海軍の関係の深かった安岡正篤は、終戦の詔勅の刪修(さんしゅう、添削のこと)者として知られている。安岡は、終戦の詔勅について、内閣官房の原案に「万世の為に太平を開かんと欲す」、「義命の存する所」の二句を追加しようとした。

 前句は宋の張横渠の言葉。後句について安岡は次のように説明している。「これは道義の至上命令、良心の最も厳粛な要請の意味。戦いに負けたからこうするというのではない。これ以上に戦を続ければ屍山血河の果てに屈するからやめるというのでもない。場合によっては、堂々と勝ち戦をしておってもやめる。戦えば戦えるという場合でも、道義、良心の命令とあれば敢然としてやめる。これが義命であります」安岡は、この二つの言葉だけは絶対に失ってはならぬと厳請した。

 案が閣議にかけられた。前句に関しては、戦に負けてこのように言うのはいかにも大ボラめく、後句に関してはこんな言葉は聞いたこともない、といった閣僚の反対があった。

 結局、二句とも不可となれば安岡も承知すまい、ということから、前句は入れ、後句は「時運の赴く所」と改められた。

 安岡は言う。「時運云々」は、いわば風の吹き回しでということだ。風の吹き回しで降伏するというようなことは、日本の天皇にあるべき言葉ではない。後世の学者がこの御詔勅を学問的に取り扱った場合、識見のある学者がいたならば、日本天皇の信念行動の厳粛な道より観て、この詔勅の「時運の赴く所」はいけない、当時の起草者、起草に携わった学者に識見がなかったことを証明するものだと言うだろう。自分が後世の学者だったら必ずそう思う。もってのほかである。そうして次のように言う。

 「御詔勅の起草に携わったことを大変に名誉なことと言う人もありますが、私には実に永遠に拭うことのできない恨事であります。千愁万恨という言葉がありますが、深く私の心、魂を傷つけたものであります。」

 言葉の使い方はかくも難しく、慎重にしなければならないという話。 

※本稿は、谷光太郎「安岡正篤と海軍(3)」『水交』(平成13年10月)の一部を許可を得て転載したものです。