▼スパイクマンの「リム・ランド」
第一次大戦時のマッキンダーの理論は、第二次大戦中のスパイクマンに引き継がれた。スパイクマンは、アメリカの地理学者でマッキンダーより32歳若かったが、第二次大戦の終結を見届けることなく49歳で亡くなっている。
マッキンダーは、イギリスの立場から地球を眺めてハート・ランドの理論を考えたが、新大陸アメリカから新しい目で世界を見たのがスパイクマンだ。スパイクマンは南北アメリカのある西半球を「新世界」として、東半球の「旧世界」と対比する考え方をとった。
1942年には同盟関係にあったドイツと日本の支配地域が最大になった。つまりアメリカは、ユーラシア大陸の全体が統合されたパワーと直接対峙するような、完全な包囲に直面する可能性もあったということだ。このことは、第二次大戦でユーラシアの「旧世界」の枢軸国に負けると、アメリカ大陸の「旧世界」は包囲されてしまうということで、これを防ぐためには、逆に「旧世界の軍事と政治に積極的に介入せよ」というスパイクマンの提案につながるわけである。
スパイクマンもマッキンダーも、注目する地域は異なるものの、自国をユーラシア大陸の外側の海にある島国であるととらえて、「ユーラシアの勢力均衡がくずれると米英にとって脅威になる」と考えている点では一致している。
▼スパイクマンの理論
スパイクマンの地政学では、世界を「ハート・ランド」「リム・ランド」「沖合の陸地」の三つの区域に分けている。マッキンダーが重視した大陸中央の平原は、スパイクマンもそのまま「ハート・ランド」とし、ほぼソ連の国土となっている。しかし、当時、産業の中心はウラル山脈の西側にとどまっていたことから、スパイクマンはハート・ランドの潜在力が世界を動かすことになるかは明確ではないと考えた。
かわってスパイクマンが注目したのが「リム・ランド」である。それは、マッキンダーの「内側の半円弧」とほぼ一致するのだが、考え方には違いがある。彼は、「ランド・パワーとシー・パワーの対立」という図式そのままの戦いは起きておらず、実際に起きたのは、リム・ランドの数カ国とイギリスの同盟国あるいはロシアの同盟国といった組み合わせだったとして、マッキンダーの考えは簡略化しすぎだと考えた。
彼は、そのような対立の場所となったランド・パワーとシー・パワーの接触するユーラシア大陸の沿岸地帯こそ二つのパワーの緩衝地帯として重視すべきであるとし、これに「リム・ランド」と名付けたのだ。中国やインドを含むこの地域の国々は、両生類的に機能して、海と陸の両方向の脅威から自分の身を守ろうとする。歴史的にもこれらの国々は、ハート・ランドのランド・パワーや日本やイギリスなどの沖合の島国と戦っており、両生類的な性格が安全保障上の特色となっている。
そしてスパイクマンは、過去30年間のアメリカの戦争は、「リム・ランドがたった一国によって支配されること」を防ぐためだったとして、マッキンダーのテーゼを次のように修正したのである。「リム・ランドを制するものはユーラシアを制し、ユーラシアを制するものは世界の運命を制す」
「沖合の陸地」というのは「海の公道」の外にあるイギリス、日本、アフリカ、そしてオーストラリアなど「外側の半円弧」を構成する島々や陸地のことだ。スパイクマンは、このうち日本とイギリス、二つの島国はリム・ランドの外方にある政治、軍事上の要地として重要だとしている。
イギリスは、中世末期から近代にかけて、ヨーロッパの勢力均衡に大きな影響を及ぼした。第二次大戦においては、アメリカのドイツに対する重要な軍事上の足場としての役割を果たした。また、日本はかつて満州国を建てたり、中国の地方政府を承認したりしたことがある。後には、朝鮮戦争においてアメリカのために重要な軍事上の足場(スパイクマンのいう「橋頭堡」)としての役割を果たした。
そして、ユーラシア、アフリカ、オーストラリアの三大陸に囲まれたアメリカについては、その平戦時を通じての政治上の主目標は、旧世界の中心勢力同士が結合してアメリカに対抗するのを阻止することであるとする。スパイクマンは、旧世界からの干渉を排しアメリカ大陸内の結束を固めることを狙ったモンロー主義から踏み出し、積極的な「内側の半円弧」の立場をとっている。奥山真司は『平和の地政学』において、その「介入主義」の考えの中にも「恐怖の対象を押さえ込むために逆に攻めていくという受動的な面から攻撃的に動かなければならないとする思想を見てとることができる」と解説している。
▼リム・ランド論の発展
冷戦が始まるとアメリカは国際組織やルール作りをリードする一方で、「リム・ランド」の考え方にもとづく対ソ連「封じ込め」政策をとる。大陸を支配するソ連との勢力均衡のため、アメリカは太平洋に加えてリム・ランドに影響力を及ぼす必要があると考え、冷戦期のアメリカの政策に大きな影響を与えた。
スパイクマンは「(アメリカの)安全と独立を守るために必要なのは、ユーラシア大陸にある国家がヨーロッパとアジアで圧倒的かつ支配的な立場を獲得するのを不可能にする対外政策の継続だ」と述べているが、これが冷戦中だけでなく、冷戦後、そして9.11同時多発テロ後も続けられていることは明らかだ。このことは、実際にアメリカが関わった朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争などがリム・ランドにおけるランド・パワーとの対立に深く関係していることからも理解できる。
その後は、ブレジンスキーが名づけたとされる「危機の弧」、近年のアメリカの戦略文書(2001QDR(4年ごとの戦略見直し))で出てきた「不安定の弧」など、すべてリム・ランド理論と近い性格をもっている。
日本でも「自由と繁栄の弧」(2007年版外交青書)として、紛争の起こりやすいリム・ランドに安定した民主制国家を根付かせて、経済的に繁栄させる手助けをすることにより世界平和に貢献しようという外交政策がとられた。その後は「自由で開かれたインド太平洋」(2016年、当初は戦略、のち構想)として、日本はユーラシア大陸のハート・ランドに対し、その外縁部であるリム・ランドへの影響力を拡大すると同時に、シー・パワーとしてインド洋や太平洋において「国際公共財」としての航行の自由などの原則の維持・確立に努めようとしている。