太平洋戦争を通じ海軍航空関係の幕僚だった奥宮正武元海軍中佐(海兵58期)が『日本海軍が敗れた日』の中で、歴戦者は必ずしも勇者ではなかったということを語っている。

 わが陸海軍では、武功抜群の将兵には、諸外国軍と同様、金鵄勲章の授与を含む各種の表彰が行われていたが盲点があった。それは、金鵄勲章についていえば、生存者には、最高が佐官では功三級、尉官では功四級、下士官では功六級等と定められ、かつ、同じ階級にいる限りは一回しか授与されなかった。

 従って、いったん最高限度の勲章に値する武功をたてた後は、いくら抜群の武功が追加されても、進級しない限り、生存中に新たな表彰が追加される望みは全くなかった。そのため、その階級での最高の金鵄勲章の受章がほぼ確実になることを「満願になった」という者さえいた。そのことは、その後の作戦行動は、金鵄勲章の受章を前提とする限りでは、「ただ働き」である、という意味であった。

 人間が感情の動物である限り、そのように考える将兵がいたとしても、彼らのみを責めることはできなかった。そして、そこに歴戦者が必ずしも勇者でない理由があった。

 奥宮氏は、以上のように指摘して、結局、我が国は、長年月にわたる大戦争を行う器量に欠けていたと言っても過言でなく、歴戦の将兵をよりよく評価する方法が考えられるべきであったと述べている。

 考えてみれば、戦争の期間は、日清戦争が約八カ月、日露戦争でも約一年半であり、このようなことはほとんど問題にならなかったのだろう。また、長期にわたった第一次世界大戦でも、交戦期間そのものは短かったので、将兵の士気を鼓舞するという面からは効果があったものと考えられる。

(奥宮正武著『日本海軍が敗れた日』(1996年、PHP文庫)より)