私(中村悌次(海兵67期)元海幕長)が海軍に入ったのは、しっかりした考えがあってのことではなく、親しい友人の勧めるままに兵学校を受けた次第である。入校して先ずショックを受けたのは、ある指導官から「お前たちは色々の動機でやって来たろう。短剣をつってよい格好をしたい、遠洋航海で外国に行きたい、中には大臣、大将になりたいというのもいるだろう。そういったことは今すぐ全部忘れてしまえ。そして、太平洋の藻屑となると覚悟しろ」と訓示されたことである。えらいところに来たとは思ったが、毎日の生活に追われて深く考えることもなかった。
支那事変が始まったのが次の年である。少尉に任官したばかりの63期が陸戦隊の小隊長で、あの人が戦死したとかいう話はすぐ伝わり、他人事とは思えなくなった。卒業すれば部下を持つ。弾丸の飛んでくる中で自分は与えられた責任を果たし、部下の前で恥ずかしくない振る舞いができるであろうか、これが頭を離れない課題となった。
事変が一段落すると交代が行なわれ、兵学校にも歴戦の勇士が教官として着任され、これらの方から参考館の講堂で全生徒が夜の自習時間に戦闘の経験や教訓などを承った。今日でも印象深く覚えている、「戦場で最も頼りになるのは、平素大言壮語する人ではなくて、黙々と自分の責任をしっかり果たす人である。」という趣旨の話の中で内田一臣少尉(海兵63期、元海幕長)の名が出た。彼は平素はおとなしく大きな声も出さないような人で、こんな人に戦争ができるのかと思っていたが、いざ戦闘になったら一番勇敢に任務を果たしたのは彼だったというのである。その内田さん自身の回想は水交会編『戦場心理』に次のように書かれている。
初陣でいきなり第一線に出された。轟然たる銃声。すでに敵味方の遺体が入り組んでいるから一時白兵戦もあったのであろう。わが部下は仰天してしまい、銃を担いだままただ茫然と突っ立っている。あわてて無我夢中で叫んだ。「伏せ、伏せ、そちらの機銃は塹壕の中に入れ!」だが号令など届かない。即座の身振り手振りである。無我夢中という事は自分が無我夢中であることも忘れているということである。
前線に駆けつけたとき、兵学校二期上級の中隊長はただ一人で立っておられ、私を見て一言「あっちだ」と左の方を指されただけであった。私も「ハイ」の一言であった。面識のない中隊長であったが、この一言で意思は通じた。その無造作な命令が私を一心不乱にさせた。戦場では、命令ほどありがたいものはない。そしてそれが、中隊長とこの世で交わした言葉の全てであった。
私たちは黍畑の中を前進した。中国の兵隊は弱いものだと聞かされていた私たちは、その日も対手はいずれ退却するものだと決めてかかっていた。だから黍畑の中の前進が転瞬にして生死を分けるものになるとは夢にも思わなかった。六、七十米ほど前方の民家のバルコニーにどかどかと上がってきた数名がある。何かの司令官らしい風格もある。あれを撃て、と機銃に命じた。射手の西郷一等水兵が撃ちだした。二、三人が倒れた。
しかし、次の瞬間、私の機銃の銃口の直前に、畑の土が跳ね上がっているのを見た。何だこれは…。あっと気がつき、私は、誰からも教わったことのない命令を無意識に口から出した。「下がれっ」それは、敵の機銃に狙撃されている土煙であった。敵の射撃が拙いために生き残った。後で分かったことであるが、この日、中国軍の師団長が戦線視察中戦死しているから、この司令部の人々であったのだろう。この人々は、長かるべき人生の全部をほんの三十秒ばかりの邂逅に供してしまったのである。私は私で、虎穴に入らずんば虎子を得ず、などというもっともらしい後でつけた教訓を今もって信用していない。二十二歳の小隊長は、ただ無我夢中であっただけである。お手柄の射手西郷一等水兵は後退してから不幸にも弾を受け、名誉の戦死をとげた。
中隊長は危険な場所に悠然と颯爽と立っておられたが、案の定、鉄兜を弾が貫き即死された。部下の手前、それ相当の態度、姿勢は必要であるが、指揮官のあまりにも颯爽とした姿は禁物である。一木一草をも利用し身を隠す戦場の心得を軽視すべきではない。それは逃げるのではなく、弾と競技する心境である。
中村氏は、これ以外にも「七分三分の兼ね合い」など幾多の経験談を披露されているが、以下のように締めくくっている。
要するに私の言いたいのは、任務を持ってこれに集中している時には、怖いなどという感情が入り込む隙間が無いこと、そして戦闘で頼りになるのは平素の訓練で鍛え上げた自分と部下の練度だけである、ということである。従って平時が続いている中でも、与えられた任務は身を挺しても完遂するという隊風を確立し、自分自身を含め訓練に真剣に取り組みどこにも負けない自信を培うよう努力を続けるならば、何が起こっても決して不覚をとることなく、国民の負託に応えうることと確信する。
※本稿は、中村悌次「戦場心理」『波涛』(平成20年1月)の一部を許可を得て転載したものです。