山本権兵衛は海軍建設の第一人者といわれるが、伊藤正徳は「日清戦争も日露戦争も五十パーセントまでは山本の力で勝ったといっても過言ではない」と言う。
山本は1898年(明治31年)46歳で第2次山縣内閣の海相に就任し、その後日露戦争が終結するまでの約8年という長きにわたって事実上の海軍トップとして活躍した。山本は若い頃から、海軍の仕事の中で改めた方がよいと思ったことは遠慮なく所属長に進言し、その採用については上司が判断することだと割り切っており、その功績は、肉じゃが、カレーライスに始まり、英国炭、秋山真之・広瀬武夫らの海外派遣、製鉄・造船業の育成、日英同盟海軍条項、東郷平八郎、海軍軍令部の独立、海軍予算の拡充、明治天皇の海軍軍服着用等、枚挙に暇がない。その中でも大佐時代の「海上権」の主張は、「陸主海従」として海軍を軍隊輸送の護衛をするだけの補助機関としてしか見ていなかった陸軍の考え方を転換させるきっかけとなったものである。
日本と清国の関係が切迫してきた明治27年7月上旬、陸海軍の作戦方針を聞く重要閣議の席に西郷従道海相は山本海軍省主事(大佐)を伴って出席した。まず陸軍から川上操六参謀次長が滔々と、あえて敵前上陸をも辞さないかのような口ぶりで陸軍の作戦計画を論述しはじめた。
江藤淳著『海は甦える』(1986年、文春文庫)によると、川上の発言が一段落すると山本は問うた。
「陸軍には、工兵隊の使えるのがありますか」
「もちろんあります」
「しからばその工兵隊を用いて、九州呼子港から対馬に橋を架け、対馬からさらに朝鮮の釜山に架橋したらどうです。そうすれば、わが陸軍を大陸に送るのになんの苦労も要りますまい。」
一座は唖然とした。権兵衛は内心してやったりと思った。
「およそ海国にあって兵を論じる際、いやしくも海を越えて敵に対抗しようとするなら、まずもってその海上権を制するのを第一義といたします。」
閣僚たちは、「海上権」という耳馴れぬ言葉を聞いて怪訝な顔をした。
「したがって、いかに精鋭な陸軍を擁するとしても、かならず海軍がその海上の安全を保障する必要があります。この条件の欠けた派兵が失敗に終わった例は枚挙にいとまがありません。」
西郷大臣は、例の茫洋とけぶった顔で満足そうにしきりと鼻の頭をこすっていた。
「そもそも戦時における海軍の最急務とは、いかなるものでありましょうか。いうまでもなく敵の海軍に対抗して、いち早く海上権を把握することです。さらには進んで敵の領土に迫り、これを制圧し、あるいは機に応じて陸戦隊を揚陸し、わが陸軍を掩護して敵の陸軍を攻撃し、その他敵地の占領に従事し、あるいは敵国と他の外国との物資輸送を妨害し、我が国と外国との交通を円滑ならしめる等、直接間接に敵国に対して施すべき策の範囲は、すこぶる広汎にわたります。かかる任務を有する海軍を、単なる陸兵輸送のための補助機関とするのは認識不足も甚だしいと言わねばなりませぬ。」
閣僚たちは水を打ったように静まり返り、川上は苦笑していた。
「いま彼我の兵力を比較するとき、清国海軍はその全水師をあげれば隻数においてわれに三倍し、トン数においてもはるかにわが常備艦隊を凌駕しております。かかる場合に際し、敵の海軍がいまだ健在な方面において、わが陸軍をあげて敵前上陸を企てようとするかのごとき壮語を聞きます。」
権兵衛は、あの射るような眼で川上を一瞥すると、いった。
「その意気の盛んなのはあっぱれと言うべきでありますが、これこそ海上権のなんたるや、また海軍の任務のいかなるものなるやを解せざる、暴虎馮河(ぼうこひょうが)の幻想に過ぎません。現下の情勢は、清国という東亜の大国に対して、わが国家の総力をあげてことに従うべき秋(とき)です。海陸各般の計画施設に関し、よろしく協力一致して以って齟齬違算なきを期さねばならぬと考えます。」
川上が「権兵衛どん、もう降参じゃ。おはんの言う事はようわかった。」というような顔をして大きく肯いた。それを見た閣僚たちの間に、一瞬安堵の色が流れた。
次の日、大山巌陸相の求めに応じ、山本は陸軍参謀本部で「海上権」と海軍の作戦計画の詳細を説明した。権兵衛の提示した「海上権」という概念は、閣僚たちや陸軍統帥部の頭をいわばコペルニクス的に転換させていた。ほとんど信じられないことであるが、それまで彼等は世界には海というものがあり、日本はその海に四面を囲まれていることをすっかり忘れていたのである。