シーパワー500年史 24

 もうひとつの新興国であるアメリカの海軍がどのように誕生したか、大陸国家だったアメリカがどのように海洋国家になっていったかを今回から2回にわたってたどりたいと思います。

▼大陸海軍の創設と廃止

 1775年にアメリカ独立戦争が起きた時、アメリカ東部沿岸の制海権はイギリスが握っていた。英海軍は七年戦争後の予算削減で大幅に戦力が低下していたとはいえ、ほとんどの植民地の主要都市に対して妨害されることなく進攻でき、アメリカ側の海上交通を遮断し各植民地を分断して植民地の経済に大損害を与えた。一方のアメリカ側に英海軍を撃退する手段はなく、海運、漁業に従事していた多くの人々はそれぞれの船舶を武装し私掠船としてイギリスの海上交通を攻撃したのである。

 こうした状況を打破するために13植民地の代表による大陸会議は海軍委員会を設置し、とりあえず8隻の商船を買い入れて武装し大陸海軍(Continental Navy)を創設した(1775年)。この大陸海軍はアメリカ沿岸や北大西洋での通商破壊戦で活躍したほか、沿岸要塞と連携して浮砲台としても行動したが、最も戦果をあげたのは私掠船であった。

 大陸会議は1776年に独立を宣言、同年から私掠免許状を発行したが各州も独自に免許状を出し、開戦後2年間に少なくとも136隻の私掠船が艤装され、1781年にはその数が449隻に達した。アメリカの私掠船はバルト海からカリブ海に及ぶ広大な海域で活動し、戦争を通じてイギリス船3,000隻以上を捕らえており、大陸海軍が捕らえた200隻弱と比較するとイギリスの通商に与えた脅威の大きさが分かる。

 1778年にフランスが米側に立って独立戦争に参戦すると戦況は一変し、派遣された仏艦隊は強大な英艦隊をけん制して大陸海軍や私掠船の活動を助け、アメリカの独立に最も貢献した海上勢力となった。また、アメリカの私掠船はフランスの港湾を根拠地として利用できたことから、イギリス近海で通商破壊戦を展開し大きな戦果をあげ、創成期の米海軍を象徴する英雄とされるジョン・ボール・ジョーンズのような艦長も現れた。

 1783年にイギリスがアメリカ合衆国の独立を認めた時(バリ条約)、大陸海軍の艦艇はわずかに3隻になっており、独立を達成したアメリカ政府は当面の財政難を乗り切るためにあっさり大陸海軍を廃止してしまった。

▼アメリカ合衆国海軍の創設

 イギリスがアメリカの独立を承認した頃、ヨーロッパはナポレオン戦争の終わる1815年まで長い動乱の時代にあった。この間、アメリカは中立国の立場をとったため、その商船隊は世界の海を自由に行動し莫大な利益を得ていた。

 しかし、この商船隊にも危険がなかったわけではない。北アフリカ海域で頻繁に出没したバーバリー海賊である。これら海賊はそれぞれの根拠地の太守の公認で行っているもので、その取締りも太守次第ということになる。イギリスやフランスなどの大海軍国なら自国商船を護衛できるが、それができない国は太守への贈り物により安全を確保するのが普通だった。

 アメリカはすでに海運界において世界的な地位にあったが、海軍を持たなかったため、太守への贈り物で商船の安全を確保していた。運悪く船員が捕らえられたら身代金を払うことにし、贈り物と合わせた経費が海軍を持つ経費より少なくて済めばよし、と考えていたのだ。

 このような「割り切り」をしていたアメリカ政府も、1793年以降フランスの私掠船が西インド諸島に現れフランス以外のヨーロッパ諸国に向かう商船の捕獲を始めると海軍の必要性を認めざるを得なくなった。1794年、フリゲート6隻の建造を認める海軍法(Naval Act)が議会に承認され、およそ10年の空白を経てアメリカに海軍が再建された。

 その後も海賊の脅威が一段落すると海軍不要論が再燃する場面があったが、1798年にフランスとの間で私掠船問題についての交渉が決裂すると、それまで消極的だった議会もついに海軍増強を急務と考えるようになり、国防省(War Department)から海軍省(Navy Department)を独立させるとともに、アメリカ沿岸のフランス軍艦と私掠船に海軍で対処することを決議した。

 

 その後、財務省の下に設けられたコーストガードの前身である税関監視船隊(Revenue Marine)とも密接に協力しつつ、海軍工廠の建設や関連する産業の育成を含む海軍の建設が進められた。大きく発展した商船隊は熟練した軍艦乗組員の供給源としても重要な役割を果たした。

▼ジェファーソン軍縮とトリポリ戦争

 1800年、フランスとの和約が成立した年の大統領選挙では軍縮主義の共和党が勝利した。対フランス戦で膨張した海軍予算はたちまち大ナタを振るわれ、多くの軍艦が売却され士官も整理された。

 しかしジェファーソンが大統領に就任した1801年には、早くも次の戦争を戦わなければならなかった。トリポリの太守との間で海賊取締りとそれに対する代償金の交渉が決裂したことによるトリポリ戦争である。アメリカ艦隊は地中海に入り、トリポリを封鎖した。遠征艦隊の隻数は十分でなく有能な艦長も不足していたが、1805年にはトリポリの太守が大幅な譲歩を行ない戦争は終結した。

▼1812年戦争とアメリカ海軍

 1812年、アメリカはイギリスとの戦争に再び突入した。すでに双方の軍艦の小競合いが起き、英海軍は慢性的な乗員不足の解消のためアメリカ商船を臨検してイギリス国籍を持つ船員を片端から拉致し、1万名以上のアメリカ人船員を英海軍に強制的に入隊させていたため、アメリカ国民の対英感情は極めて悪くなっていた。

 これらの背景に加えて、アメリカはカナダに対する領土的野心を持っていたことが対英宣戦を決定的にした。フランスとの長年の戦争でイギリスは新大陸を顧みる余裕がないだろうとの判断もあった。しかし、ナポレオンがモスクワ遠征に失敗すると、情勢は急速にイギリスに有利となり、強力な艦隊がアメリカ沿岸へ展開し厳重な封鎖を行なうとともに、カナダの英陸軍は南下してアメリカ国内に侵入する態勢をとった。

 英海軍の封鎖は厳しかったものの、トリポリ戦争で経験を積んだ艦長らは全力でイギリス商船に対する通商破壊戦を展開し、その海域は大西洋全域から一部は南太平洋に及んだ。この戦争でも私掠船約200隻が出撃して商船1,300隻以上を捕らえた。

 カナダから南下を図る英軍によって米陸軍はしばしば危険な状態に陥ったが、アメリカの湖上艦隊はエリー湖海戦、シャンプレイン湖海戦でイギリス艦隊を撃破し、その侵入を阻止した。1815年、両国とも決定的な勝利を収めることなく、カナダとアメリカ、メイン州との国境を画定して、この全く得るところのなかった戦争に終止符を打った。

 ちなみに、この戦争では首都ワシントンが陥落し、焼け落ちた大統領府を白く塗装したことからホワイトハウスと呼ばれるようになった。また、アメリカ私掠船の根拠地であったバルチモアにあるマクヘンリー要塞の戦いは最もし烈な戦いとなり、その様子がアメリカ国歌「星条旗」に歌われている。

▼ナポレオン戦争後の海軍政策論争

 1812年戦争は無益な戦いであったが、大西洋での通商破壊戦における英米のフリゲートの一騎打ちでの「武勇伝」は国民の間に広く伝えられ、海軍の存在意義を強く印象づけたことは確かであった。このこともあり、戦後は海軍の拡張に関して積極論と消極論の違いこそあれ、海軍不要論のような極端な議論はもはやなくなった。

 議会で海軍の拡張を支持したのは、主として海外貿易や漁業が盛んなニューイングランド諸州から選出された議員であり、内陸部や南部諸州の議員の海軍に対する関心は薄かった。積極論者は、戦列艦を多く建造して主要な港湾や交通上の要地に配備することが敵の封鎖や上陸作戦を阻止する最良の方法であるとし、この考え方で初めての長期建艦計画が1816年に承認された。

 これに対して消極論者は、軍艦より海岸の要塞を建設したほうが良いとか、平時は海賊対処用の小型軍艦を保有し有事には大型艦を緊急建造すればよいなどと主張した。積極論者にせよ消極論者にせよ、沿岸要地の防衛と外洋における通商破壊戦を戦時の海軍の主任務と考えていることは共通していた。また、多数の戦列艦の建造を主張しても、その用法は各要地の防衛に分散配備することであり、これを集中させて艦隊を編成し敵の主力艦隊の撃滅を図るという艦隊決戦の考え方はまだ見られなかった。

▼海軍組織の発達

 米海軍は当初から文民の海軍長官のもと、シビリアンコントロールの仕組みをもった初めての海軍といわれている。海軍の成長にあわせて、その運営のための組織として海軍長官のもとに海軍委員局(Board of Navy Commissioners)が設置され、3名の海軍士官が海軍委員に任命された(1815年)。海軍の基本的政策を決めるのはあくまで政治の仕事としつつも、軍艦の建造から運用、維持管理、人事、予算に関することは海軍委員が担当し、必要に応じて海軍長官に助言したのである。

 アメリカ商船隊の行動海域の拡大に合わせて軍艦の海外派遣も増えたが、1812年戦争後は海域ごとに配備された戦隊(squadron)から派遣されるようになった。地中海戦隊と西インド戦隊はそれぞれ北アフリカ諸国とメキシコ湾・カリブ海の海賊対処のために、アフリカ戦隊は奴隷貿易船取締りのためにそれぞれ編成、配備され、その他太平洋戦隊、ブラジル・南大西洋戦隊、東インド戦隊が配備された。

▼南北戦争におけるアメリカ海軍

 南北戦争(1861~65年)開戦時、海軍の大部分は北軍に属することになり、海上の戦いの主導権を握った。圧倒的に優勢な北軍はすべての南部港湾に対する封鎖作戦を行ない、その経済活動に打撃を与えるとともに兵器調達を妨害した。封鎖に対する南部の反撃は散発的だったが、実験的ながらも水雷、機雷、水雷艇、潜水艇、気球などの新兵器が用いられた。

 特に封鎖作戦には沿岸用の装甲砲艦が投入され、それまでの海戦の様相を変えてしまった。北軍の「モニター」と南軍の「ヴァージニア」である。これらは、ごく低い乾舷と構造物を持った蒸気機関で走る装甲艦であった。在来の木造帆船は装甲艦の砲火と衝角突撃の前には無力であり、南北の砲艦同士が砲火を交えても双方とも砲弾は船体を貫通せず、装甲の効果を立証した。

 このほか、ミシシッピー川やテネシー川では陸軍と協同した蒸気力河用砲艦が活躍し北軍が水路を掌握した。また南軍は、当初は私掠船により、後にはヨーロッパで購入した船体をバハマ諸島で武装して軍艦に仕立てて北軍に対する通商破壊戦を行ったが、大勢を変えるには至らなかった。

▼進歩から取り残されたアメリカ海軍

 南北戦争が終わった時、アメリカ海軍の艦艇勢力は約700隻、50万トンに達していた。その内訳は、沿岸防備用のモニター型沿岸用装甲砲艦と通商保護・破壊戦用の在来型の汽帆両用木造フリゲートなどであった。これらの艦艇は戦後急速に削減されたのだが、ちょうどネイヴァル・ルネッサンス全盛の時代でもあったので、アメリカ海軍が世界の技術革新から取り残される一因となった。

 アメリカは、19世紀前半に急速に領土を拡大し大陸国家としてのかたちを整えた。南北戦争後は、ホームステッド法(5年間の開拓で160エーカー(約65ha)の土地を無償で得られる)でヨーロッパからの大量の移民を呼び込んで西部開拓を進めた。

 移民の輸送は折からの蒸気船時代が支えた。西部開拓では鉄道建設などのインフラ整備を進めた結果、急激な経済成長を遂げ、1880年代にはいり、アメリカはそれまでの農業国からカーネギーやロックフェラーの成功に象徴されるような大工業国となりヨーロッパと対等の世界的勢力として発展した。

 進歩から取り残された海軍についても近代化の必要性が認識され、一旦はハント海軍長官のもとで68隻の鋼鉄艦の建造計画が立てられたが、ガーフィールド大統領暗殺の余波で頓挫してしまった。結局建造されたのは、防護巡洋艦アトランタ(Atlanta)、ボストン(Boston)、シカゴ(Chicago)と通報艦ドルフィン(Dolphin)の4隻のみで、頭文字をとって「ABCDシップス」と呼ばれた。この4隻の建造によって「ニュー・ネイヴィー」の再建が始まることになる。

【主要参考資料】 青木栄一著『シーパワーの世界史①』(出版共同社、1982年)、青木栄一著『シーパワーの世界史②』(出版共同社、1983年)、堀元美著『帆船時代のアメリカ 上、下』(原書房、1982年)、田所昌幸・阿川尚之編『海洋国家としてのアメリカ パクス・アメリカーナへの道』(千倉書房、2013年)、

※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。