シーパワー500年史 11
前回は、第三次英蘭戦争からオランダの衰退までを辿りました。今回から100年以上にわたる英仏抗争、すなわちイギリスが最後のライバル国フランスを下して海上覇権を握り、パクス・ブリタニカといわれる時代になる過程を見てゆきます。

▼フランスとの長期戦争
名誉革命(1688年)で英国王ウィリアム3世として迎えられたオランダ総督オランイェ公ウィレム3世が、戦列艦50隻を含むオランダ艦隊でイギリスに到着すると英国艦隊司令長官は恭順の意を示した。フランスに亡命してしまった前王ジェームズ2世は、その親カトリック政策や気まぐれな司令官人事で海軍からの忠誠心も失っていたのだ。
第三次英蘭戦争を仕掛けたルイ14世にとってオランイェ公は宿敵であり、彼が英国王に即位した時点で英仏抗争の火種がまかれたといえる。この後、ヨーロッパ諸国では王位継承などで戦争が繰り返し起こるが、英仏はこれらの戦争で常に敵対することになる。
英仏間の海での戦いは120年ほどにわたるもので、大きな戦争だけでも以下のとおり7回あった。アメリカ独立戦争を除いてヨーロッパ大陸が主戦場であったが、例外なく海外の植民地に飛び火して海戦となり、イギリス王位継承戦争が主にイギリス海峡で戦われたほかは、大西洋や地中海、さらにインド洋まで拡大したものもあった。
イギリス王位継承戦争(1688~97年)、イスパニア王位継承戦争(1701~14年)、オーストリア王位継承戦争(1740~48年)、七年戦争(1756~63年)、アメリカ独立戦争(1775~83年)、フランス革命戦争(1793~1802年)、ナポレオン戦争(1803~15年)
イギリス海軍はこれらの戦いで、多くの優れた海将のもと勝勢を保ってフランスを少しずつ圧倒しその植民地の大半を奪った。とくに、ルイ14世やナポレオンなどのイギリス本土征服の野望を打ち砕いたのは海軍であり、こうした国防上の重要性と島国という地理的条件は海軍の安定的な発展を促した。
▼イギリス王位継承戦争 艦隊保全主義
1689年、イギリスは、オランダやオーストリアと対仏同盟を結成すると同時にフランスとの戦争状態に入った。フランスに亡命したジェームズ2世は、王位復活を目指してアイルランドに上陸(1689年)するものの、ウィリアム3世自ら率いた王国軍に敗れて祖国イングランドの土を踏むことなくフランスに逃げ帰る。
海上では、ハーバート率いる英蘭連合艦隊と圧倒的に優勢なフランス艦隊との間で戦われたビーチィー・ヘッド岬の海戦(1690年)で英側は敗退し、イギリス海峡の制海権はフランスの手に落ちた。この時のハーバートの消極的な戦いぶりは強く非難され、帰投後はロンドン塔に収監され軍法会議にかけられた。
彼は「他の戦い方をしていたら、劣勢なわが艦隊は壊滅し、わが王国はフランスに侵攻の道を開くことになったでありましょう…われわれが艦隊を維持しているかぎり、フランスは侵攻をこころみるはずがないのであります」と弁明し、無罪放免となった。(小林 2007、234頁)
このようになるべく決戦を避けて勢力を温存して、相手をけん制、抑止するという考え方を「艦隊保全主義(fleet-in-being)」という。ちなみにハーバートの消極的な姿勢は、イングランド海軍が英蘭戦争以来、「見敵必戦」を基本方針としていたこともあり、イングランド海軍史の中では、戦う意思を持たない艦隊が単に「現存」しても何の効果も発揮し得ないとして批判されている。
この後、ハーバートと司令長官を交代したラッセルはイングランド侵攻を狙うフランス艦隊を優勢な戦力によりラ・オーグ湾の襲撃戦(1692年)で破り、ジェームズ2世復活の望みを打ち砕いた。
▼イングランド艦隊を撃滅し損ねたフランスの戦略
フランスはラ・オーグの敗戦後、イギリス海峡の制海権の争奪を断念する。その背景にはルイ14世の大陸指向政策があった。英蘭より優勢なフランス艦隊を建設したコルベールはラ・オーグの前に没したが、その後継者たちはルイの大陸指向に盲従し、主力艦隊不要論を唱える海軍総監さえいたほどだ。これでは、フランス海軍の活躍はなく衰退も避けられない。
フランス海軍は艦隊決戦を避けて、ブレスト艦隊に私掠船を加えて通商破壊戦を始める一方、ツーロン艦隊は港内に待機させてイングランド艦隊をけん制した。皮肉にもハーバート以来、はじめて現存艦隊主義を実行したのはフランスとなったわけである。
イギリス王位継承戦争は、1697年のライスワイクの和議で終わるのだが、地上戦に気をとられたルイは、自らの海軍力が頂点にあった時にイングランド艦隊を撃滅しそこね、英蘭両国の復活を許したためイングランド本土侵攻は実現しなかった。一方のウィリアムも、ルイの侵略は防げたが、その陸軍も艦隊も撃滅できなかったので、双方中途半端な結果となった。
▼イングランドの戦略
一方のイングランドはこの戦争で初めてヨーロッパ大陸に同盟国を持ったのだが、大陸最強の陸軍を持つフランスをどう攻略するかが戦略上の問題になった。「海洋派」は、通商破壊戦で海外資源の輸入を妨げ、国内経済を破綻させることにより戦力を減殺すべしと主張した。これに対して国王ウィリアムをはじめとする「大陸派」は、ルイが狙うオランダに陸軍を投入して直接対決しようとした。エリザベス時代の大陸勢力均衡政策とも異なる戦略だ。
こうしたことから、ウィリアムは「偉大な将軍だが、提督の器にあらず」などと海洋派の批判を受けるのだが、以下のようなシー・パワーの発展につながる重要な戦略や政策を採用したことは評価されるべきである。
第一は、地中海における制海権の獲得に取り組み、地中海支配国家の基盤を作ったことである。地中海の戦略的意義は、エリザベス時代に着目され、クロムウェル時代にも再確認されていた。ウィリアムは、英蘭連合艦隊を派遣してレヴァント(東部地中海沿岸地方)交易船団を護衛しつつスペイン艦隊と共同作戦を実施するなどして地中海にプレゼンスを示し、対仏戦略上の効果を確認した。ただし地中海には艦隊の基地がなかったため、以後、恒久的な基地の設置を模索し始めることになる。
第二に、フランスとの直接対決のため、フランドル戦線という単一目標に向けて陸海軍を統合運用したことである。
第三は、対仏経済封鎖を中立国にも呼びかけたことだが、残念ながら肝心の英蘭の商人がフランスと取引していたため、中立国の協力は得られなかった。
第四は、戦費調達のために国債制度を創設したことである。英仏抗争が始まり戦費が巨額になると、国家財政を破綻させずに戦費を安定的にまかなうために国債が発行されるようになった。国債にはイングランド銀行が長期高率の利子を保証したことから、投資家から長期間安定的に戦費が調達できるようになった。この制度は国内の金融を活性化させ、産業の発展にも大きく貢献し、後に「財政革命」といわれるようになる。
▼イスパニア王位継承戦争
スペイン国王カルロス2世は嗣子に恵まれなかったため、その後継者はフランスかオーストリアどちらかの王家から選ばれることになった。どちらにせよヨーロッパ情勢を激変させることになる後継争いに際して、イングランドはオーストリア側に立ち、オランダを加えた対仏同盟を結成して前の戦争で決着がつかなかったフランスとの再度の対決を決意する。イスパニア王位継承戦争(1701~14年)である。
対仏戦争が迫ると海洋派と大陸派の戦略論争が再燃した。海洋派は、再びフランスの戦費調達を妨害するため海上交通路の遮断を主張したが、フランスの海外資源依存度の低さとイングランド艦隊の臨戦準備ができていなかったことから、実行は困難とみられた。
結局、またも大陸派の考えが優先され、大陸へ軍を派遣することになった。フランスとオランダの間に防壁を築くためにスペイン領ネーデルラントを制することを第一の目標とし、第二にオーストリア領の安全確保のためにミラノとナポリを制することとされた。
第一の目標は陸戦で達成された。第二の目標を達成するには地中海の制海権を確保する必要があることから、艦隊の策源地としてカディスの占拠に向かった。ここは敵艦隊の地中海進出を制約でき、スペイン財宝船団の捕獲に便利で、自分たちも越冬できるという絶好の位置である。しかしカディス遠征(1702年)は、現地の情報不足や指揮官の優柔不断、部下の蛮行、不服従などで後世に残る大失敗に終わってしまう。
▼ジブラルタルとミノルカ島の獲得
1704年、英蘭連合艦隊は地中海沿岸での陸上作戦の拠点としてバルセロナなどを確保しようとしたがまたも失敗、手ぶらで帰国するわけにもいかず、何がしかの戦果を求めて、急遽、守りが最も手薄なジブラルタルを急襲することにした。圧倒的に劣勢な守備隊はあっけなく降伏、英蘭は占領に成功し、期せずして歴史的快挙をあげることになる。イングランドは地中海に恒久的な策源地を獲得し、その後トラファルガー海戦(1805年)、第一次、第二次大戦、フォークランド戦争(1982年)などでその戦略的価値をいかんなく活用することになる。
フランスは、ジブラルタル奪回のために英蘭艦隊とマラガ岬の海戦(1704年)を戦うが敗退、一方で英蘭連合艦隊は1708年にはミノルカ島を占領して、フランスのツーロン艦隊をけん制する絶好の拠点を得た。この後はフランスが制海権の争奪を諦めて通商破壊戦に移行したため大きな海戦もなく、イングランドは地中海の制海権を維持できた。
▼フランスの通商破壊戦
フランスの通商破壊戦は、直接的にはマラガ岬の海戦などで敗れて艦隊決戦を断念したことをきっかけとしているが、海外資源依存度の高い島国イングランドの海上交通路を遮断することはフランスにとって理にかなった戦略であった。
当時のイングランドの貿易は、造船資材のバルト貿易、ペルシャ、トルコ、ギリシャ、エジプト産の高級織物のレヴァント貿易、香料の東インド貿易、砂糖とタバコの西インド諸島貿易、そして悪名高い三角貿易の一辺である奴隷を運ぶ西アフリカ貿易などからなっていた。
このイングランドの貿易船に襲いかかったのがフランスの私掠船である。彼らの基地はフランス沿岸各地に散在しておりイングランド艦隊でも対処しきれなかった。
特に要塞なみに守りを固めたダンケルク基地の私掠船は959隻を捕獲し、全体ではイギリスは3,250隻の商船を失ったとされている。(ケネディ2020年、193-4頁)
あまりの被害の大きさにイングランド海運界は悲鳴を上げ、議会は「護衛艦艇・船団条例」を制定(1707年)して、貿易保護に一定数の軍艦が割り当てられるようになり徐々に被害は減少した一方、フランスの私掠船はより遠方の海運に目を向けるようになった。イギリスの海運が全世界的に拡大するにつれ、貿易の保護が英海軍の大きな課題となってゆく。
▼英国の海上での優位の獲得 ユトレヒト条約
ユトレヒト条約(1713年)締結の翌年に戦争が終結し、イングランドはフランスから北米ニューファンドランド植民地などを、スペインからジブラルタル、ミノルカ島を譲渡され、ダンケルクの私掠船基地の破壊も約束された。また、西インド諸島方面での奴隷の独占的通商権(アシエント)も確保した。
このように18世紀のヨーロッパ地図を確定し、フランス革命までのヨーロッパの勢力均衡を図る重要な条約においてイングランドは最大の利益を獲得して大国への道を歩み始め、海上においても英国の優位が確定することになった。
【主要参考資料】 ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 上』山本文史訳(中央公論新社、2020年)、宮崎正勝著『海からの世界史』(角川選書、2005年)、青木栄一著『シーパワーの世界史①』(出版共同社、1982年)
※本稿は拙著『海軍戦略500年史』の一部をメルマガ「軍事情報」(2021年5月~2022年11月)に「海軍戦略500年史」として連載したものを加筆修正したものです。