マハンには多くの「称号」が与えられている。海軍戦史家、海軍戦略家、世界政治の評論家、哲学者、思想家、帝国主義者、海軍至上の海軍主義者、黄禍論を唱えた人種差別主義者、アメリカの歴史に最も影響を与えた扇動家、等々。
マハンは自叙伝的回想録“From Sail to Steam: Recollections of Naval Life”(1909)において、誇らしげに二つの海上権力史論(「海上権力史論(The Influence of Sea Power upon History, 1660-1812)」と「仏国革命及帝国海権史論(The Influence of Sea Power upon the French Revolution and Empire, 1793-1812)」を指す)が熱狂的に受け入れられ、知る限りでは他のいかなる言葉よりも日本語に翻訳された。私の知る限りでは日本人は私の説にどの国の人よりも緻密で注意深い関心を寄せたと満足気味に回想している。
マハンの「海上権力史論」を水交社幹事の肝付兼行(元海大校長・中将)は、「海軍進歩の暗辺を照らし其理を以て吾人心裡の迷露を払ふ」ものであり、「海軍史渉猟の金針とすへき」ものであると紹介した。また「水交会記事」には「マハン大佐は、前人未踏の新版図を開拓せり」、「前人未発の富及び力の要素なる海権と歴史の関係を宣明せり」、「マハン以前にマハンなく、マハン以後にマハンなからむ」との賛美の文章が掲載された。
マハンに直接師事した秋山真之大尉(海兵17期)(のち中将、軍務局長、第2戦隊司令官)も、山屋他人少佐(海兵12期)(のち大将)宛に「小生に一から十迄は大佐の所説に敬服致さず候得共…大佐が斯学の為めに終始倦むことなく、常に筆を採りて憚ざるの根気には少壮の吾人も到底及ばざる処と感服致候」と賛美する手紙を書いている。このように明治海軍はマハンを称賛し、マハンは日本海軍の「シーパワーの神様」となった。
マハン自身も、“Problem of Asia”(1900)では、日本のみがアジアで西欧文明を取り入れられる国家であり、西欧諸国と連合し野蛮なスラブを阻止しうる国家である。組織化された形で進歩の準備を整えている国は日本しかないと称賛した。
しかし、日本海軍が日本海海戦でマハンの予想を上回る大勝を収め、日本からの移民がアメリカ西岸に急増すると日米関係は一転悪化し、このような風潮を受けてマハンは論調を変えていった。日米の対立が激化する昭和に入ると、マハンはロシアに好意を持っていたので日本海軍の駆逐艦の活用を下算した、あるいはロシア艦隊が津軽海峡を通過すると誤判断した等とマハンの判断や見積りの相違を指摘する論文が「水交社記事」に掲載されるなどマハンに対する批判記事が増えていった。
マハンは1914年に死去するが、彼の書簡集を編纂したRobert Seager II教授は、大西洋でドイツ海軍を、ミッドウェーで日本海軍を破った大艦隊が堂々と東京湾に向かって太平洋を西進する様を見たら、そして東京湾の「ミズーリ」艦上の日本降伏の調印式を見ることができたならば、いかにマハンが歓喜したであろうかと書いている。
さて、戦後のマハンであるが、1978年には防衛大学校教授の外山三郎によって『海軍戦略』が、1982年には元自衛艦隊司令官の北村謙一によって『海上権力論』が復刻発刊された。そして、『波涛』や『新防衛論集』などに周期的にマハンに関する論文が掲載され、論者は自己の理論を権威付けるためにマハンの名前や文章を引用するなど、マハンは再び日本国海上自衛隊の「シーパワーの神様」となったのであった。
※本稿は、平間洋一「マハンが日米関係に及ぼした影響」『波涛』(平成9年9月)の一部を許可を得て転載したものです。