私(元海軍大将吉田善吾(海兵32期))が第三艦隊参謀(少佐)にとられたとき、村上格一長官は小柄でチョコチョコして堂々たる将軍らしいところはないが、細心雄大で、すべてやることは計画的実質的で、私にとってはよき戒めであり、初めて学ぶべき提督に仕えた。

 佐世保在泊中、「山」(萬松楼)に行こうと誘われて長官と一緒に上陸して街をうろついている時、私が、折角計画し起案して持っていっても中々参謀長に容れられぬと不平を洩らすと、長官は「そうかね、僕は立案してかつて通らなかった事はない。上司というものは、下のほうから何か良い案を出してくれないかと待っているものだ、そして大抵は受け入れられるものだ。受け入れられないことがあっても上司を怨んではいけない。自ら反省して足らざるところを究め、自分を正しくやれ」と諭された。

 陸奥湾で第一艦隊(吉松長官)、第二艦隊(八代長官)、第三艦隊が集合したことがある。かなり時化ていたが、第一、第二艦隊では上陸を許したので、村上長官も不承不承上陸を許されたが、余計なことに参謀が「長官は上陸を希望されず」と付け加えて信号を発信した。これでは、信号を受けた方でどうしてよいか分からなくなる。これなどは不味い例だ。

 旗艦「金剛」の艦長(大佐)をしていて特に感じたのは、艦隊長官や参謀長の幕僚に対する指導よろしからずということであった。幕僚のやることがてんで勝手で、縦の連絡がない。艦隊が出動訓練作業中に、参謀が×サヨカ×とか、×サヨホ×とか下らないことを盛んに信号する。戦闘は、万事簡潔に長官の命令を以って明示すべきもので、参謀あたりがチョコチョコ小細工すべきではない。参謀長は、参謀に任せきりではダメだ、自ら引っ張って各艦長を指揮する心構えでおらねばならない。長官、参謀長、参謀が一本になってやるように引き締めた積もりだ。聯合艦隊参謀長の時、先任参謀の山口多聞などは大部不平らしく、時々食ってかかってきたが、私は頑として旧習を止めさせた。あまり幕僚以下で下相談するなと厳達した。

 海軍大臣(中将)のとき、時々次長以下でまとめた軍令部の意見なるものを持ってくるがどうもおかしい。総長(伏見宮)がこんな杜撰なものをお許しになる筈はないと思ったので、「なぜ総長の見ないものを持ってくるか、まず総長に見せよ」と突っ返すと、なるほど総長は不同意でしたと後で謝ってくる。あまり総長の宮にご面倒をかけてはとの下僚(かりょう)の心遣いからであろうが、これは要らざる遠慮というものだ。事の大小軽重にもよるが、下僚に任せるにもすべて程度というものがある。

 その点鈴木貫太郎大将はハッキリしていた。下の者の起案に対しては、大きなところは遠慮会釈なくどんどん直された。英米海軍の司令官や長官は自ら信号すると聞いている。しかし、これは中々デリケートな問題で余程手心を要する。若い経験の少ない、根本を知らない参謀が何もかも上手く出来る筈がない。最高指揮官は自らしっかりと根本を握って、その運用は環境に応じて適当に調節をすることが肝心と思う。 

※本稿は、『帝国海軍提督達の遺稿 小柳資料』(2010年、水交会)の一部を許可を得て転載したものです。