シーパワー500年史 17
前回は、パクス・ブリタニカの基盤となった「貿易、植民地、海軍」の話をしました。今回は、改めて英仏抗争でフランスが負けた理由、そしてイギリスがパクス・ブリタニカを維持できた理由について整理します。
▼フランスが敗北した理由
フランスは海洋覇権の重要性を認識し、コルベールのもと当時のヨーロッパにおいて最も強力だった政府の力で海軍の増強に成功した。しかし、彼の死後はルイ14世の大陸指向政策のために国力を浪費してフランス海軍の衰退を招いてしまったことはすでに述べた。
このことについてマハンは、イギリスやオランダが数世代もかかって行なったことをフランスは「体系的かつ中央集権的なフランス流のやり方」でコルベールの施政間の数年間で成し遂げたが、「政府の措置によって強行されたこの驚くべき発展は、政府の支持がなくなるとヨナ(Janah)のひょうたんのようにしぼんでいった」と述べている。(マハン2008年、102頁)
マハンは、フランス政府が政策の優先順位を誤ったために衰退したと述べているのだが、高坂正堯は、それは確かに重要な理由であるが、フランスの敗北のより基本的な原因は、まさにマハンがあちこちで詳細にわたって論じているとして、次のように指摘している。
「マハンはフランスの海軍政策が、絶対主義権力による「強行された」ものであると書き、これに対して、イギリスのそれは海軍の育成と海運の発展とを巧みに結びつけたものであると論じた。それはより広汎な基礎を持ち、より自然なものだったのである。」(高坂正堯1996年、42-43頁)
このことは、マハンが『海上権力史論』第1章「シーパワーの要素」で明白に論じていることであり、国としての総合的な海洋政策の必要性を説いたものである。大陸国家であるフランスが、海軍増強のような「強行された」政策をとると、一時的にはよいが、長期的には、どこかに無理が生じて経済的にも過重な負担をかけるので長続きせず、放棄、縮小されざるを得なくなったのである。
高坂は、フランスの事例は政府がひとつの政策の下に国のあり方を変えることは難しいという歴史的教訓として受け取ることができると述べている。
▼パクス・ブリタニカを維持できた第一の理由
イギリスが他国に対して圧倒的に優位な状況になった理由は、イギリスが「貿易、植民地、海軍」の三角形を強固にする一方で、他国が強大な海軍を整備できず、十分な商船や海外拠点を持たず、工業力が未発達だったからだけではなかった。端的にいうと、他国がイギリスの海洋支配に対して対抗しようとしなかったからである。それはなぜか。
第一の理由は、イギリスの活動が他国にとって大きな脅威とならず、したがって海上決戦も起きなかったことである。普通ならば、圧倒的な海洋強国は他国の嫉妬を買い、恐れられ、他国がこの国に対抗することによってその行動は制約されてしまう。それが海上覇権争いの歴史だった。
しかし、1815年以降のイギリスは、東インドと西インドのかなりの部分をオランダとフランスに返還し、自由貿易を推進し、海賊を取り締まり、海上の警備に努力した。しかも自国の植民地との貿易を他国にも開放し、非公式の帝国との貿易は英海軍の砲艦によって保護された中で行われたため、イギリスの海洋支配は、より小さな海軍国や貿易国からはむしろ歓迎されていた。
また、特に19世紀前半、ヨーロッパ諸国はフランス革命の余波で起きた国内問題に忙殺されており、あえてイギリスの優位に挑戦する余力がなかったのも事実だ。このことは第2位の海軍国フランスについて特に当てはまった。帝政ロシアは自国の後進性を自覚しており、イタリアとドイツは国家の統一に向けて動き始めたところであったし、アメリカはフロンティアの西進にエネルギーを割いており、日本は未だ封建体制で鎖国を続けていたのだ。
▼第二の理由 -海洋における国際公共財の提供
第二に、イギリスは海洋における「国際公共財」を提供し、他国はそれから利益を得たことだ。まず、パクス・ブリタニカの下での自由貿易主義を反映して、「公海自由の原則」が定着してきたことがあげられる。イギリスは、トラファルガーの年に通峡儀礼の要求を取りやめるとともに、19世紀半ばには保護貿易政策だった穀物法や航海条例をあいついで廃止した。また、もともと大砲の最大射程をもとに決められた「領海3マイル説」を、大砲の射程がのびたにもかかわらず「3マイル」を主張し続け、イギリス船が自由に行動できる範囲をなるべく広く確保しようとした。
振り返ると、17世紀にグロティウスの「海洋自由論」が発表されたとき、イギリスを含めた欧州諸国はこれを直ちに受け入れたわけではなかった。しかし、18世紀から19世紀初頭にかけてイギリスを中心に自由貿易の必要性、砲艦外交など海軍の行動の自由の確保の要求から次第に受け入れられ定着するようになり、他の諸国もそれに従ったのだ。
現在では「狭い領海」と「広い公海」という考え方に、国際社会の政治的、経済的、軍事的な利益のバランスの落ち着き先が見いだされ、「領海・公海の二元的海洋秩序」が慣習国際法を経て法典化されている。
また、イギリスは海賊の抑制に努めて、海上交通路の安全確保を図った。19世紀前半までの海上交通は、自然的要因による海難を別としてもなお危険極まりないものだった。戦時には中立国の商船であってもしばしば交戦国の私掠船や軍艦によって捕らえられたし、海賊に襲われる危険は戦時、平時を問わず常に大きなものであった。なかでも地中海のみならず大西洋にも進出してキリスト教徒の商船を襲うバーバリー海賊は欧米の船乗りたちに最も恐れられた。
欧米諸国は海軍力によって海賊行為を抑えることはあったが、慢性的な戦争状態のもとでは足並みが揃わずその効果は長続きしなかった。しかしパクス・ブリタニカの下で平和が維持されるようになると、イギリス海軍を中心とした海賊に対する大規模かつ徹底的な掃討が行われるようになる。
バーバリー海賊の掃討は、1816年からフランスがアルジェを占領する1830年までかかった。東地中海とエーゲ海、カリブ海の海賊も同時期に掃討され、ゆっくりと衰退していった。イギリス海軍は、オランダ領東インドや中国近海の海賊掃討にも取り組んだ結果、海洋国家が等しく求める自由な貿易と航海にとっての重要な基盤が作られたのだ。
さらにイギリスは、貿易の促進と海難事故の減少のため、海軍が作成した海図を世界に安価で提供した。大航海時代以来、海図は国家的秘密とするのが普通だったので、画期的なことだ。
自由貿易政策を掲げてイギリス商船が世界の隅々まで進出するようになると、各地の正確な海図が求められるようになった。17世紀後半からは、フランスがリードする形で測量技術が急速に進歩し、海図の精度も高まってゆく。18世紀末になると、ほとんどの国が船舶の安全航行のために海図を公開し、世界規模で航路情報の収集と蓄積、そして共有が進められるようになったが、その先頭に立ったのがイギリスだった。
イギリスでは、当初、多くの民間会社が海図の作成、販売を担っていたが、精度や改版の遅れが問題となると、海軍は水路部を設けて(1795年)、自ら体系的な海図の作成と管理に乗り出した。特に1829年に水路部長に就任したビューフォートは、20隻もの測量船により地球規模で体系的な測量を行いイギリスの海図を一新させ、世界最高との評価を得るまでになり、オランダに代わって世界の海図を一手に供給するようになった。1862年には、14万枚の海図がイギリスで印刷されたが、そのうち7万5,000枚は外国に販売されたという。
▼第三の理由 -砲艦外交の展開
第三は、海軍力を用いた外交で「無理」をしなかったことだ。海軍力による砲艦外交で外交上の圧力をかけることは、陸軍力によるよりも迅速で、長期間行動でき、比較的安価でもある。しかし、たとえパクス・ブリタニカといわれる時代であっても、沿岸地域はともかく内陸部まで影響を及ぼすことは難しかった。
この時期のイギリスの外交政策が非常に成功した理由は、このような海軍力の特質を踏まえて、艦隊を使える場所、使うべき場所を適切に選んだからであった。また、この時代の大きな外交問題の多くは、たまたま海軍力が有効に影響力を及ぼせるものが多かったし、イギリスがライバル国の海軍力の弱さに助けられたことも事実だった。
しかし、イギリスが新たな任務を海軍に与えた結果、艦隊の展開海域はそれまでの本国周辺海域、バルト海、地中海から世界中に拡大してゆく。1817年の海外拠点に展開していた軍艦は63隻だったが、1848年には実に129隻になった。その内訳は、地中海に31隻、東インドと中国に25隻、奴隷貿易取締りのためアフリカ西岸に27隻、南米方面に14隻、広大な太平洋には12隻という具合だった。その結果、本国周辺にはわずか25隻しか残されておらず、しかも、そのうち12隻がアイルランドの内乱対応に当たっていた。さすがにこれほどの海軍力の海外展開には無理があるといわざるを得ず、18世紀半ばには、海軍力の不足、戦闘力の低下が次第に顕著になってゆく。
▼第四の理由 -安く上がったコスト
第四の理由は、イギリスの経済規模の拡大もあって、パクス・ブリタニカを維持するためのコストが安く上がったことである。海軍予算は、クリミア戦争時に一時急増するものの、19世紀前半から1890年代に入って急増するまでは安定的に漸増している。ケネディによれば、パクス・ブリタニカを維持するための防衛費は国民所得の2~3%位であり、このような高い地位をこのように安価に達成できた事例は歴史上まれであるとしている。(ケネディ2020年、295頁)
▼パクス・ブリタニカ下の地中海
地中海は、キリスト教勢力とイスラム勢力の角逐の場であり、イギリスとフランスの抗争の場でもあったが、パクス・ブリタニカのもとでその海上勢力図は大きく変化した。
第一に、イギリスはジブラルタルに加えて地中海の中央に位置するマルタ島を獲得、海軍基地を設けて地中海の制海権を確固たるものにした。また、スエズ運河の建設に対しては当初反対したイギリスだったが、開通(1869年)するとインドやアジアの植民地への連絡が格段に容易となり大きな受益者となった。その後、エジプトの財政危機でスエズ運河会社株が売りに出されると、イギリスはロスチャイルド財閥からの借金で買い取り、運河を支配して、地中海の東西の出入口を押さえてしまった。
第二は、バーバリー海賊が掃討されたこととトルコ艦隊の全滅によるイスラム勢力の衰退である。フランスは海賊退治をつうじてアルジェリア、チュニジア、モロッコを植民地とした。また、すでに衰退していたトルコは、ギリシャの独立を契機とするナヴァリノの海戦(1827年)において、英仏露によってその艦隊を全滅させられ、地中海の海上覇権争いから完全に脱落した。ちなみに、この海戦は帆船のみで戦われた最後のものであった。
第三は、その一方でロシア、イタリア、ドイツといった海上勢力が登場したことである。ロシアは1770年以降、地中海に進出して英仏とともにトルコを圧迫したが、ロシアの海上勢力が大きくなりすぎることを警戒した英仏は、19世紀後半になると一転してロシアを黒海に封じ込める政策をとった。
クリミア戦争(1853~56年)では、英仏は黒海に進入してセヴァストポリを落とし、露土戦争(1877~78)ではロシアの黒海艦隊がボスポラス、ダーダネルス両海峡を通過できないようにした結果、ロシアは第二次大戦後まで地中海の制海権争いに関与できなくなった。
イタリアは、統一イタリア王国の成立(1861年)により地中海とアドリア海における一大海上勢力となった。20世紀に入るとドイツも巡洋戦艦などを地中海に入れ、後に第一次大戦ではトルコと結んで黒海に入りロシアの海軍基地を攻撃した。
▼パクス・ブリタニカ下の大西洋
大西洋においては、1815年以降、イギリス海軍の制海権は不動のものとなり、先に述べたように海賊も駆逐された結果、海上交通の安全は大きく高められた。
一方、ナポレオンが登場してスペインとポルトガルを支配下に置くと、南米の両国の植民地では、1810年頃から各地に独立運動が起こる。ラテン・アメリカ諸国が次々と独立を宣言すると、イギリス海軍は軍艦を派遣して新しい独立諸国とイギリスとの間の貿易を保護したが、これは新たな海外市場を開拓するためでもあった。
独立の動きを押さえようとするヨーロッパの宗主国の動きに対して、アメリカはモンロー・ドクトリンを宣言(1823年)して、アメリカ諸国に対するヨーロッパの干渉を排除することを宣言するのだが、当時のアメリカにこのような力はまだなく、実行力の裏付けのない宣言だった。それでも結果的に干渉を排除できたのは、宗主国スペイン自身に革命が起きて植民地どころではなくなったこととアメリカ沿岸の制海権を握るイギリス海軍がアメリカの政策を支援したからであった。
この頃のアメリカ海軍は弱小でイギリスの制海権に影響を与えるような存在では全くなく、本格的に発展するのは、南北戦争(1861~65)後の急速な経済発展のもと1880年代から始まった「ニュー・ネイヴィー」建設からである。やがて米西戦争(1898年)でアメリカ沿岸域の制海権を握れることを示したアメリカ海軍は、20世紀初頭にはフランス、ロシアとともに世界第二位の海軍の地位を争うまでに成長する。
19世紀末になると新興のドイツ海軍が台頭して大西洋のシー・パワーに大きな影響を与えるようになるが、これは後の話である。
【主要参考資料】ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 上』山本文史訳(中央公論新社、2020年)、宮崎正勝著『海からの世界史』(角川選書、2005年)、宮崎正勝著『海図の世界史』(新潮選書、2012年)、青木栄一著『シーパワーの世界史①』(出版共同社、1982年)、田所昌幸編『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』(有斐閣、2006年)、小松一郎著『実践国際法(第2版)』(信山社、2011年)、高坂正堯著『世界史の中から考える』(新潮選書1996年)、アルフレッド・T・マハン著『マハン海上権力史論』北村謙一訳(原書房、2008年)
※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。