シーパワー500年史 15

 前回までに、英仏抗争を制したイギリスが海上覇権を握りパクス・ブリタニカを確立するところまでの話が終わりました。この後、パクス・ブリタニカのなかで、イギリスがドイツの挑戦を受けて第一次世界大戦に向かうのですが、ちょうどこの頃には帆船から蒸気船へ移行し、様々な技術革新がもたらされ海軍の形が一新される時期でもありました。そこで今回は、これまでに断片的に出てきた帆船の発達とその時代の戦術などについてまとめてみます。

▼帆船時代の船の発達

 大航海時代以前、ローマ帝国時代の地中海での戦闘ではガレー船が用いられた。これは、細長い船体に帆と多数の漕ぎ手を乗せて機敏に動き、船首の衝角で敵船に衝突し、乗込んだ兵士が白兵戦で戦うものだった。

 一般の商船はずんぐりした船体に横帆を備えて穀物などを運んだが、ジブラルタル海峡を抜けて大西洋に進出すると商船は独自の発達をとげコグ船(cog)といわれる船型となった。その後、凌波性と風上への切り上がり性能を高めたキャラベル船(caravel)を経て、船首と船尾部に高い船楼をもつキャラック船(carrack)に進化すると、14世紀末から15世紀にかけてスペインとポルトガルの探検航海に多く用いられた。コロンブスの「サンタ・マリア(Santa Maria)」などが典型的なキャラック船だ。

 16世紀に入ると船は大型化するとともに帆装もさらに進歩し、多数の大砲で武装したガレオン船(galleon)となる。一方、地中海のガレー船は多数の櫂を備えた大型の航洋帆船であるガレアス船(galleass)へと進化してレパントの海戦(1571年)でキリスト教国連合艦隊の主力となった。

 この頃の海戦は、敵味方の船を接舷させ兵士を斬り込ませる白兵戦型であり、地中海で用いられたガレー船は大西洋の荒波には適さず、かわりに一般の商船が軍艦に転用されたのは自然の流れであった。軍艦と商船との構造上の差はまだなかったのだ。

 戦争のために多数の船が必要になると、国王はコグ船を徴用して船の前後部に櫓を仮設して大砲をすえ、戦闘の指揮をとった。帆船時代の大砲は弓矢と同じく乗組員の殺傷に加えてマストや索具の損傷を目的としたものだったが、次第に大型化し16世紀には鋳造砲が実用化され19世紀初頭まで艦砲として用いられた。大砲の大型化にともない櫓も大きくなったことから、強度を確保するために船の新造時から船体と一体となった船首楼と船尾楼として設けられるようになった。やがてさらに多数の大砲を載せるために船楼が大きくなり二層、三層と積み重ねられるようになった。キャラック船の登場だ。

 キャラック船で重い大砲を積み重ねるとトップへビーとなるため、船の重心を下げるために従来貨物艙として使っていた低い場所に大砲を移して砲甲板とし、船の舷側に砲門を開けるようになり軍艦としての分化が始まった。砲甲板は二層、三層と増えていったので、商船を一時的に転用するのではなく、新造時から軍艦として別構造の船が作られるようになったのだ。

 その後も帆船の改良は進み、18世紀には2,000トンにも及ぶ大きさと数十枚の帆を備え、世界中の海域で長期間の航海が可能となった。軍艦が戦闘用の船として確立されると、当初は乗組員の数により、後には艦砲の数により等級がつけられた。イギリス海軍では18世紀初頭に一等艦から六等艦まで定められ、50門以上の砲をもつ一等から四等艦が「戦列艦」として艦隊の主力として戦列を組んで敵艦隊と砲火を交えた。20門以上の砲を持つ五等と六等艦はフリゲートと呼ばれ、通商破壊戦や艦隊の前哨部隊として活躍した。

▼シー・パワーと木材の確保

 帆船が発達して大型化してくると、その建造のための資材確保が課題となり、16世紀以降の海上勢力争いのなかで、木材供給源としてのバルト貿易が常に重要な役割を演じるようになった。

 当時の帆船には船体用としてカシ、モミ、ニレなど、マストなどの円材にはバルト海沿岸のマツが多く用いられた。三等艦1隻を建造するのに馬車2~3,000台分という大量の木材が必要とされたが、大型部材となると樹齢150年以上のカシなどが求められたので、艦隊を建設、維持するための大量の木材を確保することが国家の長期的な一大事業となった。

 イギリスの場合、国内で良質の木材を豊富に産出していたが、チャールズ1世の大建艦計画もあって17世紀には早くも造船用木材の不足をきたし、バルト海沿岸諸国とアメリカ大陸の植民地からの木材供給に頼るようになった。オランダについても同様で、バルト海沿岸諸国のカシ材を必要としていた。

 イギリス海軍は、アメリカ独立戦争や1812年戦争でアメリカからの木材輸入が途絶えて苦しめられた。フランス革命戦争とナポレオン戦争では、東ヨーロッパからイギリスへの木材供給が不安定となったため、18世紀末からカナダの森林開発が本格化し、ラテン・アメリカやインドでも艦材の確保が図られるきっかけとなった。一方のフランスはヨーロッパ大陸を征服して良質の木材を確保していながら、イギリス海軍が制海権を握っていたため海上を輸送できず、艦材の不足により艦隊の行動が制約された。

 このように帆走海軍の時代における造船用木材は戦略物資といえるもので、その確保は国家的事業であり、同時に一国の海軍戦略を左右するほど重要なものだった。

▼海上戦闘方式の発達 白兵戦型単横陣から単縦陣へ 

 帆船が軍艦としての能力を高めたことにより海戦のやり方も進歩した。古代以来の海戦は、横一列(単横陣)に並んだガレー船が敵艦に向かって突入、衝突、接舷、乗り込んでの斬り込みやマストの上からの狙撃というパターンで行われ、基本的に陸上での白兵戦を海の上に再現したようなものだった。単横陣を右翼、左翼、中央陣と分けて運動させたり、敵に対して有利な風上側に位置することなどが工夫されたが、16世紀のガレオン船の時代になっても基本的に変わらず、敵に接近したときに自在に運動できる櫂を備えたガレアス船が活躍した。

 16世紀後半のエリザベス1世の時代になると、大砲の威力が向上したことにより画期的な帆船の戦い方が生み出された。アルマダの海戦(1588年)でのイギリス艦隊の戦法がそれであり、敵艦への接近は大砲の有効射程内までとして接舷斬り込みを原則的に禁じた。イギリス艦隊は、運動の自由を確保するために常に風上に位置するようにし、司令官の乗艦を先頭に一列の縦隊(単縦陣)を作り、敵に舷側の砲を向けつつ敵艦隊へ近づき、大砲の射撃で勝敗をつけようとした。

 海戦は風次第なのでいささか間延びしたものになったが、最後の決戦では両艦隊とも弾丸をほぼ撃ち尽くしていたので、イギリス側が風上側から火船を放ち、スペイン側を混乱させ、小銃、ピストルの射程まで近づいて甲板上を掃射した。このような戦い方だったため、英側が捕獲した艦は少なく、失われた大型ガレオン船は2隻だけだった。

 ちなみに火をつけた船を風上から放流して敵艦に体当たりさせる火船戦術は古代から存在したが、英蘭戦争で頂点に達した。火船の大型化や火薬の使用による威力の増大に加えて、敵の妨害や回避に対抗するための護衛艦や衝突直前まで操艦する水兵の脱出用の小舟をともなうなど工夫され大きな成果を上げた。

 アメリカ独立戦争以降は次第に姿を消したが、小型船による体当たり戦法自体は現代に至るまで見られるものであり、米駆逐艦「コール(Cole)」がアデン港においてアル・カーイダの小型ボートの自爆攻撃(2000年)を受けた例がある。

▼戦術準則の確立 

 敵味方の艦隊が単縦陣で並航しながら砲戦で勝敗をつける戦い方が確立したのは、英蘭戦争の時である。イギリス海軍が、第一次英蘭戦争中の1653年に最初の戦闘準則(Fighting Instructions)を定めたのはすでに述べたが、これは敵将トロンプがダウンズの海戦(1639年)の頃から採用した戦術をも取り込んだもので、旗艦を先頭とする単縦陣を維持すべきことや、指揮に必要な旗旒信号が定められていた。

 単縦陣を組む二つの艦隊が、至近距離において低速で並航しながら長時間砲火を交えるのだから、甲板上は凄惨な状況となるのだが、準則では自艦がどんな大損害を被ろうとも陣形から離脱することを厳しく禁じていた。この準則は各艦隊の司令官によって改訂され続けたが、基本的な戦い方は定式化されたものとしてイギリス艦隊の戦術を強く規定することになった。

 準則には、並航戦のような正攻法のほかにも乱闘法、密集法、挟撃法、敵を分断する遮断法などが定められていて、敵が逃走したり味方の戦力が低下した場合には躊躇なく戦法を切り替えるべきとされていたが、一旦乱戦になると指揮官の統一指揮ができなくなるため正攻法にこだわる傾向は強かった。

 18世紀に入ると、準則にこだわって戦機を逃す司令官の例が増える一方で、独自の戦法を試みようとする指揮官も出てきたが、失敗した場合には軍法会議で処罰されたため、戦術の硬直化の傾向は顕著だった。イギリス海軍が準則の呪縛から解放されるのは、18世紀末、ネルソンらの海将が登場するフランス革命戦争やナポレオン戦争の時代を待たなければならなかった。

 イギリスでは海将らが経験主義的に戦術準則を開発、修正していったのに対して、フランスでは学究的に戦術理論が研究され、多くの戦術書が発表された。フランス海軍兵学校の数学教授ホストが海戦の経験をもとに著した『海軍戦術』(1697年)がその例であり、敵に勝負を挑むよりも負けない陣形を作る点に重点が置かれていた。これは、この時期、艦隊決戦を避けて通商破壊戦への傾向を強め防勢戦略に徹するようになったフランス海軍の特徴を反映したものといえるだろう。

▼信号システムの改良

 各国海軍が単縦陣による戦い方を基本とした理由は、正攻法として準則化されていたことはもちろんだが、司令官の戦闘指揮の都合でもあった。

 

 帆船時代の海戦は、洋上で敵を発見してから各艦の艦長が集合して旗艦で作戦会議が開かれることは珍しくなく、海戦の途中ですら開かれることがあった。当時の砲は発射間隔が長く、射撃効果を上げるに速力を2~4ノット(時速4~8㎞ほど)という舵の効く限界まで減速していたので、各艦からボートを漕いで旗艦に集まることは可能だったのだ。

 洋上で命令を伝えるのに簡単な旗旒信号しかなかった当時としては、指揮官の意図を徹底するにはこのようなやり方はしかたのないことだった。こうして始まった海戦では、単縦陣の先頭艦に掲げられる信号に後続の艦が従う方式が確実だったし、混戦になったり信号が見えなくなったりしても先頭艦の運動に従っていれば大きな間違いはなかった。

 1653年のイギリスの戦闘準則では、わずか32種類の信号だけだったが、徐々に工夫され、旗の組み合わせで256種類の信号文を表現できるようになった。1800年には、AからZにそれぞれ対応する旗と重要単語1,000(後に3,000)語を三つの旗の組み合わせで表されるようになり、自由文の表現が可能になった。

 信号の改良は硬直化した戦法に変化をもたらし、単縦陣から解列して敵艦列の隙間に突入し、敵艦列を分断し砲火を集中するなどの戦い方がやりやすくなった。この戦法でロドネー率いる英艦隊が仏艦隊を下したのがセインツの海戦(1782年)である。この戦法が偶然の産物であったことはすでに述べたが、信号を使って柔軟な戦闘指揮ができるようになったことは大きな進歩だった。この海戦以降、勇猛果敢な海将に率いられたイギリス艦隊はこのような戦法を駆使してフランス艦隊に対して勝利を重ねたが、この新しい戦法を可能にしたのが信号の改良だったのだ。

▼通商破壊戦の意義

 フランス海軍が通商破壊戦に重点を置くようになった経緯はすでに見てきたとおりだが、16世紀後半から第二次世界大戦に至るまでの海洋国家が関係した戦いでは、例外なく通商破壊戦が行われた。個々の交戦は小さなものであったが、戦争を通じて長期間、広範囲にわたって行われたため、その累積効果は極めて大きかった。ちなみに日本は、歴史的にこのような経験をしてこなかったこともあり、通商破壊戦への備えのないまま第二次世界大戦に突入して、資源の輸入や戦地への兵站支援ができなくなり、大きな敗因となった。

 海上貿易に依存する海洋国家や戦争遂行に必要な物資を海上輸送に頼っている国家に対して、通商破壊戦を挑むことは理にかなった戦略である。通商破壊のためには、敵海軍の警戒の網をかいくぐって商船や船団を襲撃するか、それらを護衛する敵海軍そのものを無力化しなければならない。

 一般に敵海軍の無力化のためには、決戦を求めて撃破するやり方と、敵艦隊の根拠地を封鎖するやり方があるが、前者のほうが難しいのは当然で、後者も貴重な兵力を長期間張り付けなければならないので艦隊決戦とのバランスからはジレンマが生じる。

 これに対して商船や船団を襲撃するやり方は、兵力の少ない海軍でもある程度実行でき、これまで見てきたように私掠船の活躍が大いに期待できるものである。ただし広大な海域で襲撃目標を捕捉するのは至難の業なので、チョークポイントといわれる海峡や海上交通路の集束点となるような海域が襲撃ポイントとして選ばれた。

▼私掠船、フリゲートと護送船団

 通商破壊戦の主体となった私掠船というのは、君主などから私掠免許状(Letter of Marque)を与えられ、交戦相手国の船の捕獲や積み荷の略奪を行う武装した商船や漁船である。これによって得られる「収益」は大きかったため、一攫千金を当て込む出資者や船長は多く、戦時には大活躍した。政府は、彼らに免許を与えるかわりに「収益」の一定割合を国庫に納めさせたので国にとってもメリットがあった。

 通商破壊戦には私掠船だけではなく正規の軍艦も用いられ、特に戦列艦より小型で軽武装だが快速のフリゲートが多用された。通商破壊戦は、捕獲賞金(prize money)を稼ぐチャンスが多かったため、海の戦いの華と考えられており、フリゲートへの乗り組みは海軍将兵の憧れの的であったという。海軍将兵の給料は安かったが、捕獲賞金に恵まれると一財産つくることも不可能ではなかった。1708年の巡洋艦法によると、捕獲品の査定金額を8等分し、3を艦長が、1を司令官が、1を乗組士官全員が、1を乗組准士官全員が、2を乗組下士官兵の全員に分配することになっていた。

 運に恵まれ腕も良い艦長となると、給料の数十年分の賞金を稼ぐこともあったという。しかし、捕獲賞金の魅力が大きいだけに、艦長が本来の作戦そっちのけで商船狩りに熱中してしまう例もあり、弊害もかなり見られた。

 英仏抗争で大局的な勝勢は常にイギリス側にあったため、フランス海軍は制海権の獲得を争うことを避け、次第に通商破壊戦に重点を移していった。その中心となったのが私掠船であり、ダンケルクやサン・マロはその主要な基地となり、イギリス海軍の封鎖で海に出られなくなった船員や漁民が私掠船に乗り込み、イギリス海軍の封鎖をかいくぐって大西洋での通商破壊戦に従事した。

 フランスとならんで通商破壊戦を活発に行なったのはアメリカである。アメリカ独立戦争と1812年戦争において、大西洋に展開する強大なイギリス海軍を翻弄したのは多数のアメリカの私掠船だった。これら私掠船により、アメリカ大陸に派遣されたイギリス軍に対する本国からの補給が脅かされたため、英海軍は多数の軍艦をアメリカ沿岸水域に張り付けにしなければならず大いに苦しめられた。

 その後1856年のパリ宣言で私掠船が国際的に禁止されることになったが、この時アメリカだけは決議に反対している。しかし皮肉なことに、間もなく起こった南北戦争では、南軍の私掠船が大西洋で北軍側の商船を襲って通商破壊戦を活発に展開して北軍は大いに苦しめられることになった。

 敵国の通商破壊戦に対して商船側は船団を組むことによって対抗した。英蘭戦争では、海外から帰国するオランダ商船は船団を組んでイギリス海峡を通過し、オランダ海軍がこれを海峡中央部まで出迎え、襲ってくるイギリス艦隊から商船を守って本国に送り届けていた。

 フランス革命戦争とナポレオン戦争でも、大西洋に出没するフランスの私掠船に悩まされたイギリス側は、積極的に船団を編成させ、これに少数の軍艦による護衛をつけて被害の極限を図った。

 1793年から1797年までに記録に残っている船団は137、5,827隻に達したが、攻撃されたのはその1.5%に過ぎず、実際に捕獲されたのは35隻、0.6%であった。このような船団の効果を高く評価したイギリスは、1798年、船団制度をすべてのイギリス船に適用することにし、船団の護衛が海軍作戦のひとつとして確立された。

【主要参考資料】 ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 上』山本文史訳(中央公論新社、2020年)、宮崎正勝著『海からの世界史』(角川選書、2005年)、青木栄一著『シーパワーの世界史①』(出版共同社、1982年)、小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』(原書房、2007年)、堀元美著『帆船時代のアメリカ 上』(原書房、1982年)、田所昌幸編『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』(有斐閣、2006年)、ジョン・テレン著、石島晴夫訳編『トラファルガル海戦』(原書房、1979年)、外山三郎著『西欧海戦史 サラミスからトラファルガーまで』(原書房、1981年)、『戦略戦術兵器事典③ヨーロッパ近代編』(学習研究社、1995年)

※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。