シーパワー500年史 25
若きアメリカで海軍が創設されたものの、南北戦争の後始末のおかげでネイヴァル・ルネッサンスの波に乗り損ねました。今回は、世界をリードする現代の米海軍からは想像できないような「ニュー・ネイヴィー」の姿とその発展、そして何よりもアメリカがどのようにして海洋国家になっていったのかを見てゆきます。
▼ニュー・ネイヴィーの建設とマハンの登場
海外植民地を持たなかった若きアメリカにはイギリスのような「海洋の支配」という概念がなかったため、その海軍の役割は沿岸防備と通商保護・破壊の二つに限定されていた。したがって海軍兵力としては沿岸用装甲砲艦や小型のフリゲートが主力となったので、ニュー・ネイヴィーの建設は旧式化した木造フリゲートを防護巡洋艦に置き換えることから始まった。
初期の「ABCDシップス」は期待された性能からほど遠く、「ドルフィン」に至っては「軍艦というより遊覧船」といわれたほどアメリカの建造能力は低く、装甲板なども輸入に頼っていた。装甲艦として最初に建造された3隻のインディアナ級戦艦も低乾舷、低速、低航続力(わずか500マイル)であり、およそ外洋で行動できるような艦ではなかったが、軍艦建造を続けるうちに国産能力は向上していった。
このように沿岸防備海軍を脱しきれずにいたニュー・ネイヴィーの発展の理論的支柱になったのがマハンだ。マハンは1890年に『海上権力史論』を著し、海洋国家イギリスの歴史から、植民地の支配、植民地と本国を結ぶ海上貿易が富の源泉であり、商船隊、海軍力、港湾施設などを総合した「シー・パワー」がパクス・ブリタニカを確立したと論じた。そして、シー・パワーを決定する要因として、国土の地理的条件、国土面積、人口、国民文化(海洋性、航海技術)、政府の性質(政府の海洋戦略)をあげ、アメリカが海洋国家として発展する道すじを示した。
マハンは、この著書を通じて、世界的勢力となったアメリカにとっての海軍のあるべき姿をイギリス海軍に求め、将来のアメリカ海軍は沿岸防備や通商破壊戦ではなく、世界の海で制海権を握れるような戦艦を中心にしたものにすべきと説き、アメリカの政治家たちの超党派的な共感を得るに至った。
このような新しい考え方で近代化を進めたのはトレイシー海軍長官(1889-93年)だった。彼は「我が国が必要とする海軍は戦いをしなくてすむような海軍である。しかして、戦いをしなくてすむような海軍とは、戦いを遂行できる海軍にほかならない」として在任中に4隻の戦艦建造を議会に承認させた。これを皮切りにアメリカのニュー・ネイヴィー建設が加速することになる.
▼フロンティアの消滅と海洋国家としての発展
世紀の転換期にあたりパクス・ブリタニカが終焉に向かい、19世紀初頭から「明白なる天命(manifest destiny)」として西進政策を推し進めてきたアメリカは、西海岸の各州を1848年までに獲得して太平洋国家となった。この5年後にはペリーが浦賀へ来航し、アメリカは日本、清国、シャム、朝鮮半島など積極的にアジアに介入するようになるが、このような膨張政策は歴代政権のなかに反帝国主義をとったものもあったことから一貫せず、19世紀末には一旦完全に停止された。
アメリカの膨張主義が再び動きだすのは、アメリカの世論が世界最大の経済大国となった自国にふさわしい地位を求めたことに加えて、ドイツの脅威がきっかけだった。西太平洋で勢力を拡大しつつあったドイツがサモアを巡ってアメリカと摩擦を生じたところに、ドイツの帝国主義政策を警戒していたイギリスがアメリカをドイツに対する防波堤とみなしてフィリピンの領有を強く促したのだ。
さらに、1890年にフロンティアが消滅すると西部開拓に依存したアメリカ経済は大転換期に直面し、新たな市場の確保が国家的な命題となり、マハンの『海上権力史論』がローズヴェルト大統領をはじめとする膨張主義者らの野心を刺激したことも大きな要因だった。
▼米西戦争 ―植民地帝国の仲間入り
世界の列強入りをしたアメリカとニュー・ネイヴィーがはじめて経験した対外戦争が米西戦争であった。アメリカにとってキューバは重要な貿易相手国で米国民の感情も好意的だったが、そのキューバをスペインはラテン・アメリカに残された拠点的な植民地として弾圧していたので、米国民の反感を買っていた。
1898年、キューバで反スペイン蜂起が起こると、アメリカは自国民保護を口実に戦艦「メイン」をハバナ港に派遣する。停泊中の同艦が謎の爆沈事故を起こして乗組員266名(うち日本人8名)が死亡すると、アメリカはスペインに対してキューバからの即時撤退要求を突き付けた。スペインがこれに対してアメリカへの宣戦布告で応えると、煽動的な新聞報道も手伝ってアメリカ国内の世論が先鋭化し、ついにアメリカも宣戦布告するに至った。
戦争はアメリカの一方的な勝利に終わった。まず香港にあったアメリカのアジア艦隊はスペイン領フィリピンのマニラ湾に入り、スペイン艦隊を全滅させた。またキューバに急派されてきたスペイン艦隊を港内に封鎖し、脱出をはかる同艦隊も全滅させた。
後にヘイ国務長官が「素晴らしい小戦争」と呼んだことでもわかるように、わずか4か月の戦争でアメリカはスペインを破り、キューバ、プエルト・リコを勢力下に組み込み、さらには太平洋上のグアム、フィリピンまでも獲得した。こうしてアメリカは本格的な海外植民地を手にし、植民地帝国の仲間入りを果たした。
▼フィリピンの獲得と日米接近
アメリカの海洋国家としての性質を決定的にしたのがフィリピンの獲得だった。いったんアジアに関与し始めると、欧州列強が我先に「アジアの病人」清国の利権の獲得競争に乗り出すなか、アメリカも乗り遅れまいと清国に対する機会均等の原則をうたった第一次門戸開放宣言(1899年)で自国の国益確保を図ろうとした。
アメリカがフィリピンを獲得した年、ドイツはスペインからサイパンを獲得し、これにより太平洋上の米独間の対立が鮮明となり、アメリカを一流の海洋国家に発展させなければならないというローズヴェルトの決意を一層強固なものにした。同年のハワイ編入も、アメリカの海洋政策に大きな影響を与えたことは言うまでもない。アメリカはフィリピンとハワイを領有したことにより、アジア太平洋地域にも利権を持つ海洋国家になり、それまで欧州と中南米中心だった外交もアジア中心へ転換した。
アメリカの工業力は1894年に世界第1位に躍り出たものの、当時の海軍力では欧州列強からフィリピンを防衛できる状況ではなかった。このため、アメリカは日本との関係を見直してアジアにおける戦略的なパートナーシップを組む相手と見なすようになる。アジアの中で「脱亜入欧」「富国強兵」のスローガンのもと、唯一近代化に成功し、日清、日露戦争での勝利後、非白人国家として文明圏の一員となったのが日本だったのだ。
太平洋を挟んだ日本との連携が可能になるのはアメリカが海洋国家になったからであり、次に述べるようにローズヴェルト大統領の時代には日米の新時代が築かれることになる。
▼ローズヴェルト登場
米西戦争におけるアメリカの手際の良さは、当時海軍次官であったセオドア・ローズヴェルトの「功績」もある。38歳で海軍次官に就任したローズヴェルトは、海軍省にあまり姿を見せない長官にかわって実務を取り仕切っていた。彼は、キューバを巡るスペインとの戦争は不可避であるとの判断から戦艦6隻、巡洋艦6隻からなる海軍の大拡張計画を打ち出し、軍港の近代化などインフラ整備を進めるとともに、海軍情報局を創設するなど海軍の増強に努めた。
「メイン」爆沈事故に際しては、ローズヴェルトは勝手に長官名を使ってアジア戦隊を香港に回航させマニラ湾の封鎖を命じてしまう。すでに腹をくくっていた彼は、米西戦争が勃発すると次官をさっさと辞任し、志願兵からなる「ラフライダース連隊」を結成して自らキューバに出征し勇名を馳せる。英雄となった彼はニューヨーク州知事に当選するが、共和党の長老らから厄介者扱いされ、空席になっていた閑職の副大統領に追いやられた。ところが、マッキンリー大統領が就任半年で暗殺されたため、ローズヴェルトは図らずも大統領を引き継ぐことになったのだ。
▼セオドア・ローズヴェルト -現代米海軍の父
セオドア・ローズヴェルト大統領(在任1901-09年)は、米西戦争以後、アメリカ海軍を急ピッチで拡張して「海洋国家アメリカ」の建設に邁進した。幼少時から海軍好きだった彼の大学卒業論文は『1812年の海洋戦争』であり、この執筆を通じて海軍関係者との人脈を広げており、彼は海軍の理解者にしてマハンの信奉者でもあった。
ローズヴェルトはアメリカの外交政策の道具として海軍を強化するため、莫大な支出に二の足を踏む連邦議会に対して世論を味方につけながら説得した。海軍拡張の支援団体としてネイビー・リーグ(Navy League of the United States)も設立され(1903年)、海運、貿易、造船、兵器関係の業者、政治家がその会員となり、「戦艦は戦争より安い」として海軍拡張の圧力団体として機能した。
こうして彼の任期中に新たに16隻の戦艦の建造が決まり、大統領就任時に世界第5位であったアメリカの海軍力は、8年後にはイギリスに肉薄する第2位となった。しかし、ローズヴェルトの強引な政策に議会内の反対も大きくなり、その後の建艦は旧式艦の代替建造のみに限ることにされた。これにより建艦ペースは一気に落ちたが、それでも世界第3位の海軍としての地位は保たれた。
この政策転換直後にイギリスで「ドレッドノート」が登場し、彼が苦心して建造した戦艦群は一挙に第二線級となってしまった。ローズヴェルトは、ドレッドノート革命に対抗するためにアメリカ版のド級戦艦の建造を命じ、日露戦争の戦訓から駆逐艦を導入するとともに、潜水艦の有用性を認めて潜水艦乗りの給与を大幅に引き上げ、アメリカ海軍におけるエリートとして位置づけるなどの改革を行った。こうしてローズヴェルトは「現代海軍の父」と称されるようになった。
▼棍棒外交
ローズヴェルト大統領は、アメリカ艦隊を外交政策の道具として積極的に使ったことでも知られる。「大きな棍棒を携え、穏やかに話す(speak softly and carry a big stick)」という「棍棒外交」を実行したのだ。
1902年、ヴェネズエラの外債支払いが滞った際、債権国のドイツが艦隊を派遣して海上封鎖をするという露骨な砲艦外交に出た。これに対してローズヴェルト大統領はモンロー主義を振りかざして激しく抗議した。世界各地に派遣されていた戦艦を大西洋艦隊に集めてカリブ海でアメリカ海軍史上最大の演習を実施してドイツ海軍を引き揚げさせ、ヴェネズエラの外債問題をアメリカの調停のもと解決したのだ。
これより前、英領ギアナとのヴェネズエラ国境紛争(1895-96年)で、英米は戦争直前の緊張状態までいったが、この時も中米で紛争を起こす余裕がなくなっていたイギリスを譲歩させ、アメリカの調停で和解させている。この頃からイギリスとアメリカの力関係の変化が明らかとなり、パクス・ブリタニカからパクス・アメリカーナへの移行の時期が近づいてくる。
▼ハワイの海軍基地化
ドイツを仮想敵国として艦隊の主力を大西洋に配備するという考え方は、ローズヴェルト以後の政権でも踏襲された。しかしアメリカはフィリピンを植民地にして以来、アジア海域におけるシー・パワーの動向に強い関心を持つようになり、太平洋へも強力な艦隊を配備して日本やアジア方面ににらみを利かすべきという考えも政治家の間で次第に大きな勢力となった。
このため、米海軍が大西洋と太平洋との間で艦艇を迅速に移動できるようにするパナマ運河の建設が求められるとともに、広大な太平洋に給炭設備をもつ基地も必要とされた。そこで注目されたのがハワイだ。
ハワイ諸島は19世紀中頃には、すでにアメリカの捕鯨船の補給基地となっていた。1893年に革命がおき、それまでのカメハメハ王朝からアメリカ人植民者を主力とする革命政府の統治となった。この時、日本は邦人保護のため東郷平八郎率いる巡洋艦「浪速」など3隻を派遣している。
革命政府はハワイのアメリカへの併合を要求したが、アメリカ政府は露骨な侵略行為と見られることを懸念してこの時は拒絶している。しかしハワイの戦略的価値の魅力は大きく、アメリカ政府は1898年に自治領として編入し、1900年には准州として完全にアメリカの一部にしてしまった。
1909年、アメリカは米本土からグアム、フィリピンに至る重要な中継地としてパール・ハーバーに海軍基地建設を開始した。アメリカ西海岸からフィリピンまでは7,000マイルもあったが、ハワイからだと5,000マイルに短縮され、ドイツ領のサモアとサイパンまでも、それぞれ2,600マイルと3,900マイルとなり太平洋ににらみを利かす態勢ができた。ただし当時の基地は小規模なものであり、太平洋艦隊が常駐するような造修施設を持つ一大基地に変容するのは第一次大戦後のことである。
▼パナマ運河の建設
ハワイの海軍基地に加えて必要とされたのがパナマ運河であったが、その戦略的意義をマハンは次のように論じている。「もし運河が完成されてその建設者の希望が実現するならば、カリブ海は今日のような、局地的交通の終点と場所、ないしはせいぜい途切れ途切れの不完全な交通線に過ぎない地位から、世界の大公道の一つに代わるであろう。(中略)この通路に関する合衆国の一は、イギリスのイギリス海峡に対する、また地中海諸国のスエズ運河に対する位置と同じようなものになるであろう。」
(マハン、52頁)
アメリカ政府はパナマ地峡の運河用地を租借しようとしたが、コロンビア政府との交渉が難航するとパナマ州で起きた大地主の反乱に軍艦を派遣し、強引にパナマ共和国を独立させたのである(1902年)。アメリカは運河の両側の各5マイルを「運河地帯」として永久租借権を得て、実質的にアメリカの領土と同じになった。
運河は風土病や難工事を克服して1914年、第一次大戦勃発の当月に開通した。これによりニューヨークからロサンゼルスまでの航路はマゼラン海峡経由の約4割に短縮され、スエズ運河とともに世界の海上交通に重要な役割を果たし、アメリカの太平洋、東アジア進出の玄関口にもなり、軍事的にも経済的にも大きな利益を受けアメリカの海洋戦略は勢いを増すことになった。
艦隊を素早く大西洋と太平洋側に展開させられるのは海軍作戦上、極めて大きな効果があったものの、運河を通航するには軍艦を閘門の幅以下に設計しなければならず、後に戦艦や航空母艦の巨大化とのジレンマに悩まされることになる。
▼両洋艦隊構想の誕生
マハンは、海軍力は集中して運用すべきであるとして、大西洋と太平洋に分散することを嫌っていた。この考え方に影響されたローズヴェルト大統領は、後任のタフト大統領にパナマ運河が完成するまでは戦艦部隊を大西洋と太平洋に分散させないよう助言しているほどだ。
大西洋では英米協調が進展していたこともあり、イギリス海軍に次いで世界第2位のドイツ海軍がアメリカにとって最大の脅威だった。また、ドイツは西太平洋においてもマーシャル諸島やマリアナ諸島を領有していたため、その海域で行動するアメリカ領フィリピンのアメリカ艦艇にとって不安要因になっていた。さらに、ドイツは南米でも影響力の拡大を図っていた。
太平洋では、日露戦争後の日本の強大化がアメリカの懸念材料だった。この時期、マハンはローズヴェルト大統領への書簡で「日本人移民はアメリカに同化せず、アメリカを植民地化し、事実上併合することになります。もし拱手傍観するならば、二〇年のうちにわが太平洋岸はアジア人の領土となるでしょう」と強烈な反日的、人種差別的発言を行っている。
こうした考え方から、両大洋の脅威に同時に対処できるように、大西洋と太平洋にそれぞれ独立した強力な艦隊を配置すべきとの主張がなされた。しかし、このためには巨額の予算を必要とし、さすがに高度経済成長を続けてきたアメリカでもなかなか実現は難しかった。
この考えが現実の計画となるのは1916年で、時の海軍長官の名前をとってダニエルズ計画と呼ぶ。3年間で戦艦、巡洋戦艦16隻を含む157隻80万トンあまりの大建艦計画だった。しかし、この翌年には第一次大戦に参戦し船団護衛用の駆逐艦等を多数急造しなければならなかったため計画は遅れ、主力艦の半数は大戦終結後に起工されることになる。
【主要参考資料】 青木栄一著『シーパワーの世界史①』(出版共同社、1982年)、青木栄一著『シーパワーの世界史②』(出版共同社、1983年)、堀元美著『帆船時代のアメリカ 上、下』(原書房、1982年)、田所昌幸・阿川尚之編『海洋国家としてのアメリカ パクス・アメリカーナへの道』(千倉書房、2013年)、アルフレッド・T・マハン著北村謙一訳『マハン海上権力史論』(原書房、2008年)
※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。