明治40年我が国が初めて「帝国国防方針」という国防の基本方針を策定した際に、当時の海軍としての思想的背景となったのは元海軍中将佐藤鉄太郎の『海防論』、『帝国国防史論』等であったといわれている。これら一連の論文が発表された時期は、日露戦争における勝利をきっかけに、我が国が膨張的な風潮に流され始めた時代であり、軍においては陸、海軍の間に主導権争いが生起しかけ、帝国国防方針の策定は妥協によりようやく決定を見たという経緯もある。
海洋国家としての我が国の国防を考えていた佐藤にとって陸軍主導の状態が続けば、将来に禍根を残すおそれがあることを憂えていたことは当然であろうし、島国の国防という我が国国防の特質を陸軍、政治家、国民一般に是非とも理解させることが必要だと考えていたものと思われる。
佐藤が、『帝国国防史論抄』で述べた国防の目的は、「敵兵をして一歩も国内に侵入せしめざるを主とし、その威力を以って国利民福の増進を保佑し、国栄を維持し、国家の当然享有すべき権利は如何なる場合に於いても、他邦の容喙(ようかい)を許さざるに至りて大成する」としている。少し時代は遡るが、明治18年、福沢諭吉は時事新報に次のような社説を掲げている。「日本に兵備の必要なるは、此兵を提げて隣国に攻入り割據侵略をなさんとするにあらず。唯此兵を以て国を護り、永久独立の栄誉幸福を維持せんとするのみ。」新たな国家形態を整えようとしていた時代、国力発展に大きく歩を踏み出した時代と二人をとりまく情勢は異なっているものの、ともに言わんとするところは同じである。
衛藤瀋吉東大教授は『無告の民と政治』で「非介入の理論」として次のように述べている。「かつて英国はフランスに領地を持っていた。(略)英国は大陸の権益を失ったのち、はじめて島国として安定することができた。後の七つの海への雄飛を準備することができたのである。日本もまた大陸に権益があった頃、満州を日本の生命線と呼び、日本みずからアジアの盟主と称した。戦に敗れて、力をもって得たあらゆる物を失い、この小さな四つの島を残すのみとなった。しかし、かくしてアジア大陸の錯雑した政治から切り離されたとき、はじめて日本人は武力や政治力なしに、ただ商品の質と値段のみで五大州にその生産物を売り広めることができた。(略)日本は非介入(non-commitment)の特権を十分に利用すべきであろう。」これなども島国日本の国防のあり方として佐藤鉄太郎の考え方と共鳴する部分が多々あるのではないだろうか。
さて、佐藤の軍事戦略に関する考え方を通観してみると、その第一は積極的防衛の思想である。その考え方を実現するための方策としては、「(国防の)第一線は如何なることを主眼となすべきやの問題は、「敵海を制するにあり」との一言を以って決定すれば充分である」といって制海のための海上兵力の完備を主張している。
その第二は、「守防自衛の目的を果たすためには、攻勢作戦を行ふ必要あるは無論である。要はただ自強自衛の意義を根本的に解釈玩味し、造次顚沛(ぞうじてんぱい、ほんの少しの間)も之を忘れざるを第一なりと信ずるのである」といい、防衛における攻勢作戦のもつ意義を強調している。
第三には、陸海の兵力を機動力として考えていることである。「海上における移動兵力」という考え方あるいは「帝国国防の幇助機関たる陸上移動軍」という考え方を示しているように、防衛のための陸、海の兵力を機動兵力として考えていることである。この機動力こそが、陸、海兵力の行動の自由を得させることになり、また機動力による積極的防御によってこそ自衛が完成するということである。
さらに注目すべき意見として次のように述べている。「我に優勢なる海軍ありて、敵を監視し、敵をしてその大軍を輸送すること能はざらしむるときは、完全に防守自衛の目的を遂げ、我国民は枕を高くして安眠することができるのである」といい、完整された海上兵力による現存艦隊の防衛に果たす意義と、平時における海軍の最大の任務ともいうべき監視という考え方を大きく打ち出していることである。
そして『国防史論抄』の諸言を次のように締めくくっている。「終わりに臨み、我同僚たる海陸軍将校諸君に一言せんと欲するものあり、凡そ国防問題の研究をなさんと欲するに際しては、その身の海軍将校たり陸軍将校たるを忘れ、ただただ国軍を成形する一分子なりと自信すると同時に、その観念には決して陸海軍の区別なきを期せざるべからず。もし万一この点に対する注意を怠り、各軍の軍に私するの傾向にありたらんには、決して国防問題を正解するの資格なしと自覚せざるべからず、これ吾輩の大いに苦しんで修養し得たる處なるが故に、特に諸君に対し注意を促すの必要を認む」というものである。
時代が移り変わり、戦争様式の変化など国防に関連する要素の多くのものが変化している今日でも、日本が島国であることに変わりはなく、佐藤の考えは基本的に通用するものと考えられる。佐藤鉄太郎は、帝国国防史論抄において、具体的な軍事政策としての国防の三(五)線論や、海陸軍それぞれの軍備のあり方、そしてなにより積極的防守自衛の考え方について大変に興味深い意見を述べている。
※本稿は、原哲朗「温故知新「帝国国防史論抄」」『波涛』(昭和53年3月)及び伊藤皓文「佐藤鉄太郎の国防理論」(『海幹校評論』第4巻第5号))の一部を許可を得て転載したものです。