元海軍軍医中将保利信明(長崎医専大正元年卒)の回想。

 大東亜戦争中一番困ったことは定員の増加に伴う人員の補充難であった。海軍の平時定員は15万人位で、定員300人に対し軍医1名と云うのが標準だったので、軍医の定員は合計500名足らずであった。ところが戦争が進展するとその定員が4,000名位になったので、古い在郷軍医官を召集したり、大量の募集を行なった。募集員数は開戦時350名位であったが、次年度は600名、三年度は1,000名と激増して陸軍と奪い合いになった。陸軍は一年志願で除隊した医科出身の在郷兵をどしどし召集して内地では若い開業医がいなくなったと云ったということだ。そこで臨時医学専門学校をつくって軍医の急造を企画した。また各大学内に専門部をつくった。歯科医卒業者は二年の実習教育で軍医にするなどの窮余の処置を講じた。また海軍共済会病院に勤務している医者は陸軍に取られないよう予備軍医として保留した。各大学には研究部員として優秀な医者が沢山いたので特別待遇して召集しようかと試みたがこれは実現しなかった。

 次に困ったのは医療品の不足である。平時我が海軍の医療品は夫々指定のメーカーから納入させていた。ところが開戦と共にその需要は激増し外国製の高級品の如きは入って来なくなった。そこで開戦後東京と大阪に療薬廠をつくって、薬品の自給自足を図ったが多少効果が挙がった程度で全能を発揮するに至らず終戦になった。

 開戦3年目の終わり頃から内地の航空隊や海兵団等に妙な病気が流行しだした。栄養失調により全身衰弱して戦力にも悪影響を予想されるに至ったので調査の結果、これは居住、睡眠、労働、被服等の欠陥に関係のあることが解ってその対策を講じた。

 孤立無援となった外地における栄養失調は前々から解っていたのでそれとは区別した。死亡者もかなり出たが戦後救護法において「戦病死」の取り扱いを受けるようになった。ウェーキ島の守備隊には失調症が特に多かった。同島は猫額大の不毛の孤島で後方連絡が途絶えてからは手持ちの糧食で如何にして生きのびるかが大問題となった。軍医長宮崎軍医少佐はこれと取り組んで隊員の配置勤労度その他色々の条件に応じて個々に食糧を加減し、どれまで切り詰めても生きられるかを丹念に検討した。非常な難行であったが終戦まで持ちこたえた。この記録は非常に貴重な文献となり、そのため戦後学位を与えられた。

 南方戦地ではマラリア、デング熱が流行して相当に戦力を減耗した。内地に後送された傷病兵の収容施設には余り困らなかった。それは先手を打って別府、熱海などの大温泉地を始め軍港その他大部隊の所在地に近い温泉地の大旅館を接収し、持ち主もまた喜んでこれに協力したからである。戦争末期になると敵潜水艦による輸送船の海没事故が多く後送患者も少なくなった。

※本稿は、『帝国海軍提督達の遺稿 小柳資料』(2010年、水交会)の一部を許可を得て転載したものです。