シーパワー500年史 18

 今回から、3回にわけてイギリスで始まった産業革命が海軍に及ぼした技術革新の状況を見てゆきたいと思います。これまでの海上覇権争いの歴史が帆走海軍によるもので、現代の私たちには少し想像しにくいところがあったかと思いますが、蒸気力海軍への転換の経緯を理解すると近代海軍によって展開される歴史がより理解しやすくなると思います。

▼技術革新の時代

 18世紀後半にイギリスで起こった産業革命は、19世紀前半にはヨーロッパ大陸やアメリカに広がった。この間に、アメリカ独立戦争(1775~83年)、フランス革命戦争(1793~1802年)、ナポレオン戦争(1803~15年)と連続したイギリスとフランスとの間の激しい海上覇権の争奪戦が繰り広げられていた。長期にわたってフランス海軍を圧倒し続けたイギリス海軍を支えたのが、産業革命で大きく成長したイギリス経済の力だったことはいうまでもない。

 その産業革命は、陸上においては様々な技術革新を起こしたが、海上においては、少なくともナポレオン戦争までは、海上の軍艦は木造の帆走艦であったし、搭載された大砲は3世紀にわたって使われてきた鋳造の前装砲(先込め砲)のままだった。したがって海戦の様子も大きく変わることはなかったのである。産業革命の成果が軍艦や海戦を大きく変えてゆくには1世紀近い歳月が必要であった。

▼ネイヴァル・ルネッサンス

 軍艦の構造と性格を大きく変えたのは、炸裂弾とスクリューの発明である。まず船体の大型化に伴い、木造では強度を保てなくなったことから鋼船になった。そして炸裂弾の発明で砲弾の威力が大きくなると、それを防ぐ装甲が生まれ、さらに鋼鉄の利用が進むという具合だ。

 蒸気機関が現れても軍艦に搭載するには、小型、軽量、大出力でなければならず、そのような蒸気機関は18世紀末までは実用化されなかった。また推進装置も、19世紀初頭に現れた外車輪は軍艦には適さないためスクリューの発明が必要だった。これらの条件がそろい、軍艦の構造や搭載兵器が大きく変わってくるのは1850年代のことである。

 いったん技術革新の成果を取り入れた軍艦や兵器の進歩のスピードは急激だった。どの国の海軍も新しい技術やアイディアの実用化を急ぎ、戦力の向上に結びつけようと躍起になった。艦砲の威力の向上とそれに対する防御方式の開発、速力や航続力の増大、艦載兵器の発達と複雑化により軍艦の役割が分化し、多くの艦種が生まれた。海軍技術が著しく発達し、海軍戦略や戦術の発達が促されたネイヴァル・ルネッサンスとでもいうべき時代の到来だ。

 ところで、技術革新はイギリスがリードしたと思われがちだが、その多くはフランスから起こり、イギリスはむしろ、おおむね受け身の姿勢で海外からの挑戦に対応したのが現実だ。その理由としては、初期の新技術は全く未成熟で実用化には何十年もかかったこと、鉄と蒸気力の利用といった分野の自国の優位性があったためその気になればすぐに追いつけたこと、さらには帆走海軍として優位にあったイギリスとしては、あえて不確実な技術体系に投資することに慎重だったことなどがあげられる。

 ちなみに日本は、ネイヴァル・ルネッサンスの時期と近代海軍の発足がほぼ同時となり、帆走海軍を飛ばして、いきなり蒸気力海軍から始めて短期間に近代海軍を建設できた。これは、その後の日本を取り巻く状況を考えると、まさに僥倖というべきことだった。

▼蒸気機関の導入

 19世紀初めには蒸気船が実用化していたが、当時の舶用機関は出力も信頼性も低く石炭消費量が大きかったためもっぱら沿岸や河川用として用いられていた。世界最初の蒸気機関を備えた軍艦は、1812年戦争でイギリス海軍の封鎖を突破しようとしたアメリカ海軍が試作した「デモロゴス(Demologos)」であったが、完成は戦争に間に合わず、そのまま予備艦として係留された。

 イギリス海軍でも外車推進の砲艦を建造したが、蒸気力軍艦の採用には消極的だった。この時期の蒸気力軍艦は巨大な外車輪が艦の中ほどに取り付けられたため、舷側に並べられる大砲の数が減ったこと、そして何より外車輪に被弾したら途端に動けなくなることが軍艦としての致命的な欠陥と考えられたのだ。

 外車輪方式の欠陥を一気に解決したのはスクリューの発明である。1850年頃には軍艦の蒸気機関、スクリュー推進が定着してきたが、しばらくは10ノット以上を出せる本格的なものと、無風時や出入港時のみ蒸気力とし航海の大部分は帆走していた汽帆両用艦の二種類が共存していた。また、蒸気機関の導入により軍艦の性能は著しく向上したが、同時に石炭の補給が行動を厳しく制約するようになり、艦隊に給炭艦を随伴させたり航路に沿って給炭のための基地を確保する必要が生まれた。

▼炸裂弾の実用化

 19世紀初頭までの艦砲は一般に先込め式の鋳造砲であり、砲弾もまた鋳鉄の球であった。砲弾は命中の衝撃で弾丸が砕け散り、その破片で乗組員を殺傷したり上甲板の設備を破壊し、索具を切断する程度の効果しかなかった。有効射程は300メートル程度であったから、敵艦とは至近距離まで近づかないと砲戦の効果はなかった。

 ナポレオン戦争の頃までには、イギリス、フランス両国で内部に火薬を詰めた砲弾、炸裂弾(Shell)の実験をしていたが、敵弾が降り注ぐ艦上でうまく導火線に点火するのが難しく、失敗すれば自爆、成功しても殺傷効果が大きすぎて非人道的と非難され、結局は実用化しなかった。

 実用化に至ったのは1820年代であり、その後各国海軍に広まった。実戦で効果が確認されたのは、ロシアが炸裂弾でトルコ艦隊を全滅させたクリミア戦争でのシノープの海戦(1853年)でのことである。

▼アームストロング砲の登場

 炸裂弾が実用化されても、砲の射程や命中率には大きな進歩はなかった。艦砲についての大きな技術革新は、1855年にアームストロング砲が発明されたことに始まる。それまでの砲が鋳造の一体構造であったものを、鋼鉄で作った砲身を二重構造で補強し、より大きな砲弾を遠くまで発射できるようにしたのだ。砲弾も先のとがった円筒形とし、砲身の内側に掘ったらせん状の溝で回転をつけることで弾道を安定させ命中率を上げた。さらに砲弾と装薬(火薬)は砲の後ろから込められるようにしたので、素早く撃てるようになった。

 このアームストロング砲は1859年にイギリス海軍に正式に採用され、各国でも改良が重ねられ1880年頃には大型の艦砲が主流となる。また装薬(発射薬)が、それまでの黒色火薬から燃焼速度を調整できる無煙火薬に切り替わったため、砲弾を高初速で発砲でき砲身重量を軽くすることも可能になった。さらに、それまでの艦砲は木製の砲車に乗せられ人力で操作されていたが、大型化したため機力で動く砲塔に据えられ、敵の砲弾から防御する装甲を施して軍艦に搭載されるようになった。

▼装甲と装甲艦の誕生

 産業革命で近代製鉄の技術が確立し鉄の大量生産が始まっても、鋼船の建造はゆっくりとしか進まなかった。鋼船は同じ大きさの木造船よりも軽く強く作れて火災に強く、水密隔壁や二重底で安全性も増すことができるのだが、水より重い鉄を使うことへの心理的抵抗感、羅針儀を狂わせる鉄の特性、炸裂弾が命中した場合に破片が飛散して乗員に危険をもたらすことなどが軍艦への採用をためらわせたのだ。

 しかし、前述したシノープの海戦での炸裂弾の木造船に対する威力が伝わると、それに対する防御を考えざるを得なくなり、装甲艦が登場する。最初の試みは、クリミア戦争のセヴァストポリ攻撃においてフランス海軍が投入した平底船体の自走式浮砲台であり、120ミリの装甲で覆われた船体に多数の砲門を設けたものだった。

 浮砲台の装甲が効果を発揮したことから、軍艦に装甲を施した装甲艦(Ironcrad)が考案された。1859年に世界初の航洋装甲艦「グロアール(Gloire)」をフランスが建造すると、あわてたイギリスは「ウォリアー(Warrior)」で対抗し、その後各国に広がっていった。

 装甲艦の登場により従来の主力艦であった木造の戦列艦の価値は一気に低下し、各国はより威力のある艦砲を搭載し、より厚い装甲で覆われた装甲艦の建造にしのぎを削った。装甲艦の数こそが各国海軍の戦力を測る物差しとなり、大艦巨砲主義につながる軍艦発達史上の最大の出来事が起きたのだ。

▼通信、信号の技術革新

 洋上での通信方式も、海戦のあり方に大きな影響を及ぼしたが、海軍で19世紀初頭まで用いられていた通信手段は視覚信号であった。艦艇間では旗による信号(旗りゅう信号)、手旗(セマホア)信号、発光信号などが用いられたが、短距離間の通信に限られ、視界の制約を受けやすい欠点はあるものの、簡便なので現在でも広く用いられている。

 1793年にはフランスで腕木の形で文字を表現する信号機が考案され、パリとブレストやツーロンといった海軍基地の間に配置され、通信文をすばやく中継・伝達できるようになった。イギリス海軍は、19世紀後半には腕木式信号機を艦艇にも装備した。

 1844年、アメリカ人モールスが電信の実用化に成功し、ヨーロッパ、アメリカ大陸は電信網で覆われた。1847年にドーバー海峡を、1866年には北大西洋をそれぞれ横断する海底電信線が開通し、各国間の即時通信が可能となり、海軍も世界各地の出来事に対し素早い対応がとれるようになった。一方で、艦艇が一旦海上に出てしまうと陸上との通信手段がなくなることは帆船時代と変わらなかった。

 これを解決したのが1896年にイタリア人マルコーニが発明した無線電信である。マルコーニの発明はイギリスで特許を取得し、無線電信の実用化への研究はイギリスを中心に行なわれることになった。イギリス海軍が初めて艦隊で無線電信を使ったのは1899年であり、改良を重ねて20世紀に入ると無線通信は海軍にとって不可欠のものとなった。

 日本海海戦(1905年)では、日本海軍は駆逐艦以上のすべての艦艇と朝鮮海峡に面した主な望楼などに無線電信機を装備して、世界で初めて海戦に無線を活用した。この海戦は、世界初めてのネットワーク中心の戦い(NCW: Network Centric Warfare)といわれている。

▼石炭から石油へ 燃料の確保

 蒸気機関が海軍艦艇に搭載されて以来、燃料である石炭もまた海戦のあり方を左右する重要な要因になった。イギリスには高熱量、無煙の優れた舶用石炭(カーディフ炭)が産出したし、多くの海軍国において石炭は国内自給可能な燃料であった。

 しかし、石炭を軍艦に搭載するのは重労働であり、ボイラーへの投入はさらに重労働である上に熟練を要する作業であった。またボイラーは数時間ごとに消火して石炭殻や灰をかき出す必要がある手のかかる燃料でもあった。これが液体である重油に置き換われば、これらの重労働から乗組員は解放されるし、ボイラーの出力向上にもつながる良いことづくめであったのだが、致命的な欠点として石油資源の偏在と自国への運搬の問題があった。

 重油化推進の旗を振ったのはイギリスの第一海軍卿フィッシャーであり、まず小型で大馬力の機関が要求される駆逐艦のボイラーを重油専焼とした。当時、イギリスでは石油は一滴も出なかったのでロシアのバクー油田から鉄道で黒海まで運び、そこで船積みしてダーダネルス海峡、地中海を経由して輸入していた。19世紀後半のロシアといえばイギリスの仮想敵国であったことから、戦時の安定供給が大きな課題となった。さらに、イギリス海軍自身が国内産の良質炭の大口顧客であり、石炭業界との利害関係から石油の全面採用に踏み切りにくいという事情もあった。

 この課題に取り組んだのが1912年当時海軍大臣であったチャーチルであり、海軍の動力源として石炭から逐次石油に代えること、安定供給のできる油田を獲得することを決断した。こうしてイギリスは、第一次大戦が勃発した1914年8月、中東での石油開発に成功していたアングロ・ペルシャ石油会社に資本参加して同社の支配権を握ることにした。中東石油に対する最初のヨーロッパ資本の参加は、海軍艦艇用の燃料確保のためだったのである。

 油田は確保しても、戦時の輸送には懸念が残る。フィッシャーは戦時消費量の4年分の備蓄を提案したが、1913年には予算の制約から6か月分の備蓄目標とされ、実際には4.5か月分が当面の水準とされてしまう。懸念は的中し、第一次大戦が始まりドイツ潜水艦がイギリスの通商破壊戦に猛威をふるった1917年にはイギリス海軍の石油備蓄は3週間分まで落ち込み、艦隊は出動を抑制されたばかりか、駆逐艦の最高速力は20ノットに制限された。近代戦における海軍の石油消費量は開戦前には想像もできない大きなものとなったのである。

【主要参考資料】ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 上、下』山本文史訳(中央公論新社、2020年)、青木栄一著『シーパワーの世界史②』(出版共同社、1983年)、小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』(原書房、2007年)、伊藤和雄「まさにNCWであった日本海海戦」『波濤』(兵術同好会、2008年9月)、田所昌幸編『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』(有斐閣、2006年)、藤井哲博著『長崎海軍伝習所』(中公新書、1991年)

※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。