戦後第1回目の遠洋練習航海は、海上自衛隊創設後、僅か6年目(1958年)に実施された。当時、敗戦のショックはなお根強く残り、諸外国の対日感情等、問題山積の中で遠航実施に踏み切ったのは「Coastal NavyからBlue Water Navy」への脱皮を願い、「子供を立派に育てたい」という帝国海軍先輩の悲願が実を結んだ結果といわれている。

 旗艦「はるかぜ」は国産一号艦のため問題が多く、同行したPFは老朽化のため、ハワイまで到着できるかと心配された。なにしろ機械を出港前夜徹夜で修理していた艦もあり、故障艦が出た場合には僚艦で曳航する事態をも覚悟していた。中山定義練習隊群司令(海兵54期)は、見送りの長沢浩海幕長(海兵49期)に浦賀か館山に「寄り道」することがあるかも知れぬ旨をあらかじめ諒解を取っていたという。更に帝国海軍最後の遠航から19年が経過し、参加幹部中、遠航経験者は数名に過ぎず、中山群司令(当初練習隊群と呼称、第5回から練習艦隊に改称)の苦心は大変なものだった。

 編成や人事が概ね固定したのは出国の二ヵ月半前で、自衛艦の国際法上の性格については次のような長官指示があった。「今般ハワイ方面練習隊群遠航部隊の国際法上の性格については、自衛艦は国際法上の軍艦として取り扱うこととなったので、同部隊は航海期間中、外国領海又は公海においては軍艦として国際法及び国際慣習に準拠して行動されたい。」

 出港日の1月14日は、遣米使節団を乗せ「咸臨丸」がサンフランシスコへ船出したのと同日であった(咸臨丸の出港日には異説あり)。冷たい雨の中での出港であったが、某実習幹部が「雨、故国にしばらくの別れを告げる。今、日本の自衛隊が海軍として歴史的な一瞬を乗り出した」と日記に記した如く、98年前の「咸臨丸」乗員の「我が国の軍艦で外国訪問」というチャレンジ精神は昭和の遠洋航海部隊に漲っていた。

 遡ること80年前の明治11~12年、日本人だけの手で始めて欧州を訪問した国産艦「清輝」を見学した欧州人が、整然と束ねられたロープを見て日本人に信頼感を抱いたのと同じく、練習艦隊に来艦した米国人は、保存整備が行き届き綺麗な艦内を見て親日感情を抱き、日系人は祖国日本の興隆の姿を遠航部隊を通じて認識する機会を与えられ、我が事のように喜んだ。

 ハワイ・ヒロ寄港時のアットホームでは、時間を延長したものの乗艦できない市民が桟橋にあふれた。その数約15,000名であった。また、軍艦旗と同じ自衛艦旗を掲げた国産護衛艦の甲板に頬擦りした日系人の老人の話や、士官室の錨マークの食器を記念品にと貰いうけたりした等の逸話が伝えられている。カーツ米太平洋艦隊司令官は、「この艦隊でよくハワイまで来られたものだ」と「称賛」したという。 

(植田一雄(兵74)「遠洋航海にみる伝統の継承」海軍兵学校連合クラス会編『回想のネービーブルー』(2010年、元就出版社)、水交会編『聞書・海上自衛隊史話』(1989年)より)