シーパワー500年史 26
明治海軍は、懸命の体制づくりに取り組んで日清戦争に臨みますが、それは軍創設後わずか20年あまりのことでした。日清戦争当時の日本周辺の列強の状況、戦争の展開、そして日露戦争への道をたどります。
▼グローバルな英露抗争と朝鮮半島
山県有朋が日本として影響力を確保すべき「利益線」として論じたのは朝鮮半島だったが、そこはグローバルな英露抗争の最前線でもあった。南下政策をとるロシアは、イギリスによって地中海やインド洋への南下をトルコやアフガニスタンで阻まれ、極東では朝鮮半島において妨害される。
ロシアは清国から沿海州を獲得してウラジオストック港を開いたものの、さらに不凍港を求めて対馬を一時占拠するが、イギリスの介入で撤退させられた(1861年)。代わりにロシアが極東艦隊の給炭基地として目をつけたのが朝鮮半島と済州島の間に位置する巨文島だった。
ロシアが巨文島を狙ってくることを見越したイギリスは、ロシアによる朝鮮の併合阻止を口実に東洋艦隊から軍艦3隻を派遣して、同島(ポート・ハミルトン)を占拠し、砲台や兵舎を建設、上海との間に海底電信線を敷設した(1885年)。その後、ロシアが朝鮮の現状維持と領土不可侵の確約をすると、イギリスは同島から撤退した(1887年)。
清国の属国であった朝鮮は、のちの日清戦争後の下関条約(1895年)で「完全無欠の独立自主の国」となる。しかし、清国の後ろ盾を失った皇帝高宗は、ロシアに接近して日本をけん制するため、皇太子とともにロシア公使館に逃げ込んだため(1896-97年)、結局、朝鮮政府は完全にロシアの影響下に入ってしまった。ちなみに、高宗は何かあると米仏露の公館に逃げ込み、列強や宮廷内の権力争いに翻弄された皇帝として知られている。
高宗を取り込んだロシアは旅順の租借に成功し(1898年)、同地を太平洋艦隊の根拠地として軍港・要塞として開発した。さらにロシアは、朝鮮半島南岸の馬山浦を占拠し、単独租界を設置しようとして失敗したが(1899年、馬山浦事件)、朝鮮半島は日本の脇腹に突きつけられた匕首(あいくち)のようなものと考えられており、この半島を支配しようとするロシアの動きは日本に危機感を与えた。
日清戦争前の明治政府は当面の仮想敵国を清国としたが、潜在的な最大の脅威は不凍港を求めて南下するロシアであることに変わりはなく、その意味でロシアの脅威は日清戦争の隠れた背景だった。
▼朝鮮をめぐる日清の対立と開戦の決定
日本は欧米を手本に近代化に取り組んでいたが、アジア諸国は欧米列強により植民地化されていた。「眠れる獅子」清国は列強から、清国が属国とする朝鮮は南下するロシアからそれぞれ虎視眈々と狙われており、列強の動きに歯止めをかけるには清国の覚醒と朝鮮の独立を促す必要があるというのが明治政府の考えだった。
日本の軍艦が砲撃された江華島事件(1875年)の処理で、日本が朝鮮を独立国として扱うと、清国は強く反発する。一方、朝鮮国内では独立開化を目指す親日派が勢力を得て、清国依存の守旧派との権力争いが激化した。
前述のとおり壬午の変や甲申の変に際して日清両国は出兵するが、劣勢な日本は居留民保護が精一杯で、政権は清国に依存する守旧派(閔妃一族)に握られた。その後も朝鮮の独立を認めない清国と日本の関係は好転しなかったが、親日派の指導者金玉均が暗殺され、死後に死刑宣告され残忍な凌遅刑にされると日本の世論は激昂した(1894年)。
時を同じくして朝鮮全土に起こった東学党の乱(甲午農民戦争、1894-95年)の鎮圧に朝鮮政府が清国の出兵を求めると、日本政府も清国の2倍以上の兵力を派遣する。東学党の乱は間もなく鎮圧されたため、日本政府は派兵の目的を日清共同での朝鮮の内政改革に切り替えるが、清国が朝鮮の改革を拒否し撤兵を要求してくると、日本政府は清国と断交し、開戦を決意した。
壬午の変以後、仮想敵国を清国に定めて軍備増強に努めた結果、陸軍は勝算ありと考えていたが、海軍は兵力、練度とも清国海軍がなお優勢とみて、大本営の作戦計画では海軍が制海権を握れない場合の作戦も立案されていた。
▼豊島沖海戦と高陞号事件
宣戦布告前であったが、豊島沖で遭遇した日清の艦隊間で交戦が起き日本側が勝利して(豊島沖海戦、1894年)、日清戦争の戦端が開かれた。
この海戦の直後、清国が傭船した「高陞号」(英船籍)が現場海面を通りがかったため、巡洋艦「浪速」(艦長東郷平八郎大佐)が臨検すると船内から清国兵士や武器が発見された。同船は拿捕を拒んだため、警告後「浪速」が撃沈した。この事件に英国の世論は激昂したが、戦時国際法に合致した行為だったことが明らかになると鎮まり、かえって日本海軍の評価を高めることになった。
▼黄海海戦-速射砲と単縦陣の勝利
黄海、渤海付近の制海権を巡って連合艦隊と北洋艦隊の間で起きたのが黄海海戦(1894年)であり、その頃実用化された中口径(4~6インチ)の速射砲の有効性が証明される。
両艦隊とも性能の異なるバラバラの艦艇で編成されていたが、日本側は速力(平均10ノット)と中口径速射砲の数において優れ、清国側は「鎮遠」など装甲艦の数と大口径砲の数において優れていたが速力は平均7ノットしか出なかった。単縦陣で進む日本艦隊に対して清国艦隊はV型陣で相対したが、清国側は2,000~3,000メートルの距離からの中口径砲の猛射により火災を生じ陣形が乱れ、5隻を失って退却した。日本側に沈没艦はなかった。
当時の速射砲は毎分6~10発程度撃てたのに対し、大口径砲は数分に1発程度しか撃てず故障も多かった。また、迅速に照準を修正できる速射砲は大口径砲に比べて命中率の点でも優れていた。日本艦隊は最後まで単縦陣を崩さず、優速をいかして戦闘の主導権を握り清国艦隊の陣形の混乱に乗じて戦果を拡大した。当時の軍艦は艦内に木造部分が多かったため、一旦火災を起こすとなかなか消火できず火薬庫に引火して爆沈することも多く、この海戦で沈没した清国軍艦の大部分もこれが原因だった。
このように、中口径の速射砲や単縦陣の優位性が示され、リッサ海戦(1866年)での衝角戦法は完全に否定された一方で装甲艦の防御力が再確認された。「東洋一の堅艦」といわれた清国の装甲艦「鎮遠」「定遠」は火災による大損害に加えて200発を超える中口径砲弾の命中を被ったものの、厚さ30センチを超える装甲は打ち破られなかったのだ。装甲艦を撃破する方法はこの黄海海戦では確立されず、砲弾と装甲の対決は装甲優位のまま20世紀に持ち越されることになった。
▼威海衛の戦い
黄海海戦で大勝して制海権を握った日本軍は 陸軍部隊を遼東半島に揚陸し直隷平野での陸軍の決戦に備えた。この戦いでは日本陸軍の大勝が見込まれたが、そうなると講和の相手となる清朝の崩壊に繫がりかねないことから決戦を見送り、代わりに威海衛に潜む「定遠」「鎮遠」などの残存艦隊の撃滅と、平和条約交渉の際の譲与の材料及び将来の南方発展の基地として台湾を攻略することになった。これは絶えず戦争終結の道筋を探っていた伊藤博文首相ならではの戦争指導であり、実際、清国からの講和申し入れに繋がり戦争終結へと進むことになる。
連合艦隊は威海衛の陸上砲台を攻略した陸軍と協同し、海戦史上初めての威海衛湾への水雷艇の夜襲を敢行して「定遠」などを撃破した。北洋艦隊は降伏し、丁汝昌提督は服毒自決した。優勢を誇った北洋艦隊は、李鴻章が積極攻勢を主張する丁提督の意見を容れず、もっぱら艦隊保存策をとり陸軍直衛の沿岸行動に終始させたため、その実力を発揮することなく全滅したのだ。
李鴻章は当初からその陸海軍を信頼せず、黄海海戦で敗れた後は勝利への希望を捨て、もっぱら他力本願の和平工作に走った。為政者が自軍を信頼しないのでは、そもそも勝利の大前提が失われていたといわざるを得ない。
▼戦争の終結 -三国干渉
黄海海戦後、列強が戦後の自国の利権確保を狙って日清両国に講和の斡旋を申し出ると、李鴻章は進んで応じた。講和条約では、朝鮮の完全な独立を認める(大韓帝国)ほか、遼東半島と台湾の割譲、2億テールの賠償金などが調印された。しかし批准交換を行う直前、ロシアが主導する形で独仏を加えた三国の干渉を受け日本はやむなく遼東半島を放棄した(1895年、三国干渉)。日本の世論は激しく反発したが、日本政府は「臥薪嘗胆」を合言葉にロシアに対抗すべく軍備増強を加速することになる。
日本海軍は、初めての対外戦争である日清戦争に連合艦隊を編成して全力で臨み、思いがけない大勝を得て将来の海軍建設に向けて展望を開くことができた。また、黄海海戦で本隊と遊撃隊の連携が成功したため、戦艦と巡洋艦の組み合わせである「六六艦隊」の発想が生まれた。一方で、開戦から黄海の制海権の確保まで時間を要したことは、陸軍にも早期の制海権獲得の重要性を認識させることになり、後の日露戦争では開戦劈頭の旅順口奇襲として生かされた。
▼福沢諭吉の海洋国家論
ところで、この頃の海軍拡張論は貿易国家論と強く結びついていたのだが、それをもっとも強く主張したのは福澤諭吉だった。福澤は清国やロシアとの海軍拡張競争を強く支持し、朝鮮の金玉均ら開化派を熱心に支援し、日清戦争に対しては私人として全国で3番目に多い寄付を行ったほどだった。三国干渉後は、日本は露仏独に対して優位を占めるべきとして、清国からの賠償金はすべて海軍拡張に充て、さらに増税をしてでも増強すべきと主張した。
また、日本が独仏露から干渉を受けたのは同盟国を持たなかったのが原因であるとして、その相手国としてイギリスを挙げた。これは単なる勢力均衡ではなく、日本が貿易国家として発展することが最も必要であり、世界の貿易の中心が英米だったからである。
対清政策については、領土獲得よりも貿易の拡大が重要という考えであり、福澤は「本来吾々の目的は支那の土地に非ず、其土地は何人の手に帰するも、商売の自由に差し支えなからんには毫も頓着せず、望む所は只商売の一事のみ」(『時事新報』1898年2月25日)と述べている。福澤の海軍拡張論はこのための「利益線」を確保しようとするもので、貿易国家論に基づくものだった。
さらにこの考え方は、イギリスの非公式植民地の考え方やアメリカの唱える門戸開放・機会均等主義なども相通じたことから海洋国家である日英米協調論とも結びつき、東アジアにおける列強の関係は大陸国家群である独仏露と対立する構図となっていた。
▼日露戦争への道
列強は、日清戦争の結果を日本の強さというよりも清国の弱さと受け止めた。また、日本の講和条約交渉における領土要求は、戦争目的である朝鮮の独立とは相容れないもので、台湾を割譲させたことは列強の領土欲を刺激することになった。
日本に先を越されまいと焦った列強は三国干渉を行うとともに、清国の対日賠償金として借款を供与し、その見返りに次々に租借地や鉄道の権益を獲得していったのだ。特に、ロシアは日本に放棄させた遼東半島南端の旅順、大連の租借、さらに満州支配から朝鮮にまでその勢力を伸ばし、日本人の敵愾心を激化させ日露戦争に至ることになる。
日清戦争はまた、日本経済の飛躍的発展をもたらしたため、必然的に大陸に市場を求めるようになった。しかし、そこはすでに列強の角逐の場となっていたため、日本もその一角を占めて列強並みの帝国主義政策をとってゆくことになり、次第に福澤が説いたような貿易国家論に基づいた海洋国家のあり方に反する方向に向かってゆく。
【主要参考資料】 外山三郎著『日清・日露・大東亜海戦史』(原書房、1979年)、外山三郎著『日本海軍史』(教育社歴史新書、1980年)、平間洋一「中国海軍の過去・現在・未来」『波濤』(兵術同好会1998年10.7)、石津朋之・ウィリアムソン・マーレー編『日米戦略思想史』(彩流社、2005年)、青木栄一著『シーパワーの世界史②』(出版共同社、1983年)
※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。