シーパワー500年史 2

 前回は海上覇権の移り変わりを概観したので、今回は海洋のもつ特質とそもそも海軍がどのように生まれたのかを述べたい。

 ▼コミュニケーションの場としての海

 海は台風や津波などの自然災害をもたらす一方で、輸送や通信などのコミュニケーションの場である。また、食糧、鉱物、エネルギーなどの資源獲得の場ともなっており人類は限りない恩恵を受けてきた。そして、これらの恩恵をめぐる国同士の利害対立がしばしば紛争の原因ともなってきた。

 わが国が、シー・パワーとしての歩みを始めたのは大航海時代以来の西洋との「出会い」からだったことは、海のコミュニケーション機能を象徴している。高坂は次のように述べている。

 「それまで日本は東洋と西洋のコミュニケーションのルートのもっとも端に位置し、したがって西洋文明の影響を直接に受けるということはなかった。新航路の開拓は、海を渡ってきた西洋諸国に日本が直接触れることを可能にしたのである。やがて、蒸汽船が発達し、海洋交通が発達するにつれて、日本はこの世界的な交通の影響をより激しく受けるようになった。」(高坂 2008, 195)

 このような「出会い」には海図の発達も大きく関係しているが、後に触れることにする。いずれにせよ海上交通による輸送の特徴は、陸上・航空輸送に比べると低速であるが、重量・距離当たりのコストが格段に低く、重量物や大型の貨物の輸送も容易であることだ。海上輸送能力は、経済発展に必要とされる効率的な物流を支えるために極めて重要である。海に囲まれたわが国では、貿易量(輸出入合計)の 99.6%(2019年度、トンベース)を海上輸送が占めており、このうち約6割の輸送を日本商船隊(日本船社が運行する船)が担っている。

 海のもう一つの役割は通信である。海底ケーブルによる通信は、海上覇権を支えるうえでも重要な役割を果たしてきたと土屋は指摘する。(土屋 2013, 149-166)19世紀半ばに実用化された海底ケーブルは、イギリスの植民地統治などに威力を発揮したが、20世紀に入るとアメリカも参入して太平洋をカバーするケーブル網が完成する。1970年代後半からは一時、衛星通信優位の時代となるが、1989年以降は新たに開発された光海底ケーブルが敷設されるようになり、世界全体で120万km、地球30周分もの長さのケーブルを用いて国際データ通信の99%を担っている(2019年現在)。

 海底ケーブルは今や国際的に重要なインフラであるが、2001年には台湾と米国を結ぶ「米中海底ケーブル」が上海沖で切断して、台湾全土のネットが一時マヒした(日本経済新聞2001/2/10)ことは大きな懸念を引き起こした。深海に敷設される海底ケーブルの損傷はまれとされるが、浅海部分では錨などによる破損のほか意図的な切断の事例もあり、陸揚局などの防護とならんで脆弱性の克服が課題だ。

▼資源の供給源としての海

 海洋資源の観点からは、人類と海との最も古くからの関わりであった漁業があげられる。漁業が産業として確立したのは、16世紀のオランダのニシン漁からであり、その後タラ漁、捕鯨などと発展した。19世紀には蒸気船が導入され、漁法の改良とあいまって漁獲量の飛躍的な増加につながった。

 漁業国と沿岸国の漁業資源をめぐる摩擦の歴史は長く、古くは英蘭戦争(1652~74年)の例がある。戦後はタラ戦争(1958~76年)などを引き起こすほどで、最近もイギリスのEU離脱交渉(2020年)で漁業権の問題が最後まで論点となったのは記憶に新しい。

 日本周辺は世界三大漁場のひとつであり、漁業は日本人の食生活を支えてきた。わが国の食料自給率は38%(2019年、カロリーベース)に過ぎないが、魚介類は56%(2019年、重量ベース)となっている。わが国は明治以降、世界有数の遠洋漁業国となったが、国際的な水産資源管理の流れや捕鯨の禁止、操業コストの上昇などから近年は衰退の傾向にある。

 水産資源以外の海洋資源としては石油・天然ガスなどのエネルギー、鉱物資源、再生可能エネルギーなどがあげられる。特に海底油田の埋蔵量は世界の油田の約1/4を占め、大陸棚など浅海に多いことから、沿岸国の利権争いを引き起こしやすい。

 日本では、近年、周辺海域で海底熱水鉱床やコバルトリッチクラストなどの鉱物資源、メタン・ハイドレードなどのエネルギー資源が発見され有望視されている。波力・潮力などの再生可能エネルギーの開発も可能になりつつあるが、いずれの資源も商業的な活用には、開発技術の実用化に加えて資源価格の変動が大きく影響している。

▼軍事活動の場としての海

 海はまた、大昔から軍事活動の場でもあった。大海原は一見、何の障害物もなく活動しやすそうに見えるが、強い卓越風(ある期間もっとも吹きやすい風)や海流、天候の急変、暗礁などの航海上の危険を秘めており、無数の船乗りの命を奪ってきた暴虐さは帆船時代から変わらない海の本質だ。現代の海軍は、水中、上空、宇宙を含む3次元の空間で活動するようになったが、刻々変化する海の環境条件をどう活用できるかが作戦のカギであることは帆走海軍時代と同じだ。

 船の航跡はすぐに消えて陸地のような轍は残らない。しかし、港や基地を結ぶ線、岬、海峡、中継地となる島など、海上交通の集中する航路や集束点(チョークポイント)は存在し、戦略的に重要な海域となる。水陸両用作戦など沿海域の作戦では、陸地に囲まれた湾や閉鎖海、その出入口の海峡、列島や群島によって区切られる海域の存在、さらには港や基地の後背地の状況、上陸する海岸の広さや傾斜などが重要になる。

 わが国は、世界第6位の広さの排他的経済水域を持つ一方で、南北に長い国土は縦深に乏しく、中国の2倍以上の長大な海岸線、6,800余りの多数の島があり、安全保障上の脆弱性は高い。また、日本列島は大陸に対してオホーツク海、日本海、東シナ海といった閉鎖性の海域を形作っているため大陸勢力と海洋勢力のせめぎ合う場所となっている。

▼海上戦闘の起源

 現代の海軍を簡単に定義すれば、「国家に属する海上において活動する軍事組織」といえるだろう。海軍は、有事には海上において戦闘力を発揮し、平時には抑止力として用いられるほか、警察力や外交手段として活用されることも多い。国によっては、海軍とは別にコースト・ガード(沿岸警備隊)を持つところもあるが、その場合の海軍との任務の切り分けは様々である。

 そもそも海上における戦闘はどのように始まったのだろうか。青木は二つの起源をあげている。(青木 1982, 26-27)

 一つは商品を運ぶ船や沿岸の町を襲い、掠奪をする「海賊」との戦いである。ハイリスク、ハイリターンの「海賊稼業」は、人間が武器を持って船で自由に移動できるようになったと同時にはじまったと考えられている。海賊に対抗するために武装した海上商人が他の船を襲う海賊となることもあり、「海上商人ときどき海賊」といった感じで両者の境界線はあいまいだった。また海賊が沿岸の町々を襲ったように、陸上の武装勢力も沿岸や港にいる海上商人の船を襲うこともしばしばで、こうした歴史のなかで、海上独特の戦闘方法や武器が発達していった。

 もう一つは海を隔てた国家同士が戦う場合である。船は陸兵の運搬手段として使われたほか、海上での戦闘力として敵味方の船団が戦うこともあった。国家は、普段から多くの船を保有しているわけではなく、必要に応じて急造したり商人たちから徴用することも多かった。戦いが終われば商人の船は返され、使いみちのなくなったその他の船は放置されて朽ち果てるのが普通だった。

▼海軍のはじまり

 国家が多数の船を保有するようになったのは、ヴェネチアやジェノバのような海洋都市国家が始まりだ。12世紀に国営造船所を設置したヴェネチアは多数の国有の船を商人に貸し出すとともに、植民地警備のためにガレー船の常備艦隊も保有していた。これらガレー船の大部分は、平時には商人に貸し出され、有事になると戦闘用に艤装されて容易に軍艦となった。

 ジェノバの「海軍」は、国家の統制をきらい各個に行動する商人たちが、有事には指導者の指揮のもとまとまって戦うスタイルだ。普段から海賊行為を行なっていた彼らは、地中海の覇権をめぐるヴェネチアとの戦い(1256-1381年)では艦隊を組んで戦ったし、他の戦いでは傭兵艦隊に加わることもあった。傭兵艦隊の有能な指揮官だったアンドレア・ドーレア(1466-1560年)は、イタリア海軍の戦艦名などに名を残している。

 その他の国では多額の経費のかかる常備海軍を持つ代わりに、有力な海賊を勢力下に入れて自国に忠誠を誓わせ、敵国や異教徒の商船を襲うことを公認した例がある。16世紀、マルタ島の聖ヨハネ騎士団の「海軍」は海賊そのものであり、対イスラム戦の尖兵の役割を果たしたし、同時期のトルコ「海軍」は忠誠を誓う北アフリカのバーバリー海賊が主力となりキリスト教徒の商船を襲ったのだった。このように近世の地中海世界では、平時の商船隊や海賊が戦時には容易に「海軍」になるものであり海賊と海軍はしばしば同義語として用いられたのである。

 大航海時代になり探検航海が始まるが、これは国家的事業というよりは野心満々の冒険家がポルトガルのエンリケ航海王子やカスティリアのイサベラ女王といった有力者をスポンサーとして、船などの支援や出資、成功した場合の利益配分などを定めた私的な契約に基づくものだった。

 イギリスでもドレイクがマゼランに次ぐ2回目の世界一周航海(1577-1580年)に成功した際の利益は莫大で、出資者に対して実に4,800%もの配当を行なったという。エリザベス1世もこの出資者の一人であったが、あくまでも個人としての出資でありイギリスの国家的な事業ではなかった。イギリスは、1588年にスペインのアルマダ(無敵艦隊)を迎え撃ったが、この時の「艦隊」197隻のうち王室所有船は34隻のみで残りは商人たちの船であり、海戦が終わると解散される臨時編成の「艦隊」であった。

 イギリスに強力な常備艦隊ができるのは、60年ほど後の第一次英蘭戦争(1652-54年)の頃であり、国家としてシー・パワーの意義を認め、その発展を国家目標とするようになってはじめてヨーロッパ諸国に次々と近代的な海軍が誕生するのである。

【参考資料】高坂正堯『海洋日本の構想』(中央公論新社、2008)、青木栄一『シーパワーの世界史1』(出版共同社、1982)、桃井治郎『海賊の世界史』(中央公論新社、2017)、土屋大洋「海底ケーブルと通信覇権」、田所昌幸・阿川尚之(共編)『海洋国家としてのアメリカ』(千倉書房、2013)、「米との海底ケーブル切断 台湾のネット一時マヒ」(日本経済新聞、2001/2/10)、国土交通省『海事レポート2020』、一般社団法人日本船主協会『海運統計要覧2020』、農林水産省ホームページ、KDDIホームページ

※本投稿は拙著『海軍戦略500年史』の要約抜粋で、メルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。