生涯にわたって支那の歴史、思想、人物を研究した安岡正篤は、支那知識のない政治家や実業人が支那人に手玉に取られているのに憤慨する。
「今日なお日本人は支那を知らぬ、これは実に残念なことであります。私ども幼少のみぎりから漢字で育ち、ずっと支那の興亡の歴史を学んで多くの中国人と何十年も付き合って往来してまいりました者から言いますると、今日の日本の指導者階級、あるいは友好評論家階級くらい支那中国を知らざること甚だしいものはない。知るといえども浅薄であります。これは残念というよりも危険なことでさえあります。」
安岡は、支那の歴史は絶えず周辺の異民族の侵略、征服を受けてきた歴史だ。モンゴル人の征服(元)やツングース系女真族(満州人)の征服(清)は支那全土に及び、しかも200年300年の長きに及んだ。これに伴う虐政や反乱、あるいは支那人間での易姓革命の連続は、陰謀、反乱、疾病、飢饉、天災地変といったあらゆる辛配を支那民族にもたらした。そういうものの中を苦しみ抜いて根強く、太々しく生きてきた支那民族の性格や文化は非常に多面的で矛盾に富み、軽率にかかってはとんでもない錯誤に陥る。
「かかる歴史を生き抜いてきた彼等は必然的に謀略というものに大変長じてくる。惨憺たる歴史を経てきただけに、奸悪というか奸佞(かんねい)というか、油断も隙もない人物が多いし、老獪狡猾で徹底して利己的、あらゆる忘恩悖徳(はいとく)に平然としている。彼等は悲惨な歴史の中に育ってきただけに、国憲も国法も政府も官僚も地位も閲歴も、世間的な何者も信ずることができない。さればこそ、世の中をわたるために徹底して保身の術に長け、臨機の才に富んでおる。」
これに対し、四面海をめぐらす島国で、気候は温暖多雨、歴史始まって以来、万世一系の天皇を戴いて同一言語、同一民族。一度も外から侵略を受けることなく平和と統一に恵まれた歴史を持つ日本人は必然的にお人好しで単純である。
晩年の安岡が心配したのは、日本の政治家が次々と老獪狡猾な共産中国の指導者に籠絡されてゆく現実だった。安岡は昭和58年12月に死ぬが、次の言葉は彼の遺言というべきものである。
「日本は生一本でのこのこ(中国へ)出かけて行って、まるで蝶が蜘蛛の巣にでも引っかかるようになっており、cというのが実情であります。こういう老獪な国を相手にして両国間の関係を打開しようというには、よほどこちらも練達・老練でかつ見識、手腕、度胸を兼ね備えた人間でないと勝負にならないのは明白であります。日本も少し善い意味で、すなわち老獪ではなく老練・練達の政治、またそういう政略・政策が欲しいものであります」
※本稿は、谷光太郎「安岡正篤と海軍(3)」『水交』(平成13年10月)の一部を許可を得て転載したものです。