 

※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。