生命線と導火線 2015年4月、天皇、皇后両陛下は戦後70年の戦没者慰霊の旅としてパラオ共和国ペリリュー島を訪問された。日本は太平洋戦争に敗れるまでの約30年間、現在ミクロネシアと呼ばれる600を超える島々を軍事占...
沈勇の智者-加藤友三郎 大正10年の皇太子御訪欧(御召艦「香取」、供奉艦「鹿島」)の話。この欧州各国巡遊については、相当に激しい反対もあった中、実現したのは原総理と加藤友三郎海軍大臣(海兵7期)の力によるところが大きかった...
ネイバル・ルネッサンス 「見よ、今日艦型の変化の極めて著しきことを、そのマストは首切られて醜悪の状(すがた)となり、その帆は除かれてさらに寸影だも留めず、空しく疾風の怒号に委(まか)すあるのみ、帆影相映じて蒼海を彩どりたる...
海陸軍が陸海軍になった日 慶応4年3月(9月に明治に改元)、新政府の初の軍事組織の統括者として軍務官が置かれた。当時の日本には、ロシアの北方からの圧力があり、また隣国清国への英仏等の侵略から次は日本への強圧を予想させるものが...
海上権 山本権兵衛は海軍建設の第一人者といわれるが、伊藤正徳は「日清戦争も日露戦争も五十パーセントまでは山本の力で勝ったといっても過言ではない」と言う。 山本は1898年(明治31年)46歳で第2次山縣内...
支那事変渡洋攻撃 「戦争」と「事変」の違いは、宣戦布告をしているかいないかで分けられるが、当時、「戦争」としていまうとアメリカの経済制裁を受ける恐れがあったことや、短期間で収拾しようとしていた政府の意図が反映されてい...
戦闘要務 型破り指揮官こと黛治夫元大佐(海兵47期)が、「砲将東郷砲を愛して大勝し、空将山本砲を侮って大敗す」と記す黛治夫著『海軍砲戦史談』(1972年、原書房)は、読んで損のない本だと思う。その中で、海軍に...
船員二告グ 「船員ニ告グ」というのは、太平洋戦争末期の1944年3月に海軍省教育局が戦時輸送船の船員の教育参考資料(海軍省教秘第136号)として配布した20ページの小冊子である。「第一 総説」は次のとおり説き起...
戦時医務衛生 元海軍軍医中将保利信明(長崎医専大正元年卒)の回想。 大東亜戦争中一番困ったことは定員の増加に伴う人員の補充難であった。海軍の平時定員は15万人位で、定員300人に対し軍医1名と云うのが標準だった...