シーパワー500年史 12

 前回は、英仏抗争のはじめの二つの戦争の話でした。陸軍重視のフランスがイギリス海軍を撃ちそこねましたが、イギリスにも海洋派と大陸派の対立がありました。フランスの通商破壊戦がイギリスを苦しめますが、イギリスは勝勢を保って大国への道を歩み始めました。

 今回は、イギリス海軍の思考の硬直化と堕落が進むもののピットの登場で立ち直り、初めての世界大戦である七年戦争で勝利者となり、大英帝国の基盤を作るまでをたどります。日本海軍も海戦要務令で硬直化したことは知られていますが、イギリスが幸運だったのはそれを脱却できたことでした。

▼オーストリア王位継承戦争(1740~48年)

 1740年に起きたオーストリア継承戦争では、オーストリアに対してプロイセンが戦いを挑み、プロイセン側にフランス、スペインがつき、オーストリア側にはイギリスがついた。

 この戦争は、プロイセンがオーストリアから地下資源の豊かなシュレジェンを獲得したシュレジェン戦争、イギリスとスペインのジェンキンスの耳の戦争及びイギリスとフランスがアメリカ新大陸で戦ったジョージ王戦争の三つが連動したもので、戦いの構図も複雑なら戦場も地中海、北米、西インド諸島、及びインドまでを含む広大なものだった。

 このうちジェンキンスの耳の戦争というのは、イギリスがアシエントに乗じて行った密貿易に対してスペインが臨検、拿捕に踏み切ったところ、レベッカ号船長ジェンキンスがスペイン官憲によって削ぎ落とされたという塩漬けにした自身の耳を暴行の証拠としてイギリス下院に訴えたのを発端とする。これによりイギリスにおける反スペインの世論が沸騰し、スペインに宣戦布告(1739年)して始まった戦争である。

▼ツーロンの海戦と軍法会議  

 ジェンキンスの耳の戦争において、イギリスの地中海艦隊はツーロン沖で仏西連合艦隊と戦いを交えた(1744年、ツーロンの海戦)。

 この海戦でイギリスの次席指揮官は、司令長官との対立から自己の後衛戦隊を戦闘隊形へ入れようとしなかったため、英艦隊は仏西艦隊を取り逃がしてしまう。この失敗に関する軍法会議が開かれると、次席指揮官は艦隊戦術準則を盾に論点をすり替えて弁明し無罪放免となった。さらに彼は、司令長官が「戦時服務規程」に定める適切な艦隊の運用を誤ったとして巧みに告発すると、司令長官は海軍から永久追放されるという理不尽な結果となり海軍に大きな禍根を残すことになる。

▼フィニステレーの海戦  混戦戦法の復活と封鎖戦略の萌芽 

 ツーロンの海戦の後、大西洋側で戦隊の指揮を任されたのがアンソンである。彼は英本土の防衛と通商保護のための制海権を確保するための作戦として、フランスの英本土侵攻の策源地であるブレスト沖と海外通商路の集束するイギリス南西端沖のシリー諸島の間を哨戒していたが、ブレスト沖でフィニステレーの海戦が起きる(1747年)。

 この海戦で、アンソンの戦隊は単縦陣の戦列戦からタイミングよく解列して総追撃戦に移行してフランス戦隊に圧勝した。ツーロンの例にならえば準則違反を問われかねない状況であったが、アンソンは、敗走する敵に対する総追撃戦や混戦を禁じていない準則の条項を巧みに応用して大胆な戦術をとって勝利をつかんだのである。

 この結果、フランスは陸戦で勝利を収めながらも、イギリスが制海権を握ったために植民地からの戦費調達を遮断されたため講和に踏み切らざるを得なくなった(1748年、アーヘンの和約)。講和では戦前の状態への復帰が基本原則とされたが、プロイセンがシュレジェンを獲得するなど、オーストリアとプロイセンの対立が決定的となり、次の七年戦争の火種を残してしまった。

▼イギリス海軍の堕落と思考の硬直化

 スペイン王位継承戦争からオーストリア王位継承戦争にかけて、イギリス海軍の戦いぶりは徐々に低調となり、ベンボウ戦隊の反逆事案(1702年)やツーロンの海戦(1744年)のように多くの軍法会議で艦長や司令官の無気力、怯懦、不適切な判断が裁かれた。

 この原因を小林は次のように指摘している(小林 2007、302-303頁)。

 第一の原因は、海軍士官の老齢化である。この頃、新造艦はほとんどなく、若い人材は採用されなかった。その上、まだ定年制度がなかったので現役士官が老齢化して、そのピークの1740年頃には海峡艦隊司令長官は84歳、その後任者は68歳に達していた。ちなみに、後の七年戦争からナポレオン戦争における司令長官の多くは50歳代であり、トラファルガー海戦(1805年)の時、ネルソンは47歳の若さだった。

 第二には、官僚主義とマンネリズムが蔓延したことがあげられる。戦闘集団である海軍も行政組織の一面を持つので、そこにある程度の官僚主義的な傾向が生じるのは否めない。この傾向を強めたのが士官の老齢化であり、長年の平和であった。誰もが事なかれ主義でリスクを負わず、お上に従うことをよしとする風潮が広がったのだ。

 第三は、艦隊戦術準則の呪縛である。本来、この準則はそれぞれの艦隊司令長官が制定するものであるが、海軍の中央集権化が進む中、1744年にアドミラルティが「常用艦隊戦術準則(Permanent fighting instructions)」として制定した。その上、ツーロンの海戦の軍法会議で同準則の逐語的な解釈論を展開した次席指揮官が無罪となったことから、海軍中で準則の文言を絶対視し、これに違反することのリスクが浸透してしまい、長期間にわたり多くの指揮官の決断に大きな影響を与えるようになったのだ。

▼英仏の砲戦法のちがい

 フランスはすでに述べたように艦隊決戦を避けて通商破壊戦への傾向を強め、防勢戦略に徹するようになった。海戦は敵艦隊の攻勢を阻止する場合に限って行い、それ以外の場合には戦闘を回避した。フランス艦隊が風下側から仕掛けるのは、風下への避退を容易にするためである。砲戦も艦が波頭に達する直前に発砲し、高い弾道で敵艦のマストや帆を狙い航行不能にすればよしとした。

 一方、イギリスは敵艦隊の撃滅のため、主導権を握って接近戦に持ち込むために常に風上から接敵した。砲戦は艦が波頭に達した瞬間に発砲し、低い弾道で敵艦の乾舷を撃ち抜き、人員を殺傷し砲台を破壊して、撃沈か乗り込みをかけて降伏させるのがイギリス流なので、混戦の一騎打ちか戦列にこだわらない接近戦が重視されるはずであった。

 しかし艦隊戦術準則は、前衛・中央・後衛の各戦隊が厳格に戦列を維持することを求めており、敵が敗走したときに限って解列して追撃戦ができるとしている。英仏抗争が始まってアメリカ独立戦争までの90年間で英艦隊が戦列を維持して戦った海戦が15回あったが、敵を明確に撃破したことは1回もなかった。一方で、同じ期間で英艦隊が鮮やかな勝利を収めた海戦が6回あるが、いずれも指揮官が敢然と戦列を解いて総追撃戦を下令した場合であった(小林 2007、303頁)。

 フィニステレーの海戦でのアンソンは戦列主義を否定していたわけではないが、確固たる信念で解列して圧勝した。のちのネルソンは戦列戦を愚行の最たるものとして独自の戦列突破戦法でトラファルガー海戦での勝利をつかんだ。こうした例外はあるものの、イギリス海軍にいた多くの勇猛果敢な士官は艦隊戦術準則の犠牲になっていたといえるし、その他の大勢は事なかれ主義で解列そのものを恐れていたのだ。

▼七年戦争はじまる ピングの銃殺刑  

 オーストリア継承戦争の後、オーストリアは台頭するプロイセンに対抗するため、伝統的なイギリスとの同盟を放棄してフランスとの同盟を選んだことにより「外交革命」と呼ばれるヨーロッパ情勢の激変が起きた。この結果、イギリス・プロイセン対フランス・オーストリアという対立関係となり、それぞれの同盟の盟主イギリスとフランスの対決が地中海とヨーロッパ中部の二正面で始まる(七年戦争1756~63年)。また同時に英仏の北米植民地をめぐってフレンチ・インディアン戦争が戦われた。

 英仏関係が一触即発となると、フランスは例によって通商破壊戦と英本土侵攻作戦の準備を始めた。これに慌てた英政府は、海外が手薄になるのを承知で艦隊を英本土周辺に集結させると、案の定ミノルカ島が危なくなった。

 それまで英政府がミノルカ島の防衛を軽視していたのは明らかで、防備指揮官が衰弱した84歳の老将軍なら兵力もわずかだった。急遽、わずか戦列艦10隻からなるピング戦隊が派遣されたが、戦隊がジブラルタルに到着した時にはフランス軍は易々と同島を占拠してしまっていた(1756年)。

 ミノルカを目指すビングの戦隊はフランス戦隊と遭遇し並航戦となると、イギリスの前衛隊は隊列を乱して大損害を受け本隊が接敵できなくなった。ビングは、隊列にかかわらず各艦が最善を尽くして接敵するよう命令すべきであったが、戦闘中止を命じてジブラルタルへ帰投してしまった。ビングは、準則違反で海将が軍法会議に問われたツーロンの海戦の前例を思い出したのだ。

 ミノルカ島はフランスに占領された。島の防備を怠りビングに中途半端な兵力しか与えなかった政府は、自らの落ち度を覆い隠すためピングを軍法会議にかけた。ピング擁護の声は各方面から寄せられたが、彼は旗艦の甲板上で銃殺刑に処せられた。これは英蘭戦争以来100年の間に戦術準則が形式化して、司令官の判断を誤らせた最悪の例であり、司令官の銃殺刑という衝撃的な結果でイギリス海軍に深い傷跡を残した戦争でもあった。

▼「海洋派」ピットの登場と戦局の転換  

 七年戦争は、大西洋、西インド諸島、インド洋、そして太平洋といった広大な戦域に広がり、最初の世界戦争というべきものであった。イギリスの事実上の指導者、国務卿ピットの構想は、戦争目的をアメリカ植民地の保全と拡大に限定し、ヨーロッパ大陸の戦いはプロイセンに任すという明快なものだった。そして北米での勝利の必須要件は大西洋での制海権の獲得であるとして、海軍にはフランス艦隊の封殺、大西洋の海上輸送の防護、陸軍作戦の援護の三つを任務として与えた。「海洋派」の戦略だ。

 ピットの基本戦略は、制海権を獲得してフランスとカナダ植民地の連絡を遮断すれば6万人もの仏入植者は持ちこたえられず、仏艦隊を封じ込めてフランスの海外通商を遮断すれば、その継戦能力を枯渇させることになる。あわせて敵の戦争努力をヨーロッパとアメリカ両大陸と大西洋に分散させれば、その効果は計り知れないというものだった。

 ピットは海軍卿に当代一流の提督アンソン卿を据え、その他の提督や将軍も能力本位で重用した。ピットの登場で、ピングを生贄にした政治の優柔不断は払しょくされ、各方面で戦局も好転した。

 イギリスの同盟国プロイセンは、先の戦争で得たシュレジェンの防衛に徹したが、苦戦を強いられた。七年戦争では、イギリス艦隊が先の戦争のように地中海に引っ張られることはなかったが、当初、プロイセンはロシアをけん制するためにバルト海派遣を要請した。ピットは、賢明にも基本戦略どおりこの要請を断り、代わりに地上軍1万を派遣した。

 このためイギリスは強力な戦隊を配備してブレスト艦隊を閉じ込め、英本土や沿岸航路への攻撃並びに北米向けの海上軍事輸送を阻止できた。また、フランスは中立国船を使って植民地貿易を維持しようとしたので、ピットは海上臨検に踏み切り対仏経済封鎖も実施した。

 そもそもピットの戦略は、イギリスは盤石な大西洋の制海権を確保した上で、北米海域における優勢のもとで戦うというものであった。このため、彼の主導で増強された艦隊がブレストやツーロンといった敵の基地を常にけん制していたため、フランスは北米へ十分な兵力を送れずケベックやモントリオールの攻防に大きく影響した。

▼七年戦争における「トラファルガー」

 1759年、フランスはイギリスの海外植民地作戦をけん制するために英本土侵攻作戦を計画した。いまやイギリス艦隊は十分に増強され、フランスの基地は厳しい監視下にあった。イギリス艦隊は、ブレスト艦隊に合同しようとするツーロン艦隊を発見し、撃破した(ラゴスの海戦)。

 また同年、イギリスの封鎖の隙をついて出撃したブレスト艦隊との間でキベロン湾の海戦が起きる。イギリス艦隊の圧勝に終わったこの海戦とラゴスの海戦により、ブレストとツーロンの両艦隊の活動は封じられフランスの英本土侵攻作戦は頓挫した。キベロン湾の海戦は「七年戦争におけるトラファルガーの海戦」とも評価されている。 

▼北米植民地、インド、西インド諸島の戦い

 フレンチ・インディアン戦争では、イギリスの派遣戦隊は、世界初の本格的な両用作戦とされるケベック上陸作戦を成功させ、1760年にはモントリオールを陥落させて休戦、イギリスはカナダ全土を手に入れる。

 インドでは、戦争が始まると仏東インド会社とベンガル太守はカルカッタを攻撃、占領したが(1756年)、翌年イギリスから派遣された戦隊と英東インド会社の部隊はカルカッタを奪還し、その後のプラッシーの戦いで勝利し、イギリスはベンガル地方を支配し、戦いはインド南東部沿岸へ移行した。

 南東部のマドラスとポンディシェリーは、それぞれ英仏両東インド会社が本拠地としていたため、ここでの決着がインド全体の支配権を左右した。1758年以降、英仏戦隊は3回の海戦を戦ったが、仏戦隊の戦意は低く、最終的にイギリス海兵隊が上陸し艦艇と協同してポンディシェリーを降伏に追い込み(1761年)、最後の拠点を失ったフランスはインド支配の歴史に幕を下ろした。

 西インド諸島でフレンチ・インディアン戦争が起きると、英仏戦隊による通商保護作戦が始まり、各地でイギリスは優勢に戦いを進めた。イギリスは、1760年に北米でのフランスとの戦いに決着がつくと、カナダから戦隊を回すとともに本国からも増援部隊を送り込み、フランスの本拠地マルティニクをはじめとする島々を占領した(1762年)。

▼ピットの下野    

 フランスの英本土侵攻作戦を頓挫させ、北米や西インド諸島での戦いも勝勢を確実にした1759年をイギリスは「素晴らしき年」と呼ぶ。引き続きイギリスはカナダとインドを手に入れ、後の大英帝国となる土台を築いた。このころがピットの人気の絶頂期であったが、プロイセンの戦況が悪化して戦線が膠着すると厭戦ムードが広がった。

 ピットは、あくまで戦争を継続してフランスに対する完全な勝利を目指したが、新国王ジョージ3世は戦争の早期終結を希望しており、スペインに対しても宣戦を主張するピットは孤立し、辞職する。その後、イギリスは結局スペインに対して宣戦(1762年)し、西インド諸島での激しい攻防戦ののちハヴァナを占領した。また同年、インドに展開したイギリス戦隊と陸軍は、フランスが降伏した後、することがなかったため、スペインとの戦争が始まるとフィリピン攻略に転用され、戦列艦7隻などと2,300名の攻略部隊ですべてのスペイン領の島々を手に入れた。

▼イギリス、世界大戦に勝利する パリ条約

 1763年、パリ条約によりフレンチ・インディアン戦争と七年戦争に終止符が打たれた。この条約によって、イギリスはフランスからカナダとミッシシッピー川以東のアメリカ植民地を獲得するとともに、インドも手に入れた。地中海においてはミノルカを取り戻して通商保護の拠点を確保し、西インド諸島でも若干の島々を得た。プロイセンはシュレジェンを維持できた。フランスは西インド諸島の小島とインドのごく一部を確保したに過ぎなかった。スペインもキューバとフィリピンを返還されたが、これらの植民地をみずから守れないことを世界にさらした。

 イギリスは、この初めての世界大戦における勝利者となり、北米大陸とインド亜大陸における覇権の基盤を構築し、ピットは大英帝国の創始者となった。また、ピットの戦略である制海権の獲得を目標とすることの正しさが立証され、イギリスが世界の海を支配して、パクス・ブリタニカと呼ばれる海洋覇権を作り上げる大きなステップとなった戦争であった。

 この後、イギリスに対する北米植民地の反発からアメリカ独立戦争が始まり、北米植民地のほとんどを喪失したフランスは財政が逼迫しフランス革命につながってゆく。

【主要参考資料】 ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 上』山本文史訳(中央公論新社、2020年)、宮崎正勝著『海からの世界史』(角川選書、2005年)、青木栄一著『シーパワーの世界史①』(出版共同社、1982年)、小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』(原書房、2007年)

※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。