支那事変渡洋攻撃 「戦争」と「事変」の違いは、宣戦布告をしているかいないかで分けられるが、当時、「戦争」としていまうとアメリカの経済制裁を受ける恐れがあったことや、短期間で収拾しようとしていた政府の意図が反映されてい...
戦闘要務 型破り指揮官こと黛治夫元大佐(海兵47期)が、「砲将東郷砲を愛して大勝し、空将山本砲を侮って大敗す」と記す黛治夫著『海軍砲戦史談』(1972年、原書房)は、読んで損のない本だと思う。その中で、海軍に...
船員二告グ 「船員ニ告グ」というのは、太平洋戦争末期の1944年3月に海軍省教育局が戦時輸送船の船員の教育参考資料(海軍省教秘第136号)として配布した20ページの小冊子である。「第一 総説」は次のとおり説き起...
戦時医務衛生 元海軍軍医中将保利信明(長崎医専大正元年卒)の回想。 大東亜戦争中一番困ったことは定員の増加に伴う人員の補充難であった。海軍の平時定員は15万人位で、定員300人に対し軍医1名と云うのが標準だった...
海軍グルメの伝説 海軍のことについては、様々な「伝説」が巷間伝えられているが、海軍料理研究家高森直史(本名=日浦直史(幹候15期))氏は以下のように述べる。 海軍の食事といえば、すぐにグルメを連想する人が多いようで...
戦備・技術 呉工廠: 昭和16年11月、私(海軍中将澁谷隆太郎(海機18期))が呉工廠長に着任した時は戦艦「大和」は既に公試運転は済んでいたが、その他の公試のため徳山から再々出動していた。12月8日朝、徳山の旅...
大本営発表 元海軍中将戸塚道太郎(海兵38期)の回想。 塚原第11航空艦隊長官は、ミッドウェー作戦には大反対で、「あんな島を取って何になるか。絶対反対だ」と云う主張であった。そして、参謀長の酒巻少将を派遣して...
降伏調印式・回想 降伏調印式 私(富岡定俊(海兵45期))は、終戦時には軍令部第一部長(少将)であった。降伏調印式は、昭和20年9月2日0900から東京湾にある米戦艦「ミズーリ」艦上において行なわれた。私は海軍の先...
終戦処理-横須賀 私(元海軍中将戸塚道太郎(海兵38期))は、昭和20年5月横須賀鎮守府司令長官にかわった。8月13日呼ばれて上京すると、米内大臣から「連合軍は真っ先に横須賀に上がってくるかもしれない。お前の持前を発...