シーパワー500年史 27

 日清戦争の背景には、不凍港を求めて南下するロシアの脅威がありました。産業革命のおかげでネイヴァル・ルネッサンスが起きたように陸軍でも技術革新が起き、鉄道を使った戦略的な展開が可能になり、ロシアは長大なシベリア鉄道を建設し、その極東戦略を着々と進めました。

 日本は、日英同盟を結び日露戦争を戦い、日本海海戦で完勝を収めます。この日本海海戦が世界に大艦巨砲主義を広めるのに一役買うことになり、日本海軍はこの成功体験にとらわれ艦隊決戦一本槍の傾向を強めてゆくことになります。

▼義和団の乱と「極東の憲兵」

 ロシアは李鴻章に賄賂を贈って露清密約を結び(1896年)、旅順及び大連を長期借款し、シベリア鉄道から連なる満州の鉄道網を独占して1903年には大連、旅順まで開通させた。

 大陸国家は、産業革命の成果である鉄道網の拡大を陸軍の戦略的な動員、展開に応用して、その戦力を増大させる時代になっていたのだ。

 この頃、列強の侵略に反発し西洋文明を否定する民衆蜂起である義和団の乱(北清事変)が起き、清朝の鎮圧が不徹底だったこともあり北京を占領してしまう(1900-01年)。

 これに対し自国公館と居留民保護のために欧米列強と日本は兵力を派遣するが、最も多かったのは日本とロシアだった。ロシアは、先の密約に基づいて大軍を続々と送り込み1900年には兵力10万名に達して満州を支配した。日本は、ロシアの権益拡大を警戒するイギリスからの再三の要請もあり、当初の海軍陸戦隊に加えて1コ師団などを派遣した。

 日本としては、乱の鎮圧に加えてロシアをけん制するとともに、「極東の憲兵」として列強の一員として存在感を示し、不平等条約の改正の一助とすることも目的であった。桂太郎陸相は、この派兵を「列国の伴侶となる保険料」と呼んだ。

 北京の公使館区域では籠城戦となったが、マクドナルド英公使を助けて各国軍隊の指揮をとったのが公使館付武官であった柴五郎陸軍中佐であり、その武士道精神は各国の賞賛を集めた。その後マクドナルドが駐日公使となったこともあり、日英関係は一気に接近し日英同盟締結に結びついてゆく。

▼日英同盟締結

 日英同盟協約は、強まるロシアの極東進出への対抗を目的に締結され(1902年)、四ヵ国条約締結(1923年)まで続いた。その内容は、締結国が1国との交戦に至った場合、同盟国は中立を守り他国の参戦を防ぐこと、また2国以上との交戦に至った場合には同盟国は参戦することを定め、対象地域は中国と朝鮮とされた。

 1905年の更新で、対象地域にインドを加え、1国以上との交戦で同盟国が参戦するよう強化された。さらに1911年にはアメリカを交戦相手国から除外するように改正され、同盟の規定により第一次世界大戦には日本は連合国の一員として参戦することになる。

 ロシアは、満州からの撤兵を各国から強く要求されたが応じずにいたところ、日英同盟が締結されると、3回に分けて撤兵することに態度を急変させた。しかしロシアは1回目の撤兵の後、かえって軍事占領を強化する協定を清国と結んで居座る姿勢を見せ、朝鮮国境付近を占領し(1903年)、侵略行為をエスカレートさせた。

▼対露開戦へ

 朝鮮半島も占領しかねない勢いのロシアに危機感を持った日本は、ロシアの鉄道網が単線で輸送能力が限られ、極東艦隊が拡張の途上にある今なら勝ち目があると考え、開戦決意を持って対露交渉を行ったが埒があかなかった。

 日本の世論が、陸相クロパトキンの日本を含む極東視察に刺激されて対露主戦論で盛り上がる一方、ロシアも着々と対日戦争準備を進めた。 

 この頃、日本海軍は日清戦争での黄海海戦の教訓を反映した六六艦隊(戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻で編成する艦隊)を完成しつつあった。当時、日本海軍78隻26万トンに対して極東ロシア海軍は68隻19万トンを保有し、日本がやや優勢であったが、バルチック艦隊が来援すると51万トンになり逆転する計算だった。

 なお、日本海軍には開戦直後に最新鋭装甲巡洋艦2隻が加わるが、これはアルゼンチンがイタリアに建造発注した新造艦を日本に譲渡したものだった。同盟国イギリスの応援があったことはいうまでもない。

 陸軍も日清戦争以来の倍増計画で20万人の兵力を整備し、総合的には極東ロシア陸軍を凌駕するとみられた。軍部からは日露対決に軍事的成算ありとの判断が示され、御前会議でも開戦やむなしの意見で一致したが、明治天皇の「今一度」の指示でロシアに口上書を送った。

 ロシアの回答は来ないまま、ロシア艦隊旅順口出港の至急電が入り御前会議において開戦を決定、国交断絶を通告した(1904年)。

▼仁川沖海戦 旅順口奇襲

 出撃した連合艦隊は陸軍部隊を仁川に揚陸し、あたりのロシア艦を撃破した(仁川沖海戦)。旅順口の奇襲は、夜戦の経験不足などで成果は上がらなかったが、警戒を怠った旅順艦隊は、当夜、長官主催の舞踏会で多くの士官が艦を離れていたため反撃できず、大混乱のうちに港内に避退するのがやっとだった。

 港内に引きこもり要塞砲に守られた旅順艦隊に対して、連合艦隊は港口を沈船で閉塞して艦隊を無力化しようとするが、敵砲台に閉塞船の進入を拒まれ失敗した。この時、決死隊の指揮をとって戦死して初の軍神として称えられたのが広瀬武夫中佐だ。

 奇襲と閉塞戦に失敗した連合艦隊が機雷封鎖戦に切り替えると、ロシアの旗艦を触雷沈没させることができたが、日本側もロシアの機雷によって多数撃沈されてしまった。その後の連合艦隊は、ひたすら旅順港外で待機して敵の出撃を待つしかなくなる。

 この頃、ロシアは極東の形勢を一転させるためにバルチック艦隊を派遣することを決定したが、その航海は7カ月を要する困難なものとなる。

▼黄海海戦と旅順包囲戦

 旅順艦隊はロシア極東総督からの強い要請で何度か出港を試みるが、そのたびに港外に待機する連合艦隊の一撃で港内に舞い戻っていた。このように要塞の砲台に守られ、その範囲内での行動に終始する艦隊の用法を「要塞艦隊」という。旅順港内に籠って半年が経つころ、ついに艦隊はウラジオストックへ向かえとの勅令を受ける。

 意を決して出撃した旅順艦隊であったが、その先頭艦に命中弾を受けると大混乱に陥り、被害を受けつつ大部分は再び旅順に逃げ込んだ。連合艦隊の方も水雷部隊の不振で夜戦に持ち込めず敵を取り逃がし、1隻の敵艦撃沈もないまま海戦が終わった(黄海海戦)。

 旅順港に潜むロシア艦隊はバルチック艦隊の回航を待つものと見られた。日本としては、それまでに太平洋艦隊を撃滅して、傷んだ連合艦隊各艦の整備、再訓練を済ませて決戦に臨む必要があった。このため、陸軍は旅順要塞への攻撃を繰り返し、多大の犠牲を払ってついに港内を望む203高地(爾霊山)を占領、陸海軍の重砲で旅順港内のすべてのロシア艦隊を撃破した(旅順包囲戦)。

▼浦塩艦隊との戦い

 浦塩(浦塩斯徳、ウラジオストック)艦隊は、装甲巡洋艦3隻などで日本艦隊の警戒網をかいくぐって出撃し、日本海や朝鮮海峡で陸軍の輸送船を撃沈し多くの陸兵が失われた(1904年、常陸丸事件)。さらに太平洋側でも通商破壊戦を展開し、東京湾沖に現れたときには関東一円の国民を恐れさせた。ロシア艦隊に振り回された第二艦隊に対する国民の不満は高まり、上村司令長官を「露探(ロシアのスパイ)提督」と誹謗中傷したり自宅に投石されるなどの事態となった。

 その後、浦塩艦隊は旅順艦隊の出撃に合わせて南下を試みるが、ついに上村艦隊に捕捉され、壊滅的な被害を受け再起不能となった。この蔚山沖の海戦の勝利で、連合艦隊は極東海域の制海権を握ることができた。

▼日本海海戦 -大艦巨砲主義への道

 長途ウラジオストックを目指すバルチック艦隊は、途中、同盟国イギリスによって寄港や補給を妨げられ、マダガスカルに達した頃には旅順は陥落し奉天会戦で陸軍も撃破され、前途暗澹たる困難な航海を続けざるを得なかった。

一方、旅順艦隊を撃滅した連合艦隊は内地に帰投し、整備補給を終えて鎮海湾に進出して猛訓練を繰り返しながら待機した。

 バルチック艦隊は、仏領インドシナのカムラン湾で後続の艦隊を待ったが、同盟国のフランスから退去要求を受け、停泊地を移動させられ、そこからウラジオストックに向かったが、日本はその後の消息がつかめなくなった。しかし、艦隊から分離されたロシアの輸送船が上海に入港した情報が得られ対馬海峡通過の公算大と判断すると、やがて洋上の日本側哨戒網が艦隊を捕捉した。

 東郷司令長官は、さきの黄海海戦で敵を取り逃がした苦い経験から研究を重ね、砲戦に最適化した「T字戦法」を採用して戦い、ロシア艦隊の主力艦をすべて撃沈、捕獲した。これに対し日本側は水雷艇3隻を失ったのみであり、海戦史に残るパーフェクトゲームをとなった(日本海海戦、1905年)。なお、海戦の1カ月余り後、講和交渉を有利に進めるための材料として樺太上陸作戦が行われた。

 日本海海戦は、島国が大陸の大陸軍国の侵攻を海戦で食い止めた例として、古代のサラミスの海戦(前480年)やアルマダの海戦(1588年)に匹敵する意義をもつものといえる。また、砲戦によって戦艦を撃沈して勝利した結果を受け、4か月後にはイギリスで「ドレッドノート」が起工され、世界に大艦巨砲主義が広まるきっかけともなった。

▼近代兵器の実験場となった戦争

 近代砲術の確立によって戦艦の備える大口径砲はその威力を発揮できるようになったが、実際に戦艦同士が砲火を交えたのは日露戦争でのことだった。この戦争で厚い装甲によって防御された戦艦がはじめて砲弾によって撃沈されたのだ。

 しかし日本側の発射した重砲弾がロシア戦艦の装甲を貫徹したのではなく(日本軍の徹甲弾の信管の問題もあった)、非装甲部分に命中炸裂して火災やスプリンター(弾片)被害を起こして戦闘力を奪ったのだ。さらにロシア側を不利にしたのは石炭の積み過ぎで復元力が低下した上に、舷側の装甲帯がほとんど水線下になり、装甲の薄い部分への命中弾でできた破孔からの浸水で転覆沈没した例が多かったことである。

 このように戦艦同士の対戦は、重砲対装甲の競争という単純な図式のみではなく、非装甲部分の損害に対する考慮、火災、浸水を局限するための設備など総合的なダメージ・コントロールの考え方が重要視されるようになる。また、両軍とも単縦陣で対戦したが、日本艦隊が2~3ノットの優速をいかして常に有利な位置を占め、戦闘の主導権を握ったことも勝因の一つであった。

 水雷兵器については、すでに日清戦争で日本の水雷艇が威海衛に停泊していた清国の装甲艦など4隻を撃沈した(1895年)。日露戦争では、開戦直後の旅順口奇襲ではロシアの戦艦2隻などに魚雷を命中させたが、黄海海戦での日本駆逐艦による大規模な洋上襲撃は失敗に終わった。日本海海戦(1905年5月)では、駆逐艦と水雷艇で戦艦2隻撃沈など大きな戦果をあげた。

 日露戦争で最も戦果をあげた水中兵器は機雷だった。両国艦隊が対峙した遼東半島の沿岸では、互いに相手艦艇の航路上に多数の繋維機雷が敷設され、日本は戦艦など11隻、ロシアも戦艦など3隻を失った。

▼戦争の終結

 日本海海戦で勝利すると、ローズヴェルト米大統領の仲裁で講和交渉が行われることになった。戦争前から大統領はじめ多くのアメリカ人有力者は日本を支持しており、特に戦費調達では同盟国イギリスさえ日本の勝利を危ぶんだためロンドン市場での調達はうまくゆかなかったが、ユダヤ人銀行家による支援を受けてニューヨークの金融市場で調達できた。

 講和を渋るニコライ2世を説得したのもローズヴェルトであり、彼は日本を支援してロシアの満州進出を排除することを意識していたし、戦場で勝利した日本が相応しい見返りを得るべきとも考えていた。日本は国力の限界に達しており、一方のロシアは陸上において依然として優勢であったものの、海戦の敗北に強い衝撃を受け、不穏な国内情勢をかかえていたためポーツマスにおいて講和会議に臨んだ。

 1905年、ポーツマス条約が締結され、ロシアは満州から撤兵し、日本に南樺太を割譲し、遼東半島の租借権と鉄道(長春~旅順口)を譲渡するとともに、日本の韓国における独占的地位を承認することになった。

【主要参考資料】 外山三郎著『日清・日露・大東亜海戦史』(原書房、1979年)、外山三郎著『日本海軍史』(教育社歴史新書、1980年)、青木栄一著『シーパワーの世界史②』(出版共同社、1983年)、田所昌幸、阿川尚之編『海洋国家としてのアメリカ』(千倉書房、2013年)、伊藤正徳著『大海軍を想う』(光人社NF文庫、2002年)

※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。