現在、江田島は見学に来た人に等しく立派な施設だと言ってもらえるようになっているが、創設時の様子はどうだったか。初代術科学校長の回想。

 アメリカ駐留軍司令部から江田島の施設が返還になったことに伴い、昭和31年1月、私(小國寛之輔)は術科学校長として赴任した。この施設の転用先について、地元江田島町議会でも病院とか工場とかいろいろの提案があったようだが、結局当時の中浜町長(元陸軍少将)、岡村助役(元海軍中佐)コンビなどの主張した海上自衛隊学校を誘致することに決定したといわれる。したがって、町側の受入れ態勢は上々であった。

 当時、横須賀にあった機関・工作の課程も持ってくるという計画もあったが、当時の金で1億円以上かかるということで断念され、その他の課程は全部江田島に移転することになった。したがって、江田島には術科学校の本校、横須賀には術科学校横須賀分校ということでスタートした。その後、月日を経て術科学校は発展的に分離し、新たに幹部候補生学校、術科学校は、第1、第2、第4の各学校となり、少年術科学校も設置された。

 私が赴任したのは1月という寒い時期であった。米軍は撤退まで使っていたということで施設は完備しているだろうと思っていた。ところが、来て見ると何もかも空っぽで全く驚いた。米軍では撤退と決まるとその6ヶ月前から整備を行わないということで、赤レンガ2階にある校長室も雨漏りによる水が溜まって使用不能だったことから週番生徒室が代わりに充てられた。その年は特に寒い冬だったので暖房をということになったが、ヒーターが通っていないことから、部屋に小さい火鉢を入れることになった。折角部屋が暖まった頃、時々当直海曹がドアを開けに来たのだが、校長が一酸化炭素中毒で倒れないようにとの心遣いであった。

 そのほか、例えば教育参考館は、駐留軍のPXであった関係上、戦前の姿は全くなく、陳列されていた収蔵品は終戦時には既に散逸してしまってゼロという状態であった。表桟橋付近には台風による2メートル余の大穴があって、潮がヒタヒタと波打っている有様は哀れでもあった。

 このような状況で、相次いで横須賀から移動してくる学生生徒の受入れ準備に多忙を極めている頃、写真家真継不二夫氏が来校して、約1週間に及ぶ滞在中に舞台裏ともいえる所を探って、移転用梱包、むしろ、縄などを積み重ねてあるところとか、外出中の隊員が映画館前に立ち止まっているところとか、休憩時間中の隊員の遊戯(当時、呉教育隊隊員が臨時に在校していた)などを写して、厳正溌剌とした戦前の兵学校生徒と対比した写真を文藝春秋に掲載された。いかに寒い時期の移転という最悪の事態にあったとはいいながら、指摘された点はいずれも心しなければならないことだと反省させられる一方、この容赦のない痛棒に応えて今に見ておれ、戦前の海軍兵学校生徒生活には及ばないまでも、流石に海上自衛隊術科学校だと謳われるように整備していこうと決意を新たにしたのは私だけではなかった。

 今日もなお忘れ得ないのは教育参考館の復興についてである。終戦時、当時の兵学校教官が東郷元帥の遺髪を鹿児島市に託していたことが分かり、長沢海幕長のお勧めもあって、当時の勝目清鹿児島市長にお願いしたところ、「鹿児島では、ご遺髪をご神体として東郷神社を建立する計画があるが、お話を聞いて、ご遺髪は前に納めてあった所へお返しするのが一番正しいことである。」と理解を示され、元帥のご遺髪を快くお返し頂くことができた。これを教育参考館の中枢にすえることができたのは幸いであった。

 教育参考館復興の話がだんだん広がるに従って、大三島神社や厳島神社からは兵書が返還され、有志の方々からは、勝海舟はじめ海軍の大先輩の書画が寄贈され、旧海軍館(東京)にあった有名画家執筆の戦争画が手に入るなど、次々と整備されていった。戦前、兵学校のために横山大観画伯が、特に心魂をこめて執筆された富士山の額も幸い手に入ったが、この大作は今もなお輝かしい存在である。

 更に、昭和45年度の計画によって50、51年度の2年計画で2億6,000万円の工費で画期的な改修が行なわれた。開設当初は、額を掲げる釘を買う予算がないので、暫くは壁に立てかけて置いたことを思い起こすときよくもここまで成長したものだと感慨を深くしたものである。

※本稿は、小國寛之輔「江田島創設時の思い出」『波涛』(昭和53年11月)の一部を許可を得て転載したものです。